15.
「お前……お母さんに、会いたかったか」
「……どうしたの、急に」
一体、どうしたのだと言うのだろうか。突然予想だにしていなかった話題が飛び出したことに皐月は動揺した。父は、皐月が幼い頃に母と離婚した。あまりに小さくて皐月はほとんど覚えていないのだが、皐月には三歳ほど歳上の兄がいて、離婚後兄は母の元へ、そして皐月は父の元へ引き取られることとなったのだった。しかし、それはあまりに幼い時の話であり、皐月にとって父は父親であり母親でもあったのだ。今更、母がどうこうなどとは思っていなかった。ただ、会いたくない、と言うと嘘になってしまうのだけれど。
「別に。私には、お父さんがいるから」
今まで男手一つで育ててくれた父を悲しませまいと、皐月はそう答えた。それが正解だと思ったからだった。思い出したようにズズズと味噌汁を啜り、フゥと溜め息を吐く。幼い頃から父と二人で暮らし続けた皐月にとって、おふくろの味など覚えては居ない。父の作るこの味こそが家庭の味だった。おとんの味、とでも言うのだろうか。だから、大丈夫。心配しないで、お父さん。
「お母さん、ずっと病気だったんだ。つい最近、亡くなったらしい」
心の中で、一瞬音が止まった。
「そう……なんだ」
実の母が亡くなったと知らされたというのに、意外にも皐月の心は冷静だった。突然の人の死の話題に驚いたのは確かだ。しかし、不思議と悲しい気持ちは無かった。ほとんど記憶にない、顔を思い出すことすらできない母が、皐月には肉親と思えなかったのかもしれない。何処の誰だかしらない人が死んだとテレビのニュースが告げても悲しくはならないように。もう皐月の中では他人でしか無かったのかもしれない。そう思うと、自分自身がとても冷酷な気がしてきて、心が痛んだ。痛むのではなく、悼まなければならないのだろうに。涙の一滴も流さない、薄情な娘でごめんなさい。
もし仮に亡くなったのが母ではなく父だったら。皐月はおそらく、涙を流しただろう。高校を出て大学にまで行かせてくれて、一人暮らしもさせて貰い、生活費だってほとんど父の仕送りに頼りきりだった皐月は、父が亡くなれば生活できなくなるという現実的な意味でもそうではあるのだが、何よりここまで愛情を込めて育ててくれた父が突如この世からいなくなることなど考えられなかった。悲しくない訳がないのだ。
一方で、兄はどうだったのだろう。唯一の肉親である母を亡くし、どれだけ悲しんだのだろうか。どれだけ苦しんだのだろうか。そう考えると、とてもいたたまれない気持ちになった。兄は今、どうしているのだろう。
「お兄ちゃん……どうしてるのかな」
「……直哉のこと、覚えているか」
「なおや……」
皐月は、首を横に振った。名前さえ初めて聞いたような気がした。唯一覚えているのは、いつか家族で行った海での記憶。波打ち際で水着を着た大人びた女性と、浮き輪を持って笑顔ではしゃぐ少年の顔。おそらくあの少年が兄で、大人びた女性が母だったに違いない。そして、その兄が、嬉しそうな笑顔で言った。
『来年も、また来ようね』
皐月は、ハッとなって顔を上げた。
「ねえ、お父さん。私、小さい時に岩窟洞って行ったことある?」
ああ、と父は懐かしそうに頷いた。
「岩窟洞ではないけど、猪瀬の海水浴場には行ったよ。お母さんと、直哉も一緒だった」
『俺、実は小さい時にも家族でこの海に来たことがあってね』
心臓が高鳴る。
「お兄ちゃんの……お母さんの苗字って、なんて苗字だったの?」
急な話題の転換に、父は訝しげな表情を浮かべた。
「旧姓のことか? 小平だよ。小平夏子」
「じゃあ……今、お兄ちゃん、こひらなおやって、名前なのかな」
「ん……まあ、そうだろうな」
首を傾げながら、父はすっかり冷めてしまったハンバーグを口にした。皐月は残りのご飯を大急ぎで口に流し込み、食器をキッチンへ持っていく。
「ごちそうさま。後で食器洗うから、流しに置いといてね」
「分かった、ありがとう」
自分の部屋に戻り、机の上に置きっぱなしにしていたスマートフォンを手に取ると、アルファベットのfの字が書かれた青紫色のアイコンをタップする。そして二週間程前の自分の書き込みを見つけた。
『明日、大学の授業のお休みを頂いたので、岩窟洞に行ってきます』
いいね、を押している名前を表示させて、そこに八尾奈良彦の名前を探す。しかしアカウントを削除したのか、その名前は見つからない。
「やおならひこ……こひらなおや……」
皐月は思い出したように、岩窟洞で撮った写真をSNSにアップロードを始めた。岩窟洞に行った翌日、『八尾』に皐月と下の名前を呼ばれたことに気付いて以来、そのSNSに何も書き込みをしていなかった。彼がストーカーなのか何なのか分からず、ずっと恐怖に怯えていた。しかし、そうではなかったのだ。どうせなら正直に名を名乗ってくれても良かったのに。そう思いながら、何枚かの写真をピックアップして投稿ボタンを押す。
『二週間前、岩窟洞に行って兄に会いました。来年もまた行こうと思います』
八尾は──兄は、この書き込みを見てくれるだろうか。アカウントを削除しているようだから、ひょっとすると見ることはないのかもしれない。それでも、もし何かの拍子に覗いてくれることがあったら。もしまた彼に、会うことができたなら。その時は、色々な話がしてみたい。兄のこと、そして母のこと。そうしたらきっと、母を想って涙することもできるようになるだろう。
スマートフォンを机の上に置き、そっと目を閉じる。あの日、猪瀬の海には綺麗な夏が浮かんでいた。兄は、そこにきっと二度と取り戻すことのできない思い出も浮かべていたはずだ。来年はもしかすると、就職活動もあり忙しいのかもしれない。兄も仕事で休みなどうまく取れないかもしれない。それでももし、来年あの場所で会うことができたなら。その時は、海に浮かんだ夏をもう一度見に行きたいと思う。
だから、来年もまた、来ようね。




