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家に帰り、私は胃の内容物を吐き出した。
夫と食べたスクランブルエッグもハムもトーストも、水の渦に流れ去っていく。
大丈夫。つわりが終われば、ここを出れば、大丈夫。
チラシに紛れていた『早く去れ』の赤い文字なんて、気にしなければ済むのだから。私はその文字をぐしゃぐしゃに丸め、新しい燃えるゴミの袋に突っ込んだ。
こんな生活も、3週間後には終わる。大丈夫。
「ただいまー」
夜、疲れて帰ってきた夫、史也に対して、求められているのが笑顔だということくらい、言われなくてもわかることだ。だから、口角を上げ、目を細めて、笑顔を形作る。簡単なことだ。夫は騙されてくれる。
「おかえりなさい」
夫は心配そうな顔で、私の顔を除き込む。彼は、いつだって優しい。
「体調は大丈夫か?変わりないか?」
「つわりはつらいけど大丈夫よ。ご飯、簡素なものしか準備できなくてごめんね」
大丈夫。そう、自分に言い聞かせるように。
「そっか……俺は大丈夫だから、食べられるもの食べて、な」
そう言って、夫はスーパーの袋を掲げる。私の用意するご飯の量が足りない故に、惣菜を買ってきたのだろう。
胸が、ずきり、と痛む。
大丈夫。つわりが終わればまた、ご飯を作れるようになる。
ご飯を食べてすぐ吐き気がして、私は横になった。今度は吐いてはいけない。お腹の子供に栄養を与えるのは私なのだから。
夫は食器を洗っている。仕事も終わって、最近は残業続きで疲れているだろうに。食器を洗うことは本来私の仕事なのに。そんな夫の気遣いすら、ありがたいけれど痛い。
大丈夫。つわりが終われば、安定期に入れば、食器もちゃんと洗えるようになるから。つわりが終わるときを、ただ待てばいい話だ。
そんな生活が明らかに変わったのは、いつの日のことだっただろう。
「…え?」
「いや、だから、大丈夫か、って。顔色悪いし、表情も思い詰めてるから」
見上げた夫の顔には、心配そうな表情が滲んでいた。
私はへらり、と表情を持ち上げる。きちんと、笑えているだろうか。
「大丈夫よ。体調が悪いだけだから」
幸い、夫はそれ以上深追いをしなかった。きちんと笑えていたらしい。思わず安心の息が漏れる。
社宅の人間関係、チラシに紛れた嫌がらせ、ひどいつわり、夫に迷惑をかけていること……どうすればいいのかと考えれば考えるほど、自分が駄目になっていく気がする。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。引っ越せば、つわりが終われば、きっとまた、笑えるようになるから。
「あら、佐藤さんの奥さん」
翌朝、ゴミステーションで私を呼び止めたのは、夫の上司の経理部の部長の奥さんだった。
「引っ越すって本当?」