13.
「ううん、やっぱりここも何度来ても良い所だなあ」
八尾は伸びをしながらそんな感想を述べた。皐月も同じように両手で空を仰ぐように深呼吸する。潮風が仄かに香り、高揚感と共に胸いっぱいに満たされた。
「私も、慌てて帰らなくて良かったです」
石段を降りて海を眺める。波の音が目の前で弾けて、そしてまた次の波が飛沫をあげる。
「海って、なんでこんなに綺麗なんですかね」
同じように駆け下りてきた彼に、皐月は問いかけてみた。八尾はそうだねと言っただけで、答えようとはしなかった。皐月自身もそれに答えを求めていた訳ではなかったので、そっと目を閉じた。波の引き際にシュワシュワっと、泡の立つ音も聞こえる。カシャッとシャッターの下りる音に気付き目を開けて振り返ると、八尾が海にカメラを向けていた。それを見て、皐月もポケットからスマートフォンを取り出してカメラのアプリを起動する。画面に、綺麗な青色が映し出された。
「俺、実は小さい時にも家族でこの海に来たことがあってね」
カメラを操作する手を止めて、八尾は語り始めた。皐月はいろんな角度から海を撮影しながら、その言葉にそっと耳を傾ける。
「ほら、子供ってやっぱり海とか好きだし、凄く楽しかったし、また来年もみんなで来ようねって、そう言ってたんだけど、実際にはなかなか来られなくて。だから、大学生になってそのことを思い出して来てみたんだけど、いくつになっても海は良いなって思うよ」
西陽が眩しいのか八尾は目を顰めて、そして少し寂しそうに呟いた。何処か遠くの方で、ウミネコが鳴いているらしい。風の音に混じりミャーミャーと声がした。
「こうやって、海に浮かんでいる夏を見ていると、センチメンタルな気持ちになるんだ」
急に詩人めいたことを言う八尾に皐月が失笑すると、彼は恥ずかしそうに微笑み、スッと岩場に腰を下ろした。そのすぐ近くに皐月も座って、眼前に広がる太平洋を眺める。
「確かに浮かんでますね、夏」
「……でしょ?」
得意気な表情を浮かべる八尾。皐月はまた笑って、はいと返事をした。
しばらく無言でその場に佇んでいると、いつの間にやら太陽は角度を低くして西の空をほんのりと茜色に変えようとしていた。スマートフォンの画面を見て十七時を過ぎていることに気付いた皐月は、慌てて立ち上がりスカートの裾に付いた砂を叩く。八尾が皐月を見上げた。
「時間も遅くなってきましたし、そろそろ帰ります。名残惜しいですけど」
「そうだね。俺も帰るよ」
最後にもう一枚、夕陽に照らされた海を撮ってから来た道を戻っていく。来る時よりもずっとバス停までの距離は短く感じられ、次のバスが来るまでまだ時間に余裕があったため、皐月はトイレを借りに昼間に立ち寄ったスーパーへ向かった。手洗い場の鏡に、心なしか肌が茶色くなった自分の姿が映っていて、それを見て初めて気が付いたようにヒリヒリとした痛みを体中に感じた。潮風に当たり過ぎたせいか、まさに傷口に塩を塗り込んだように滲みた。蛇口を捻り冷たい水で手を洗うと、体が熱を帯びているのがよく分かる。
トイレを後にしてふと目に入ったペットボトルのラムネを買って店を出ると、程なくしてバスはやってきた。八尾と二人バスに乗り込んで、駅を目指す。流石に隣同士に座るのは憚られて、一人席に前後に並ぶように腰掛けた。平日ということもあり車内は閑散としていて、二人以外に駅へ戻る乗客は誰もおらず、ただエンジンの音と運転手がバス停を通過する度にお降りのお客様はいませんか、と尋ねる声が響くのみだった。猿渡駅に着くまでの間、二人は一言も言葉を口にしなかった。歩き回ったこともそうだが、案外日光を浴び続けることも体力を消費するようで、ヘトヘトになった体が睡眠を求めうつらうつらとしていたこともあり、八尾は遠慮してくれたのかもしれない。流石は男だからなのか、それとも元々体力がある方なのか、皐月の気付く限り彼が居眠りをしている気配は全く見られなかった。気が付けばバスは駅に着いており、八尾に肩を叩かれて皐月は目を覚ました。
「すみません、すっかり眠ってしまって」
「いや、確かに疲れたよね。俺も寝ちゃいそうだったよ」
やっぱり、気を遣ってくれているのだろうか。とても疲れているようには見えなくて、眠ってしまったことを申し訳なく思った。行きのことを思い出し、おそらく帰りの電車もしばらく同じだろうから、今度は眠らないようにしようと思っていると、彼は意外な言葉を口にした。
「それじゃあ、俺はちょっと寄る所があるから、この辺で」
バスを降り、駅舎の入り口まで来た所でそう告げられた。そこで少し寂しい気持ちになったのは、彼に対する不信感や嫌悪感がなくなっていた証拠なのかもしれない。
「そう……ですか。なんだか初めてお会いしたのに、色々とありがとうございました」
軽く頭を下げ再び顔を上げると、八尾は困ったように苦笑いを浮かべていた。
「そうだね、初めて、だったよね。何だか、一緒に回ろうなんて、図々しいお願いをしてごめん。こちらこそ、楽しかったよ。ありがとう」
彼がそう言って手を振ったのを合図に、皐月は券売機に向かう。栗沢駅までの値段を支払い、機械から吐き出された切符を受け取った。改札口をくぐる前に振り返ると、八尾はまだ駅舎の入り口の所に立っていた。皐月が軽く会釈をして去ろうとすると、八尾はハッと顔を上げた。
「皐月……さん」
少し距離が離れていたこともあり、突然そう呼び止められたことに驚いて皐月は歩みを止めた。
「来年も、また……」
八尾はそう言って俯き、口を噤んだ。そして吹っ切れたように顔を上げ笑みを浮かべる。
「いや、何でも無いや。もしまた何処かで会った時は……よろしくね」
皐月は笑顔でそれに答えて、八尾に背を向けた。今さっき買ったばかりの乗車券を自動改札機に通し中へ入る。ホームへと上がる階段を上ろうとして、ふと振り返ると八尾はまだ同じ所に立ち尽くしていた。もう一度ペコリと頭を下げ、そして二階のホームへと上がった。一番乗り場には既に電車が停まっていて、皐月が慌てて近くのドアから乗り込むや否や扉が閉まる。エンジンの唸る音と共に線路が軋み、徐々にスピードを上げていく。ちょうど部活帰りの高校生たちや仕事帰りのサラリーマンたちで賑わっており空席は見つからず、仕方なく近くのつり革に掴まった。さっきまでバスの中で眠っていたこともありヘトヘトになった体が重たくて、つり革に体重を預けて目を閉じる。流石に立ったまま眠ることは出来ないものの幾分か疲れを癒せるような気がした。ガタンガタンという鼓動のためか、皐月の瞼はどうしようもなく重たい。必死で睡魔と格闘しながらも電車は進み、家に帰り着いた頃には完全に日が暮れていた。シャワーを浴び、冷蔵庫にあった残り物を適当に食べた後、耐え切れなくなった眠気に抗うことなく、皐月は布団に横たわった。




