8.
通路を進んでいくと、ピチャピチャと水を滴らせた炭鉱のような部屋に繋がっていて、行灯がいくつも置かれて行き交う人を照らしていた。とは言ってもその数はあまり多くはなくて、ヒタヒタという足音が、遠くなった波の轟音に混ざり不気味だった。さらに奥、グルリと円を描くようにカーブした先からサーッと日の光が差し込んでいて、キラキラと青く澄んだ海を間近に望むことができた。逆光であることを心配しながら、またスマートフォンを取り出してその景色を撮影する。今度はさっきより綺麗な写真が撮れたと満足していると、背後から突如、声を掛けられた。
「あの、すみません」
驚いて振り返ると、いつの間にやらあの少年が立っていた。電車やバス、先程の飲食店でも見かけた彼は、皐月の予想通りここ、岩窟洞にやって来ていたのだ。ついさっきまで耳にしていた音楽プレイヤーは背中のリュックに片付けたようで、代わりに首から重たそうなカメラをぶら下げている。
「ちょっと、写真を撮って貰っても良いですか?」
そう懇願する彼の声が予想以上に落ち着いていたので、同い年くらいだと思っていた彼が実は皐月よりも年上なのではないかと思えた。少年というよりは、青年と言った方がしっくりくるのかもしれない。彼の問いかけに対して特に断る理由も無かったので、皐月ははいと頷き快く引き受けることにした。
「いいですよ」
「ありがとうございます」
青年は嬉しそうに笑顔を零すと、その本格的なカメラを首から外し皐月に差し出した。黒塗りで皐月の手には収まりきらない大きさに困惑していると、それが分かったのか青年は苦笑いで操作方法を教えてくれた。
「ここがシャッターで、半押ししたらオートでピントが合うように設定は済ませてあります。しっかり押すと写真が撮れるので……あ、あとズームはここをこうやって回すと……」
青年がレンズをグリグリと動かすとまるで如意棒のように伸び縮みするので、皐月は思わずおぉと感嘆の声を漏らす。それが可笑しかったのか、彼はフッと吹き出したように笑った。
「すみません、じゃあ、お願いします」
慌てて謝りながら、海側に移動した彼は皐月にピースサインを向けた。レンズを弄り適当な所にズームを合わせてパシャリとシャッターを押す。一瞬だけ切り取られ風景が表示された画面は色鮮やかな海と彼の表情を綺麗に映し出しており、その辺のデジタルカメラなんかとは随分と性能が違うのだなと驚かされた。カメラには詳しくない皐月でも、ついさっき自分のスマートフォンのカメラで撮った海の写真と比較すれば、その差は一目瞭然だった。
「もう一枚撮りますね。はい、チーズ」
再度シャッターを押して、確認のためにカメラを返し写真を見てもらう。すると彼は満足そうに微笑んでありがとうございますとお礼を言った。どういたしましてと、ぎこちなく微笑みを返し答える。会釈をしてすぐにその場を立ち去ろうとしたところで、なんとなく自分も写真を撮ってもらおうと思って踵を返し、ポケットからスマートフォンを引っぱり出した。
「すみません、せっかくなんで私も撮って貰って良いですか?」
「あ、良いですよ」
まだカメラを操作していた彼はそれを中断してスマートフォンを受け取ると、皐月に海側へ行くように促しながら、彼自身は立ち位置を入れ替わるようにその反対側へ移動する。出来る限りの笑顔とピースサインを向けると、カシャッとシャッターのおりる音がした。
「はい、確認してもらって良いですか?」
写真フォルダから今撮って貰ったばかりのそれを選択しタップすると、画面に自分の姿が写し出される。心なしか、先刻に自分で撮影した海の写真よりもずっと海が綺麗に写っている気がして、実はさっき苦戦していたのは私の撮り方が悪かったのではないかと首を傾げた。
「あれ、いまいちでしたか?」
不安そうに青年が言うので、皐月は慌てて否定する。
「あ、いえ、綺麗です! ありがとうございました!」
きっと良いカメラを使用してきたことで写真撮影能力に長けている彼だからこそ、皐月のそれよりも鮮やかな風景を撮ることが出来たのだろうと、なんとなくそう考えた。それは咄嗟に思い付いたことではあったが、あながち間違いではないように思える。
「それじゃあ、私はこれで……」
「あ、ちょっと待って!」
呼び止められて、皐月は踏み出そうとした歩みを止めた。彼は少し言葉を選ぶように逡巡しながら、もし良かったら、と台詞を繋げる。
「いや、本当にもし良かったらなんだけど、一緒に回りませんか? なんて言いますか、一人だと寂しいので」
照れ臭そうに笑う彼に、皐月はドキリとした。これはひょっとして、ナンパをされている? 未だかつてない経験に、皐月は動揺せざるを得なかった。えっと、えっと、どうしよう。どうしたら良いんだろう。心臓はドキドキと暴れ始め、足がガクガクと震え始める。だいたい、突然彼は何を言い出すんだ。自分の発言がいったい何を意味しているのか分かっているのだろうか。そう、分かっていないんだ。きっとそうに違いない。そう思うことにして、緊張でパサパサに乾いた唇をなんとか動かそうと試みる。何か言葉を発しなくては、このまま何も話せなくなってしまうような気がした。
「えっと……二人で、ですか?」
「そう……ですね」
冷静になって考えればそれは当たり前のことで、むしろ「いや実はあと三人いるんですよ」なんてユニークな答えが返ってくるはずなどなかった。うむ、動転している。面白いように気が動転しているぞ。校舎裏で告白されたあの日の記憶が思い出されて、ただただ狼狽することしかできなかった。カサカサと風に鳴る、木の葉の音。走り去る、藤永翔太の後ろ姿。それらがまるで今まさに起こっている出来事かのように想起されて、皐月の心臓を握り締めるように苦しめた。藤永翔太からの告白を断ったあの日。それをきっかけに自分自身が苦しむ羽目になった。あの日の失敗は何だったのだろう。実は彼がとても魅力的な男性だ、なんて恥ずかしくて言えないけれど、おそらくそれに近い対象であったことに気付くことが出来なかった。それが敗因となったことは、その後の高校生活を思い起こせば容易に分かることだった。今はどうだ。今、目の前に立っている、見ず知らずの青年がどのような人物であるのか、それを判断することが少々言葉を交わしただけの皐月に可能だろうか。答えは、分かりきっている。それなら、どうすれば良い。今、私は、彼にどう返答すれば良い。ここですみませんと言って立ち去ることは容易だ。でも、もし何か新しい未来が待ち受けているとすれば。それは、今目の前に立っているこの青年に、OKの返事を出した時なのではないか。もしもやっぱりイマイチだとか、身に危険を感じたりだとか、そう思った時は、その時にやっぱりすみません、と断れば良いのだ。
刹那に頭の中を駆け巡った自問自答の末、そう結論付けた皐月は恐るおそる彼の申し出を受けることにした。これが吉と出るか凶と出るかは、分からない。でも、保守的に行動して後悔するより、挑戦して後悔する方がずっと良いなんてことには気付いている。大森有希の手を握る藤永翔太の笑顔が、皐月にそのことを教えてくれていた。