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2.

ガタンとドアが開き、涼しい風が車内から溢れるように噴き出てくる。どうやら相当冷房が効いているらしく、乗り込むと生き返ったような気持ちになった。外は結構暑かったのだなということに、この時になって初めて気が付く。乗客は少なかったが、それは通勤ラッシュの時間帯と比較してであって、空席は疎らだった。三、四十代くらいの主婦と思われる集団が隣の車両近くの席を向かい合わせに陣取ってペチャクチャとお喋りをしている一方で、どう見ても寝坊したのだろう、後ろ髪を跳ねさせて一生懸命メイクをしている二十代半ばのOLらしき女性も居た。腰の曲がったおじいさんは空席があるにも関わらず座ること無くつり革を握ってプルプルと震えながら立っている。そのおじいさんのすぐ側で、スマートフォンを弄りながら音楽を聞いている皐月と同い年くらいの男の子も居た。大学や仕事は無いのだろうかなんて心配に思いながら、よくよく考えると人の事をとやかく言える立場では無かったなと反省する。プシューッ、とドアが音を立てて閉ざされて皐月はハッとした。適当に一番近い空席に腰を掛ける。ちょうど男の子の斜向かい、プルプルおじいちゃんの後ろの席だった。唸るモーター音を耳にしながら、皐月は正面の窓の外を見た。反対側のホームに、ボサボサ頭でジャージ姿のおばちゃんがキョロキョロと何かを探すように立っていた。電車が動き始めると、外の景色がゆっくりと左から右に流れていく。住宅街から鬱蒼と茂る森へと景色が変わり皐月は再びポケットにしまっていたスマートフォンを取り出した。残りの電池が九十八パーセントと表示されているのを見て、まだ大丈夫だなと安心しながら操作を続ける。ついさっきまで見ていたSNSのアプリがそのまま表示されたので、ホーム画面に戻ってタイムラインを追う。特に新しい書き込みが無かったためその他と書かれたアイコンに触れてみると、一番上に、海島芽衣という名前が表示された。皐月は、このSNSに本名を登録していなかった。なんとなく現実の知人に自分の書き込みを見られるのが嫌で、偽名を使っていたのだ。森山皐月という本名から少し変えて、海島芽衣。皐月と芽衣と言えば某アニメ映画に登場する女の子の姉妹が思い出されるが、別にそこから取って付けた訳ではなく、単純に日本古来の言い方で五月を示す皐月から、英語の五月であるメイに変えて思い付いた漢字をあてただけだった。尤も、映画も同じ理由で名付けられたのだろうから、どちらの理由にせよ大差ないのかもしれないが。一方で、海島は森山から対比させて考えたものだった。山だし海、山の森なら海の島かな。そんな、単純な理由。

「次は、上鳩井です」

 くぐもった聞き取りづらい車掌の声が聞こえ、プツンとスイッチの切られる音が車内に響いた。カタンカタン、と線路の枕木が軽快なリズムを奏でている。皐月は画面をスライドさせながら、昨日書いた自分の書き込みを読み返した。コメントは付いていないが、数件だけいいね、を押されていた。その中のひとり、八尾奈良彦の名が再び目にとまる。また、なんだよな。皐月は、本名でなく偽名を使用していたこともあり、本当の顔見知りの友達とは誰一人繋がっていなかった。代わりに、SNSの内部で知り合った人、あるいはその他のネットで知り合った人たちと交流を持って情報のやり取りを行っていた。そのせいもあってか、こんな風に友達に登録してもいない人からいいね、を押されることがたまにある。しかし、この八尾という人物に限ってはこのような出来事は一度だけではなかった。奈良彦、なんていう変わった名前なだけにインパクトもあり記憶に留まりやすいというだけなのかもしれないが、少なくとも十回以上は彼の名前を見かけたことがあるように思う。共通の知人も表示されないため友達の友達という訳でも無いようだが、ひょっとするといつかインターネット上の何処かでお会いしたことのある人が、所謂ネット内での通名であるハンドルネームを変えて皐月の書き込みを見ているだけなのかもしれない。彼はいつも皐月の一人旅のレポートにいいね、を押してくれていたように思うから、きっとその旅行記を楽しみにしてくれている読者なのだろう。

「上鳩井、上鳩井です」

 唐突な車掌の声と共に、ギギギと線路が軋んだ。外の景色はいつの間にかひらけた住宅街に変わり、皐月の乗る車両が車通りの多い大きな道路を横切っていく。カンカンと踏切の音がドップラー効果で遠ざかり、車窓を駅のホームが流れた。ガタンと完全に停止したかと思うと、扉が開き人々が出入りしていく。プルプルおじいちゃんは相変わらず吊り革を掴んで窓の外を眺めており、斜向かいの男の子はコクリコクリと船を漕ぐように頭を揺らしていた。

「早くしないと、安売りのバナナが無くなっちゃう」

「え、安売り?」

「あら、中島さん知らなかったの?」

「だから今日行こうって話になったんじゃないの」

 二つ向こうの扉から出て行こうとするおばちゃんたちがそんな会話を交わしていた。距離は随分と離れているのに、何を話しているのか分かってしまうくらい大きな声で彼女たちはホームへ降りて行く。中島さんと呼ばれた最後尾を歩く中肉中背のおばちゃんが、ひぇーと感心したように声をあげていた。ドアが閉まると、車内は急に静かになる。気が付かなかったが、ここにいる数十人の乗客たちの中で言葉を発していたのは彼女たちだけだったらしい。聞き耳を立てる会話もなく、退屈しのぎに皐月は窓の外を見た。巨大なショッピングモールの駐車場に何台も車が入っていくのが見えて、平日なのに繁盛しているんだなと驚いた。さっきのおばちゃんたちも、もしかしたらあそこを目指していたのかもしれない。ただ、あんな巨大ショッピングモールでもバナナの安売りなんてしているのか、皐月には分からなかった。仮にしていたとして、わざわざ電車代を払ってまで買いに来たら得なのか損なのか疑問に思う。きっと、彼女たちの価値観はそういうところには無いのだろう。ピチピチの二十歳である皐月には到底理解できないような魅力があるに違いない。私もいつかあんな風にバーゲンやら大安売りやらという言葉に弱くなってしまうのかと思うと、少し嫌気がさした。歳はとりたくないなと切実に願う。ピーターパン・シンドロームとまでは言わないが、いつまでも二十歳のままでいられたら良いのにと最近思うようになっていた。中学生くらいの頃は二十歳なんておばさんだと考えていたけれど、いざなってみると意外とそうでもなかった。むしろ、想像していたよりも大人になれていない自分がいて、まだ学生だからという事実に甘えていた。自由に遊べる時間があることで自由気ままな生活を送れる分だけ今の方が楽しいと思えた。これから先、その楽しさがどのようにうつろうのかは分からないのだが、少なくとも今より時間があって遊べるなんてことは無いだろう。だからこそ、人はいずれ歳をとってしまうのだから遊べるうちに遊んでおくが良いのだ。不意に浮かんだ、ネアンデルタール人の教授に心の中でそう言い訳をしつつ、隣に座るおじさんとぶつからないように小さく伸びをする。たまには授業をサボるのも良いよね。社会人になったら、私的な理由で仕事を休む訳にもいかないだろう。サボるというのは今しかできない経験だから、つまりは仕方がないのだ。そういうことにさせて貰おう。

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