6.
残り三人になった乗客を乗せてバスは海岸沿いの道を進んで行き、途中で数人が乗り降りして目的地へと辿り着いた。
「岩窟洞、岩窟洞、終点です」
バスが完全に動きを止めたのを確認して皐月は腰を上げた。ほぼ同時に残りの全員も席を立ったので、順番をお互いに譲り合いながらやっとの思いでバスを降りると潮の香りがしてテンションが上がった。先程まで感じていた哀愁は何処へやら、すぐ傍にまで迫った太平洋が彼女を高揚感で満たした。これなんだ。これだから、一人旅はやめられない。
「うわっ、すげぇ……」
声がした方を振り向くと、電車内でもバス内でも終始音楽を聞いていた男の子が耳からイヤホンを外しながら感嘆の声を漏らしていた。不意に皐月の視線に気付いた男の子と目が合う。思わず独り言を発していたことに気付いたのか顔を紅潮させ、慌てて目を逸らしたのが少し可笑しかった。皐月が再び海を眺めると、遠くでトンビがピーヒョロロロロと鳴いていた。やはり海はいつ見ても綺麗だ。海の身近な街で育った皐月だったが、それでも飽きることのない海の魅力は皐月の心をギュッと掴んで離さなかった。今は山奥の切りひらかれた住宅街と寂れた商店街くらいしかない、文字通り「何も無い」街で生活を始めてからというもの、こういう感動を覚える機会は大幅に減少していた。一人旅が好きになったのはそういった感動を求めてのことだったのかもしれない。ふと潮の香りを運ぶ風が皐月の髪をサラサラと揺らした。暑い日差しが中和されるように涼しくなって、生き返った気持ちになる。そういえば日焼け止めを買ってくるのを忘れたな。日焼けには黒く焼けるタイプと赤くボロボロと痛むタイプとがあって、皐月は後者の人間なのだが、なんとかしてそれは阻止したいところであった。
──ブブッ、とスマホが振動して、皐月は慌ててポケットを弄った。画面上には宮崎茜と表示されている。大学の同級生で、日頃連絡を取り合うほどの友人としては数少ないうちの一人だった。右上に赤丸数字の一が付いた緑色のアイコンをタップすると、彼女からのメッセージが吹き出しになって表示された。
『授業をサボるとはよくないですな、皐月殿。ノート取っといたよん』
さすがは茜殿、体調不良でなくサボりであることを見抜いていらっしゃる。しかしそれでいて皐月のためにノートを貸そうとしてくれるなんて、茜はなんて良い子なのだろう。
『勝手にサボりって決めないでよ! ノートありがとう、恩に着る』
本文を打ち込んで適当なスタンプと一緒に送信すると、程なくして返事が届いた。
『あれ、じゃあ風邪でもひいた? 大丈夫?』
皐月を心配する文章とともに、武士が偉そうにふんぞり返りながら『くるしゅうない』と言っているスタンプが送られてくる。スタンプというのは、アプリで文字を打つ代わりにイラストで今の心境や考えを送る、文字通り「ハガキにスタンプを押す」ような感覚で用いるコミュニケーションツールだった。初めからインストールされているものもあれば、お金を払って、あるいは無料でダウンロードして使うものもある。茜が送ってきたものは後者で、何処からこんな面白いスタンプを見つけてきたのだろうと不思議に思った。
『いや、サボりだよ』
正直にそう答えると、即座に返事がきた。怒りの表情をしたキャラクターの絵が添えられている。ただもし本気で怒っていたとすれば文字だけで送られてくるであろうことを考えると、彼女が本気で苛立っている訳ではないことは予想できた。
『私はあなたをそんな嘘つきに育てた覚えはありません。もうノート貸さない!』
続けて表示された文章を読んで、それは困ると皐月は頭を抱える。ここは誠意を見せて謝るしかない。数多くあるスタンプの中から土下座をしているイラストのものを探して送信した。もちろん、茜がふざけていることは想像に難くないので、皐月も至って不真面目な内容で返信することにした。
『DO☆GE☆ZA』
これでよし。日差しが暑くて頬を汗が一筋流れた所で皐月はようやく移動する。このままではたっぷりバターを塗られた食パンのようにこんがりと焼けてしまう。お腹がグウと鳴って、想像の中のトーストに齧り付きたくなった。いや、よくよく考えると黒くは焼けないタイプなので、ピーラーで適当に皮を剥き炒めたニンジンみたいに赤くなるだけなんだよな。こちらはあまり美味しくなさそうだったが、とにかく何でも良いから早く食べたい。時刻は十二時を大きく回っている。
バス停のすぐ近くに、海の家風の様相を呈したスーパーがあった。手動でガラガラと扉をスライドさせて中に入ると冷房がキンキンに効いていて心地良かった。店内には浮き輪や申し訳程度に水着も置かれている。シャンプーや日焼け止めのクリームもあって、皐月はその中で一番安い物を選んで購入した。レジでお金を払い、店内のトイレに向かう。リュックサックからタオルを取り出して汗を拭うと、買ったばかりの日焼け止めの封を開けた。顔から首回り、両手両足まで念入りに日焼け止めを塗りたくり、最後に鏡で顔に白いクリームが残っていないか確認してから外に出た。
スーパーのすぐ隣には「お食事処 海島」という名前のお店があってドキリとした。いや、海島なんて、ありふれた名前だよね。たまたまとは言えど、SNSで名乗るハンドルネームと同じ名前であったことに親近感を覚えた皐月は、そこで昼食を摂ることにした。少し古くさい出で立ちをしていて、どんな料理が姿を見せるのか不安ではあったが、空腹に急かされたこともあり他の飲食店を探す気にはなれなかった。メニューと睨み合うこと数分、マグロ丼を注文した皐月のもとに十分と待たないうちに商品が運ばれた。一杯の味噌汁も付いて、八百円。メニューにも「本場・猪瀬産マグロ使用」と書かれていたし、鮮度も高くきっと美味しいに違いない。マグロの鮮やかな赤色が、皐月の食欲をそそった。口の中で溢れる唾液をゴクリと飲み込んで、割り箸をパチンと割って手を合わせる。
「いただきます」
小声で呟いて、早速ご飯とともに口の中に放り込んだ。美味しい。めちゃくちゃ美味しい。それ以外の言葉が出てこないあたり、私はグルメレポーターにはなれないなと思いながら味噌汁をズルズルと啜った。一瞬のうちにたいらげて、皐月のお腹は八分目過ぎまで満たされた。ゴクゴクと冷えた烏龍茶を飲み干して席を立つ。見ると、レジで別の客が会計を済ませようとしていた。白シャツにジーンズ、耳にイヤホン。電車内でもバスの中でもずっと音楽を聞いていたあの男の子である。同じ店に居たのか。ここまで行動パターンが同じだと少し気味も悪くなるが、恐らくこの界隈に飲食店が他に無かったのだろう。朝から電車に揺られこの時間に岩窟洞に着いたのだから、彼だってお腹ぐらい空くに決まっている。不意に目と目が合い、向こうも同じことを考えていたのか、ペコリと小さくお辞儀をしたので皐月もそれに会釈した。ガラガラと扉を開けて店を出て行く彼を見届けて、皐月はレジに伝票を置いた。店員のおばちゃんが、ありがとうございますと言ってそれを受け取る。
「お会計、八百円です」
岩窟洞とは、断崖絶壁が波に削られて自然にできた洞窟なのだが、地上と海とは随分と高低差があるため、そこへ入るには人工物であるエレベーターで降りるか、あるいは船で侵入するしか方法は無い。基本的に波が荒れているのか、船で入るという観光プランは皐月が調べた限りでは存在せず、必然的にエレベーターを降りてそこへ向かうことになるのだが、ここへ来た観光客の多くは洞窟の内部へ訪れることを目的としているだろうから、おそらくあの男の子ともそこで再会することになるだろう。そうなると、またなんとなく気まずい雰囲気になりそうだ。そんな心配をしながら、財布から千円札を取り出し、レジで待つおばちゃんに渡した。
「二百円のお返しです、ありがとうございます」
お釣りを貰い店を出ると、左手にバス停と海が見えた。それに背を向けるようにして右手の坂道を上ると南国風の木が何本も生い茂っていて、合間を縫うようにして続く道を歩いて行く。途中にいくつも岩窟洞の文字に矢印が添えて書かれた看板が立っていて、道を間違えていないことを確認しながら先を進む。ミンミンゼミが時雨のように鳴いており、突如、ブブブと眼前を横切ったアシナガバチに思わず後ずさりしてしまうも、それを避けるように迂回して反時計周りにうねる坂道を上った。やがて視界がひらけると、百八十度に渡る大海原が姿を見せる。これが、噂に名高い太平洋か。バスから降りた時にも見たはずの海を見て、大袈裟にもそんな言葉が頭に浮かんだ。断崖絶壁の上から見下ろしたその海は、まさに絶景と呼ぶに相応しい。沖合を見ると、かなり距離があるのだろう、白靄のように霞むほどの彼方を黒いタンカーが横切っていた。きっと皐月の体の何百倍、いや何千倍もある船があんなにもちっぽけに見えるのだから、もしこんな所で遭難でもしようものなら、もはや絶望するしか無かった。そう考えると、何があるのか分からないこの大海の先を目指して航海した昔の人々は命知らずだと思わずにはいられなかった。感動を与えるのと同時に、海は皐月の恐怖心をも刺激した。
太陽に照らされてキラキラと光る波が、剥き出しの岩場に打たれ飛沫を上げている。おそらくこうやって雨垂れ石を穿つ要領でできた穴が徐々に大きさを増して洞窟となり、それが岩窟洞という観光名所となったに違いない。