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息が詰まる。
「松原さんの奥さんが見ていたみたいでねえ、佐藤さん家に引っ越し屋さんが出入りするのを」
松原さん。営業部の部長、だったか。
横の繋がりは本当に恐ろしいのだと、改めて思い知らされる。
「社宅は、家賃も安いし本社も近いじゃないか。みーんな優しいし。それにまだ佐藤さん家は引っ越して日も浅いじゃないの。引っ越す理由がどこにあるのか、ねえ」
視界に飛び込む、嘲るような笑み。
ああまた、こみ上げる胃酸を飲み込む、違う、これはつわりだからだ。大丈夫。波が過ぎれば、
「考え直したら?…それとも何?ここの人間関係に何かあるの?」
あれから毎日のようにチラシに紛れ込まれている赤の4文字、『早く去れ』、それが鮮明に浮かび上がった。
吐き気は限界を越え、その場にうずくまるしかなくなる。「…佐藤さん?」奥さんの声色が変わる。
ただ、つわりが悪いだけだ。大丈夫。それに、そこまで悟られるのは怖い。
季節は秋だ。ひゅう、と冷たい風が通り過ぎる。涼しいはずなのに、冷や汗がぶわっと吹き出て止まらない。
「…少し立ちくらみがしただけで。大丈夫、ですから」
『大丈夫』の3文字を、私は自分にどれだけ言い聞かせてきただろう。
「大丈夫そうに見えないけれど」、その声色は怪訝さを孕んでいる。…怖い。
「柏原さん、私は大丈夫ですから、ね?」
早くその場から去ってほしかった。立ち上がったら、吐き気を押さえられそうになかったから。
路上に吐瀉物をまき散らすわけにも行かない。吐き気の波が過ぎ去るまで、このままうずくまっていたい。
だけれど、柏原さんは優しかった。残酷だと思った。私が立ち上がりやすいように手を差し伸べてくれていた。……無碍にすることができなかった。手を取って立ち上がった瞬間、うえ、とえずいた。胃酸を飲み込み、吐かずには済む。
「ありがとうございます」となんとか言い切るけれど、どうしようもない吐き気に苛まれる。
柏原さんは、言いづらそうに、私に決定的な一言を尋ねた。
「……もしかして、つわり?」
私は、頷くことしかできなかった。
話したいことがある、と柏原さんに言われ、私は柏原さんと自宅の玄関で立ち話をすることになった。
「…ここはね、何もないから。どうしても世間話の中心は噂話になることが多くてねぇ」
「ええ」
頷いておくしかない。
「どうしても主人の役職が上だから、誰も言えないんでしょうね。でも噂話で済めばまだいいのよ、噂話で済めば。でも」
でも、の言い方に影が見えて、私はひどく不安になった。柏原さんは麦茶に口を付ける。
「近頃は昔受けた仕返しとばかりに、若い奥さんに嫌がらせをする人もいるらしくてねえ」
さらりと柏原さんが大変な事を言うから、私は思わず耳を疑う。
「私夫婦も上司の奥さんからの嫌がらせに遭ったことがあってね。部長連中の奥さん、ほぼ全員そうじゃないかい。ここには若い人が住み着かないから、誰かが憂さ晴らしに嫌がらせして追い出してるんじゃないか、って。」
ぞわっ、と、鳥肌が立っていくのがわかった。私達が引っ越すのは決定事項だ。それすら、誰かの手のひらの上で転がされていたなんて……。
柏原さんは、最後に爆弾を落とす。
「佐藤さん、かなりつわりがひどそうね?それなのに引っ越すのは何故?」
私は無言で、まだ開いていなかったチラシを取り出した。案の定、赤い絵の具か何かで『早く去れ』と書かれたチラシが出てくる。それが答えだ。柏原さんの語る噂話の真相も、私たちが去る理由も、全て。
赤字を見て、結局また吐き気がぶり返して、私はトイレに駆け込んだ。
「うえぇ…っ」
吐き出したのは、SOSか、胃の内容物か、両方か。
ぽたり、と涙が落ちて、便器の中に醜い文様を作った。
「佐藤さん!」
柏原さんが、トイレのドアを叩いた。
「こんな馬鹿馬鹿しい憂さ晴らしに負けてどうするの!あなたはもう母親なんだから、自分で作った子ども一人守れるくらい強くなりなさい!」
その言葉が、脳に響いて離れない。
それは怒りだった。弱い私への、嫌がらせを続ける見知った誰かへの。
そうだ、私はもう母親なんだ。強く、ならないと。大丈夫。大丈夫。必死に言い聞かせる。
「…はい」
鼻声になってしまったけれど、私はなんとか返事を返した。