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霞町の暮らし  作者: 佐宮 綾
1丁目 社宅
3/8

3


 息が詰まる。

 「松原さんの奥さんが見ていたみたいでねえ、佐藤さん家に引っ越し屋さんが出入りするのを」

 松原さん。営業部の部長、だったか。

 横の繋がりは本当に恐ろしいのだと、改めて思い知らされる。


 「社宅は、家賃も安いし本社も近いじゃないか。みーんな優しいし。それにまだ佐藤さん家は引っ越して日も浅いじゃないの。引っ越す理由がどこにあるのか、ねえ」

 

視界に飛び込む、嘲るような笑み。

 ああまた、こみ上げる胃酸を飲み込む、違う、これはつわりだからだ。大丈夫。波が過ぎれば、

 「考え直したら?…それとも何?ここの人間関係に何かあるの?」


あれから毎日のようにチラシに紛れ込まれている赤の4文字、『早く去れ』、それが鮮明に浮かび上がった。

吐き気は限界を越え、その場にうずくまるしかなくなる。「…佐藤さん?」奥さんの声色が変わる。

 ただ、つわりが悪いだけだ。大丈夫。それに、そこまで悟られるのは怖い。

季節は秋だ。ひゅう、と冷たい風が通り過ぎる。涼しいはずなのに、冷や汗がぶわっと吹き出て止まらない。

 「…少し立ちくらみがしただけで。大丈夫、ですから」

『大丈夫』の3文字を、私は自分にどれだけ言い聞かせてきただろう。

「大丈夫そうに見えないけれど」、その声色は怪訝さを孕んでいる。…怖い。

「柏原さん、私は大丈夫ですから、ね?」

早くその場から去ってほしかった。立ち上がったら、吐き気を押さえられそうになかったから。

 路上に吐瀉物をまき散らすわけにも行かない。吐き気の波が過ぎ去るまで、このままうずくまっていたい。

 だけれど、柏原さんは優しかった。残酷だと思った。私が立ち上がりやすいように手を差し伸べてくれていた。……無碍にすることができなかった。手を取って立ち上がった瞬間、うえ、とえずいた。胃酸を飲み込み、吐かずには済む。

 「ありがとうございます」となんとか言い切るけれど、どうしようもない吐き気に苛まれる。

 柏原さんは、言いづらそうに、私に決定的な一言を尋ねた。

 「……もしかして、つわり?」

 私は、頷くことしかできなかった。


 話したいことがある、と柏原さんに言われ、私は柏原さんと自宅の玄関で立ち話をすることになった。

 「…ここはね、何もないから。どうしても世間話の中心は噂話になることが多くてねぇ」

 「ええ」

 頷いておくしかない。

 「どうしても主人の役職が上だから、誰も言えないんでしょうね。でも噂話で済めばまだいいのよ、噂話で済めば。でも」

 でも、の言い方に影が見えて、私はひどく不安になった。柏原さんは麦茶に口を付ける。

「近頃は昔受けた仕返しとばかりに、若い奥さんに嫌がらせをする人もいるらしくてねえ」

さらりと柏原さんが大変な事を言うから、私は思わず耳を疑う。

「私夫婦も上司の奥さんからの嫌がらせに遭ったことがあってね。部長連中の奥さん、ほぼ全員そうじゃないかい。ここには若い人が住み着かないから、誰かが憂さ晴らしに嫌がらせして追い出してるんじゃないか、って。」

ぞわっ、と、鳥肌が立っていくのがわかった。私達が引っ越すのは決定事項だ。それすら、誰かの手のひらの上で転がされていたなんて……。

柏原さんは、最後に爆弾を落とす。

「佐藤さん、かなりつわりがひどそうね?それなのに引っ越すのは何故?」

私は無言で、まだ開いていなかったチラシを取り出した。案の定、赤い絵の具か何かで『早く去れ』と書かれたチラシが出てくる。それが答えだ。柏原さんの語る噂話の真相も、私たちが去る理由も、全て。

赤字を見て、結局また吐き気がぶり返して、私はトイレに駆け込んだ。

「うえぇ…っ」

 吐き出したのは、SOSか、胃の内容物か、両方か。

ぽたり、と涙が落ちて、便器の中に醜い文様を作った。

 「佐藤さん!」

 柏原さんが、トイレのドアを叩いた。

 「こんな馬鹿馬鹿しい憂さ晴らしに負けてどうするの!あなたはもう母親なんだから、自分で作った子ども一人守れるくらい強くなりなさい!」

 その言葉が、脳に響いて離れない。

 それは怒りだった。弱い私への、嫌がらせを続ける見知った誰かへの。

そうだ、私はもう母親なんだ。強く、ならないと。大丈夫。大丈夫。必死に言い聞かせる。

「…はい」

鼻声になってしまったけれど、私はなんとか返事を返した。


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