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それからというもの、いつも通りに声を掛けてくる藤永翔太と、ビクビクと怯えるように縮こまる森山皐月とのやり取りは変わらず、彼がおはようと言えば彼女もそれにおはようと返答はするのだが、胸はドキドキと早鐘のように脈打つし、顔は真っ赤に熱くなってしまうし、授業中も上の空で彼のことばかりが気になってしまうようになった。初めは単なる動揺でしか無かったであろうその胸の高鳴りが、恋愛感情に変わるまでそう長くはかからなかった。いわゆる吊り橋効果のような、勘違いに起因するものだったのかもしれないが、その勘違いを否定できるほど彼を嫌いになる要因が何も無かった。はっきり言って顔は皐月の好みだったし、性格も優しくて気さくで、運動は苦手なようではあったが勉強はそこそこできて、好きになるには十分な魅力を持っていた。ただ、好きになるきっかけがそれまで無かったというだけで、たまたまそのきっかけが彼からの告白になってしまったということなのだろう。だからこそ、皐月は後悔した。友達付き合いは苦手な方ではあったが別にイジメられていた訳でもなく、今も誰からも何も干渉されていない所を見るに彼の告白が誰かからの罰ゲームだったなんてひどい話は無いだろうが、彼の告白が本気であったのなら、もっと慎重に返事をすれば良かったと思わざるを得なかった。せめて少し考えさせて欲しいと返事を保留させて貰っていれば、彼の魅力に気付き付き合うこともできていたかもしれない。あるいは好きでなくても良いよと付き合うことを承諾していれば今頃幸せになれていたことだろう。両想いでなければ付き合ってはならないという皐月の固定観念が邪魔をしてしまったのだ。今となっては、即座に断ってしまった過去の自分を悔やむことしかできない。いや、だけど。だけど今もし皐月が彼に、藤永翔太に告白すれば。やっぱり好きになりましたと想いを伝えられたなら。そうすれば、付き合うことができるのではないだろうか。それとも、今更そんな虫の良い話があるかと断られてしまうのだろうか。とはいえ、一度は皐月に好意を抱いてくれていたのだから、彼が新たな恋愛に走らないうちに想いを告げることができれば付き合うことも可能なのではないだろうか。そう思って必死に彼にアプローチしようとするのだが、いざ彼の前に立つとドキドキが治まらず、顔を見るどころかまともに会話もできなかった。それでもそんな努力を重ねたおかげか、彼と接触する機会は増え、次第に他愛ない世間話程度であれば交わせるようになっていった。そうするとドンドン彼へと気持ちが惹かれていき、なおさら告白してふられた時の衝撃が怖くて想いを伝えられなくなってしまうのだった。そうこうしているうちに高校三年生になってクラスが離ればなれになると、唯一の共通点を失ったことで一気に会話をする機会が減った。メールアドレスは交換していたのでたまにメールでやり取りすることもできたが、夏休みを間近に控えた期末試験の期間中、高校からの帰り道に見かけて声を掛けた藤永翔太の隣には、皐月の知らない、ただ何処かで見たことはあるなという程度の女の子が立っていた。その女の子が藤永翔太と手を繋いでいることに気付いたことで、皐月の頭は一瞬で真っ白になった。
「実は、一週間前から付き合っているんだ」
「初めまして、大森有希って言います」
どういうやり取りがあったのかはっきりと思い出すことはできないが、いつの間にかそういう話題が始まっていて、最も信じたく無い筋書きを受け止めなければならない現実が目の前にあるということを知った。大森有希は、藤永翔太と左手を繋いだまま、笑顔で右手を差し出した。喧嘩を売られているのだろうかと思ったが、皐月の恋心を彼女が知るはずもなく、ただ挨拶をしたいのだろうということに気付いてその手を握り返した。ひょっとすると、憮然とした表情で立ち竦んでいた皐月を見て想いを見透かされていたかもしれないが、そんな悪意は彼女の笑顔からは感じられなかった。
「森山皐月です。そっか、藤永くん、彼女ができたんだね。おめでとう」
思ってもいない言葉が出てきて、ぎこちなく笑ってみせた。気付かれてはいけない。皐月の藤永翔太に対する好意に、絶対に気付かれてはいけない。バレたら、自分が惨めな思いをするだけだから。だから、気付かれてはいけない。そう自分に言い聞かせて、本当は泣きたいのに必死になって笑顔を作った。本当に握りたかったのは、大森さんの手じゃないの。そんな悔し紛れの負け台詞が喉から飛び出しそうになって、口の中で噛み殺し飲み込んだ。もう、一秒でも早くこの場から走り去りたい。いろんな所から自分がくしゃくしゃに握り潰されていくような感じがして、あの校舎裏で告白された時と同様に両脚は情けなくガクガクと震えていた。あの時は寒さのせいと言い訳することもできたかもしれない。でも今は夏真っ盛りであり、そんな言い訳も許されない。悔しい。どうしてあなたの手を握っているのは、私じゃないのだろう。何処で間違えてしまったのだろう。何かが少しでもずれていれば付き合えていたはずの彼は、どうして今この人と付き合うことになってしまったのだろう。どうして、どうして。どうして。ジワリと涙が滲むのを誤魔化すために精一杯笑ってみせて、そして彼女の手を離す。もう、この場所にはいられない。
「それじゃ、私、早く帰らないとだから、またね。お幸せに」
友達の色恋沙汰を目撃してニヤニヤしているような、そんないけ好かない人間に見えただろうか。そう見えてくれていたら良いなと願って、皐月は二人に背を向けた。皐月の言葉に照れ臭そうに笑う藤永翔太と大森有希の姿が瞼に焼き付いて離れなかった。お幸せになんて余計なことを言わなくたって、十分幸せそうだったことが羨ましかった。逃げるようにその場を走り去ると、またジワリと涙が溢れた。今度は誤魔化す必要もなくなって、左手でゴシゴシと瞼をこする。それでも溢れ出てくる涙が止まらず、ポタポタと地面に落ちていく。走りながらもまだガクガク震える脚が上手く動かなくて、絡まって転びそうになったところで近くの電信柱に縋りつくように倒れこむ。すんでの所で転倒は回避できたものの、息を切らせて電柱にしがみつく女子高生の姿を見て、犬の散歩をさせていたおじいさんがギョッとして皐月の方を見た。振り返ると、数十メートル後ろでゆっくりと二人三脚でもするように同じ歩幅で歩くカップルの姿が目に映った。すぐに涙で視界が滲むと、ぶんぶんと首を横に振って再び走り始める。息が切れても無我夢中で走った。ゼエゼエと呼吸を荒らげ、ボタボタと汗を流し、ポタポタと涙を零しながら住宅街の中を駆け抜けていく。すれ違う人が皐月の異常に気付いて振り返っていたが、構わず走り続けた。どうして恋とはこんなにも辛くて儚いのだろう。どうして人はなかなか好きな人と結ばれないのだろう。自問自答を繰り返しても誰も答えてはくれなかった。ただ一人で夜な夜な枕を濡らすことしかできないまま、森山皐月の何度目かの恋愛は悲劇の幕を下ろしたのだった。