表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/15

3.

 大学の最寄り駅を過ぎると、景色は段々と山奥に変わっていった。元々が山間部なのである程度は木々が生い茂りしばらく緑しか見えない風景が続くこともしばしばあるのだが、近くを道路が見えたり田畑が見えたりと人の存在を垣間見ることができたため、広大な大自然とまでは言えなかった。ただ、普段は自転車通学であり雨の日にしか電車に乗らないこともあって、そこから先がこんなにも鬱蒼としたジャングルのようであるとは知らず、本当にこの森の出口はあるのだろうかと不安になるほどだった。しばらく進むとトンネルがあり、その出口のすぐ先に大野山というこの風景を表現するに相応しい名を冠した駅のホームが見えてくる。ここは確かに、大きな野の山だ。間違いない。本当にこんな所に人が住んでいるのだろうかと不安に思いつつも、数人が乗り降りしていくのだから、おそらくそれなりの人が住んでいるのだろう。車内を見渡すとだいぶ立っている乗客は減り、空席も増え始めていた。おじいちゃんは相変わらずプルプルと震えながら吊り革にぶら下がるように立っていて、斜向かいの男の子は体を大きく傾けて隣のおばちゃんに寄り掛かりそうになっていた。おばちゃんは迷惑そうに彼を睨みつけ、しばらくしてハッと目を覚ました彼は体を真っ直ぐに起こすのだが、すぐに眠ってしまうためまた体を傾けるというサイクルを繰り返している。堪らなくなったのか、ピンクのセーターがよく似合うパーマのおばちゃんは席を立って隣の車両へと移って行ってしまった。皐月が悪い訳でも無いのになぜだか申し訳ない気持ちになって、心の中でごめんなさいと彼に代わって謝った。ガタタンと電車が激しく揺れカーブで車両が傾くと、遠心力のためかギギギギと甲高い音で線路が唸り声を上げた。緩やかにスピードを落とした車体が再び直線に差し掛かり一列に並ぶに従って軽快な枕木の音が耳に心地良く聞こえ始めた。以前から気付いていたことではあるのだが、電車に乗って線路がリズミカルに音を鳴らすのを聞いていると、不思議と心が落ち着いた。これは胎児、つまりお腹の中にいた頃に聞いた、母親の心臓の音と似ているからだという本当なのか嘘なのか分からない理由を聞いたことがあるのだが、いずれにせよ一定の感覚で奏でられる、いわゆる「ガタンゴトン」という音色が皐月の瞼を重くするのに十分な力を持っていることは間違いなかった。そういえば向かいに座る男の子も気持ちよさそうに船を漕いでいたので、この「ガタンゴトン」が重くするのは私の瞼だけでは無いようである。やはり、母の心音説は正しいのかもしれない。そんなことを考えたのを最後に、皐月の意識は徐々に遠のいていった。


「好きです、僕と付き合って下さい」

 そう言って頭を下げた彼の前髪が揺れる。突然の出来事に、皐月はしどろもどろするしか無かった。きっかり四十五度で腰を折り曲げたまま微動だにしない彼の表情は、おそらく皐月が「面を上げい」と許しを出すまで伺うことはできないのだろう。愛の告白をした時に人はどんな表情をするのだろうと単純に興味があった皐月だったが、よくよく考えるとそんな人間観察をしている場合ではないなと気付いて彼と同じように頭を下げる。いや、むしろ彼よりも深々と、丁寧を心がけて。

「ごめんなさい」

 皐月が言うと、彼は誰も許可を出していないにも関わらず面を上げた。もちろん、お代官様だか殿様だか、そんな偉い身分ではないのでそれを咎める理由など無いし、気分を害したという訳でもない。ただ、愛の告白など今まで一度もしたことがなくされたこともない皐月にとって、果たしてどのような行動を取るのが正解だったのかが分からなかったし、彼がどういう心境でいるのかも想像できなかった。好きな人の一人や二人くらい、恋愛に疎い皐月にだっていたことはあったのだが、ふったりふられたりした時のことを考えると告白するなんてことはとてもできなかった。むしろ、告白できるなんてどういう神経の持ち主なのだろうと思えるぐらい、勇気が必要な行動だと認識していた。だからこそ彼の表情を見てみたかったのだが、思いのほか早く彼が顔を上げたため、逆に皐月が頭を上げるタイミングを逸してしまった。泣いているのか、笑っているのか、そのどちらでも無い表情をしているのか。ただそれが知りたいのだ。

「そっか……そうだよね」

 しばらくの沈黙の後、彼がそう言葉を発したことで皐月はようやく顔を上げることができた。内心、泣いていることを危惧していたのだが、予想に反して彼は笑っていた。その笑顔が、皐月の心に刺を残す。

「ごめんなさい」

 いたたまれない気持ちになって再び頭を下げると、彼は謝らないで良いよと言って面を上げるように皐月に命じた。いつの間にか主従関係が逆転していることに気付いて、なんだか妙な気持ちになる。今更になって、彼の告白を断って良かったのだろうかと不安に思ったが、皐月自身に気持ちが無いのだから仕方がない。恋愛とはそういうものなのだと、信じるほかなかった。

「じゃあ、また、明日ね」

 彼はやはり笑顔のままそう言い残すと、皐月に背を向けてその場を走り去っていった。冬場の校舎裏は当然のように人気がなく、カラカラと随分前に落ちたらしい風に流された枯れ葉が、コンクリートの壁に当たって削られていた。校舎の角を曲がり姿が見えなくなった彼を追い掛けようとしたのだが、皐月の足はまるでメデューサの瞳に睨まれた英雄か、あるいは蛇に睨まれた蛙のように貼り付いて動かなかった。金縛りにあった両脚は動けと命じても主の言うことを聞く気配もなく、ひょっとすると誰かにガッシリと掴まれているのではないかと心配になって足元を見下ろしてみる。幸いにもそんな不信な手は伸びておらず、むしろガクガクと震えている情けない両脚が制服のスカートの中から伸びているだけだった。さっきまで聞こえていた彼の足音も聞こえなくなり、慌てて声をあげようとして、だけどなんと言って呼び止めれば良いのか分からなくなり呆然と立ち尽くす。今更呼び止めたって、どうせ聞こえないのだから。そう言い訳をして皐月はいつの間にか前に伸ばしていた右手をそっと下ろした。掌はやはり震えていて、無理やり押さえ込もうと左手で右の手首を掴んだ。グッと拳を握りしめ胸に押し当てるように近づける。ドクンと、鼓動が拳に触れた。ドクンドクンと脈打つ音が耳の奥で鳴り響き、それが次第に甲高いリズムへと変わっていく。にわかにガタタンと大きな音がして、皐月は驚いて目を開けた。しばらくキョロキョロと周囲を見渡したが、目の前に吊り革を掴んで立つおじいさんがプルプルと体を振動させているのを見て、ようやく夢を見ていたことに気が付いた。

「鳥ヶ浜、鳥ヶ浜です。お出口は左側です」

 ガタンゴトンと母親の鼓動のように柔らかい音を響かせながら、電車は緩やかにスピードを落としていく。いつの間にか車窓は街中へと変貌を遂げていて、あの鬱蒼としたジャングルの出口を見逃してしまったことに少し悔しさを感じた。他の駅より少し豪華な──と言っても、ホームが上り列車と下り列車とで二つずつあるだけだが、それでも急行列車も止まる少し広い駅に皐月を乗せた電車が滑り込むと、すぐに扉が開き数人の乗客がホームへ降りた。入れ違いに制服を来た高校生たちがガヤガヤと乗り込んでくる。このお昼前の時間帯にこれだけの高校生たちが乗り降りしているのだから、おそらく期末試験の期間中なのだろう。中には手を繋いでいるカップルの姿もあって、皐月は慌てて目を逸らした。恋人ができた経験の無い皐月にとっては羨ましい光景であって、とてもじゃないがじっと見てはいられなかったし、何よりじっと見ていたら喧嘩を売っていると勘違いされてしまいそうだという理由もあった。もしもあの時に私もOKの返事を出していれば。ふとそんな考えが皐月の脳裏に浮かんで、すぐにそうじゃないなと思い、ぶんぶんと首を横に振った。右隣に座った女子高生がスマートフォンの操作をやめて、訝しげに皐月を睨む。慌てて皐月は俯くと、思い出したようにポケットからスマートフォンを取り出して恥ずかしさを誤魔化した。ガタンと扉が閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。慣性の法則に従って女子高生にもたれ掛かりそうになるのを必死でこらえ、意味もなくスマートフォンのキーロックを解除した。そうじゃないんだ。皐月はもう一度、自分の考えを否定してアイコンが並ぶ画面をぼんやりと見つめた。あの時、同級生の男子生徒である藤永翔太から告白を受けた皐月は、彼からの好意に応えることができずその申し出を断った。理由は、彼のことを恋愛対象として見たことが無かったから。ましてや好かれているなんて気付きもしていなかった相手から突然の告白を受けて、はいと答えられるほどの勇気が皐月には無かったのだ。それが高校二年生の十二月。二学期の期末試験も終わり、冬休みに突入する終業式の日の出来事だった。同じクラスだった藤永翔太と次に会ったのは、冬休み明けの始業式だった。いつもの「おはよう」が、「あけおめ」に変わっただけでテンションは普段通りの挨拶を口にしあって、見知った顔とすれ違いながら教室の自分の席に腰を下ろす。彼、藤永翔太も同様だった。過去に告白をしたことも、されたことも無かったため、どういう顔をしてすれ違えば良いのか、二週間の冬休みの間にそればかりを悶々と悩み続けていた皐月は、その日の彼があまりにもあっさりと、いつも通りの笑顔で「あけおめ」と声を掛けて来たことがあまりにも意外で、思わず「なんで?」と口をついて出てきそうになった言葉を飲み込んだ。彼は彼なりに悩んで、きっといつもと同じように接しようと考えたのだろうけれど、学校に着き、彼の姿を見つけた途端、逃げ出してしまいそうになるくらいの恐怖にかられた皐月にとって彼の反応は予想外のものでしかなかった。どうして平然としていられるのだろう。私はこんなにも、動揺して心拍数も跳ね上がって怖気づいているというのに。これでは、まるで皐月が藤永翔太に告白をしてふられたかのような状態ではないか。あの日、あの校舎裏で入れ替わった主従関係は、年が明けても変わらないままだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ