7.
平日のためか皐月以外の観光客が見当たらず閑散としている崖の上には、ひっとりと建物がひとつ建っていて、そこから洞窟の内部へ降りられることは想像に難くなかった。これだけ人影が少ないと営業しているのだろうかと不安に思うが、入り口の自動ドアが開いて老夫婦が出て来たことで心配には及ばないと分かりホッと胸を撫で下ろす。
中に入ると、チラホラと人の姿があった。左手は一面ガラス張りで海を見渡すことができるようになっていてその対面に当たる右手側手前に受付などのカウンターと、奥にエレベーターが見える。受付には一人の女性が座っていて、皐月が近づくと彼女はスックと立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
丁寧に頭を下げながら彼女が言う。胸に横山と書かれたバッヂを付けており、水色のシャツの中央にはローマ字でINOSEと書かれていた。
「大人一名でよろしいですか?」
尋ねられ、皐月ははいと返事をしながら背中のリュックから財布を取り出した。
「千二百円になります。バスの往復乗車券に付いているクーポン券があれば、百円引きを致しておりますが、お持ちじゃないですか?」
そうだったのか、と少し悔しい思いがしたが今更知っても遅かった。事前に教えてもらっていれば、ちゃんと往復乗車券を購入してからここへ来たというのに。
「持ってないです」
皐月はそう答えて財布から千円札一枚と百円玉二枚を取り出し彼女に手渡した。横山さんはそれを受け取ると、ニッコリと微笑んで代わりに洞窟の写真入りチケットをくれた。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみ下さい」
リュックに財布と入場券をしまいながら、皐月はエレベーターの方に歩みを進めた。こういう時いつも思うのだが、どうせここでお金を払ったあとに何処かで入場券を見せる機会が無いのなら、わざわざ券を作る必要も無いのではないだろうか。もちろん、観光に来た記念として皐月も入場券は欲しいと思っていたし、なんとなく何ももらえないのも寂しいと感じるのだが、もしこの入場券の印刷費用が抑えられるのなら、それにより入場料が安くなるのではないかとつまらないことを考えていたのだった。要するに、せいぜいアルバイトで薄給しか貰えない学生の皐月には一円でも安い方が嬉しいということである。
チーンとベルの音が響いて、エレベーターの扉が開いた。すぐ近くに立っていた女性がどうぞと促すので乗り込んで地下のボタンを押すと、程なくして扉は閉まりゆっくりと下降を始めた。
「本日は、岩窟洞にお越し頂きまして、誠にありがとうございます」
突如、そんなアナウンスが流れ始めたので、ビックリしてキョロキョロとエレベーターの内部を見渡した。頭上にはスピーカーが二つほどついていて、声にプツプツと雑音が混じっている感じからして、どうやら録音された声が再生されているらしかった。しばらく岩窟洞の成り立ちについての簡単な説明を耳にしながら、三十秒ほどで目的の場所に到着した。裸電球の灯る薄暗いゴツゴツとした石の部屋には、INOSEと書かれたシャツを着た男性が一人立っていた。初老の男性がこんにちはと礼儀正しくお辞儀をするので、皐月も思わず頭を下げた。順路と書かれた矢印に従い部屋を出ると、ゴーッと地鳴りのような音が聞こえてくる。何の音だろうかと考えていると、その答えは通路の先にすぐ現れた。ここから先、危険とロープを張られた向こう側、交差するように横向きに伸びる細長い洞窟を勢い良く波が通り過ぎて行くのが見えた。どうやら高低差があるようで、皐月がいる通路からロープ越しに眼下の海を見下ろすような形だ。恐るおそる覗きこむと、波が唸るような音を轟かせて右から左へと突き進んでいた。そしてサーッとまた右側へ戻っていったかと思うと、再び左側へ勢い良く流れていく。ただそれを繰り返しているだけのはずなのに、水飛沫はいつも異なった弾み方をして見る者を魅了した。ふと思い出したようにポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動させてその様を写真に収める。しかし暗いためか、動きのある綺麗さであるためか、なかなか思うように撮れず、四、五枚程度シャッターを切ったところで諦めることにした。仕方がないので、この光景をしっかりと目に焼き付けて帰ろう。そう思い再びロープの向こう側を盗み見ると、薄闇をドンッと横たわる水の柱が、シュワシュワとソーダの泡が弾けるような音とともに日の光が差し込む洞窟の入口へと引き戻されていくところだった。そしてまたドンッと地響きを鳴らしながら飛散する数多の水滴が、皐月のもとへと潮の香りを運ぶのであった。