5.
水族館の最寄り駅を過ぎると、いよいよ海が見え始めた。燦々と照りつける日差しが綺麗な白波を立て仄かな夏を感じさせる。ハァと感嘆の溜め息を漏らし皐月は街並みの向こう側に見える太平洋を眺めた。どうしてだろうか、美しい海は陰鬱とした気分でさえ清々しい気持ちに変えてくれる。そんな海がたまらなく好きで、だからきっとSNSでも海を冠した名を名乗ろうと考えたのだろう。鬱蒼としたジャングルよりも生命の母であるこの大洋に憧れるのは必然であり仕方がないことなのだと思う。森山という苗字と対比させて、なんてくだらない理由ではあったが、心の何処かで知らず知らずのうちにそんなことも考えていたに違いない。
「長らくのご乗車ありがとうございました。終点、猿渡です」
不意に現れた街並が海を隠し、これまでで最も賑わいのあるビルの群れが車窓を埋め尽くした。東京や大阪の人間からすれば都会とはお世辞にも呼べないちっぽけなものかもしれないが、田舎育ちの皐月にとってそれは紛れもなく都会であり、先程までの山奥とは異なり大勢の人の気配がした。速度を落とし緩やかなカーブを曲がりながら高架を走り抜けて行く電車は、次第に多くの人々が待ち構えた終着駅のホームへと差し掛かる。車両が完全に停止して進行方向に倒れ掛かった体が今度は後方に投げ出された。皐月が席を立ち上がると、プルプルおじいちゃんもつり革から手を離しドアに向かった。ようやく扉が開いて、前に並ぶ人たちに続いてホームへ降り立つと、暑さの増した日差しが屋根の隙間から差し込んだ。眩しくて思わず目を顰めながら、改札口の案内表示に従い階段を目指す。ゾロゾロと人の流れに身を委ねつつ辿り着いた自動改札機にポケットに捩じ込んでいた切符を突っ込むと、お金を払わずに乗り降りする不届き者を払いのけるための敷居がガタンと音を立てて開いた。そこを通過することを許された皐月が駅舎を後にすると、すぐ傍にはバス乗り場があった。案内板から岩窟洞の文字を探す。どうやら三番乗り場のようで、算用数字の三がデカデカと書かれた標識を探すと思いの外すぐに見つけることができた。バス停が立っている場所に皐月が辿り着くのとほぼ同時に白の車体にオレンジ色のラインが施されたバスが目の前に止まる。行き先表示に岩窟洞と示されているのを確認して、皐月はそれに乗り込んだ。あまり冷房の効きが良くないのか、車内は少しムッとしていた。先程の電車内とは打って変わり、車内には乗客が二人しかおらず、そのうちの一人は電車の中で皐月の向かいに座って音楽を聴きながら眠っていた同年代の男の子だった。彼も、どうやら海に向かっているらしい。いや、もしかすると海岸通りに出る前に降りてしまうのかもしれない。岩窟洞はこのバスの終点なのだから、皐月より先に降りる可能性は高いだろう。
空席だらけで選び放題の座席に少し悩みながら、皐月は右側前から三番目の椅子に腰を下ろす。男の子の二つ前の席だ。一番左前、タイヤの真上にあって少し高くなった席には多くの買い物袋を抱えたおばちゃんが座っていた。何処かで買い物をした帰りらしい。おそらく今から家に帰り、買ったばかりの食材でお昼ご飯を作るのだろう。ご飯のことを考えていたら、不意にグウとお腹が鳴った。ううむ、このお腹の空き具合はお昼前、十一時半ぐらいかなと思いスマートフォンを取り出すと、画面に十一時三十分と表示されていて思わず吹き出しそうになる。皐月の腹時計は意外と正確であると自負してはいたものの、ここまでキッカリ正しいと逆に恐ろしくなるくらいだ。岩窟洞に着いたら適当な店でお昼を食べようと考えていると、バスがブルルンと震えた。もう間もなく出発するのだろう。俄に背後からステップの鳴る音が聞こえ、また一人誰かがバスに乗り込んだことに気付いて皐月が振り返ると、乗り込んだのはあのプルプルおじいちゃんだった。予想外の乗客にまた吹き出しそうになって、慌てて咳払いをする。買い物袋のおばちゃんが訝しげにこちらを振り返るので、皐月はその視線から逃れるように窓の外を見た。駅前から真っすぐ伸びた通りの向こう側で、キラキラと波が光っていた。距離にするとかなり遠くのはずなのだが、この駅が海より少し高い位置にあるのだろう、綺麗な海をここからでも望むことができた。
ブーッという音に続いてガチャコンと扉の閉まる音が聞こえると、バスは重たい唸り声を上げて出発した。事前にインターネットで調べた情報によれば、猿渡駅から岩窟洞まではおよそ三十分の道程だった。駅前のロータリーをぐるりと回って、バスは海へと伸びる大通りを走り始める。両サイドはビルが建ち並び、スーツ姿の男女が額に汗を流しながら歩いていた。ガラリと窓が開くのが聞こえて、音のした方を見ると男の子がフゥと生き返ったように安堵の溜め息をついていた。蒸し暑い車内の熱気が少し和らぐのを感じて、皐月も窓を開けようと両サイドの黒いつまみを掴んで持ち上げる。予想していた以上に硬くて動かないので、目一杯力を入れると重たい窓がなんとか数センチだけ持ち上がってくれた。こういう時に、いとも容易く窓を開けてしまう男性の力が羨ましかった。それでもその僅かな隙間から吹き抜ける風が心地よくて皐月は満足した。これで岩窟洞に到着するまでの間、暑さに項垂れ熱中症に倒れる恐怖と戦わなくて済むのだ。大学の講義を無断で休み遠く離れた場所で救急車に担ぎ込まれるなんて事態になればネアンデルタール教授からなんと言われるか分からない。無論、たかが講義を受ける生徒と教授の関係でしか無いので、そんな心配はするに及ばないのだろうけれど、もう少し上級生になって研究室に所属するようになればこんなことでもお小言を喰う可能性はあるのだろうなと思うと、こういうサボって遊びに行くようなことは低学年のうちに済ませておかないといけないなと改めて感じたのだった。
駅前通りをしばらく進むとバスは海岸通りとの丁字路に突き当たった。赤信号の奥には砂浜が広がり、左手には海の家など水着姿の若い男女が僅かながら歩いているのが見える。平日でも泳ぎに来る人もいるのだなと感心していると、信号が青に変わりバスは緩やかに右折した。通路を挟んで向こう側の窓を眺めていると、波打ち際ではしゃぐ中高生くらいの男女の集団に気付いた。突如現れた大波が彼らを飲み込んであっと驚いたのだが、海面からすぐに頭が飛び出したことで皐月はホッと安心した。どうやら溺れたという心配はなさそうだ。水着くらい持ってくれば、泳いで楽しんで帰れたかもしれないなどと考えたが、一人では寂しいだけに違いない上に皐月はスクール水着以外の水着を持ち合わせていなかった。それ以前に人前で下着同然の姿を晒すだなんて、恥ずかしくてできる訳がない。海で泳ぐなんておそらく小学生に入るよりもさらに昔家族に連れられて以来、一度もできていないと思われるが、思春期を過ぎ異性の視線を気にするようになってからというもの、海水浴に行きたいと親に申し出たことは無かった。いや、仮に海に行きたい欲求があったとしてもそれはできないことであった。というのは、皐月には物心がついた頃から家族が父親しかいなかったからだ。父娘二人だけで海に行くなんて恥ずかしいだとか、馬鹿みたいだとか、そんな理由も無くはないのだけれど、何よりそういう申し出をするのは何となく気が引けることだったのだ。本当は親元を離れ一人暮らしをすることも躊躇われたのだが、父は独り立ちするために親元を離れるのは良いことだと快く見送ってくれた。父は、日頃も皐月が女だからと家事を押し付けなかった。仕事が忙しいにも関わらず、炊事や洗濯、掃除まで多くを手伝ってくれた。一人暮らしを始めてから、それがどれだけありがたいことだったのか身を持って知ったのだ。だからだろうか、皐月は父が好きだった。クラスメイトの女子たちがどれだけ父親を嫌っていても、休みの日にお酒を飲む父がどれだけだらしなく鼾をかいていたとしても。誰よりも皐月を気にかけてくれた父が、毎晩夜遅くに帰ってくる父の大きな背中が大好きだった。当然ながら、恥ずかしくて面と向かっては言えないが、だからこそ海に行きたいだなんて甘えたことは言えないのだ。
もちろん、海というものに対する憧れもあり波打ち際でパシャパシャする程度なら行きたいとは思っていたし、人目さえ無ければ海で泳ぎたいという気持ちも少なからずあったので、あの日焼けをしてシャワーがヒリヒリと痛んだり数日して皮がペリペリとめくれたりする経験はひょっとすると二度とできないのではないかと思うとノスタルジーを感じずにはいられなかった。そう、そんな皐月でも海に出かけたことはあったのだ。あれはいつの事だっただろうか。思い返していると、波打ち際で水着を着た大人びた女性と、浮き輪を持って笑顔ではしゃぐ少年の顔が頭に浮かんだ。ほとんど覚えていないが、それは父親以外にも家族がいた頃の微かな記憶。母と、おそらく兄の、笑顔。どこか皐月自身と似ていて、それでいて穏やかな。無性に懐かしい思い出が呼び起こされて、それが皐月の心を熱くさせた。そうか、こんなこともあったんだな。一瞬で途切れ写真のように止まってしまったその光景が、皐月をとても切ない気持ちにさせた。それと同時に、続きを思い出せない自分に苛立ちを覚えた。何だったっけ。もどかしい。あの時、確か──
「次、停まります」
機械音声がそうアナウンスして、皐月は我に返った。どうやら誰かが降車ボタンを押したらしい。ブレーキを踏んだバスが徐々にスピードを落とし停車すると、通路を挟んで隣に座っていたおじいちゃんが立ち上がった。栗沢駅から長きに渡り旅を共にした彼ともここでお別れのようである。持っていた定期券のような紙切れを運転手に見せると、おじいちゃんはステップを降りて行った。扉が締まり動き出したバスの後方へと遠ざかって行く彼の姿を見届けながら、皐月は心の中で別れの言葉を告げた。