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11.

 キリキリと、おそらくエレベーターを動かしているロープの軋む音が聞こえてくる。どうやら、帰りは行きと違って岩窟洞に関するアナウンスが流れないらしく、会話が止まった二人の間をその音が妙に響いて聞こえた。話題を促す意味で、今のうちに名前も聞いてしまおうと思い、そういえばと口を開く。どうかしたのという表情で、彼が皐月を振り向いた。

「名前、聞いてませんでしたけど……お伺いしても良いですか?」

「ああ、そういえば」

 彼は少し困ったような表情を浮かべた。あれ、何かマズいことを聞いてしまっただろうか。元はといえば、皐月に一緒に回ろうと先に声を掛けてきたのは彼の方であって、皐月では無いのだ。なのに、ナンパしておいて皐月の名前を聞こうともしなかったのは、なんだか妙である。今更になってそんなことに気付き、一抹の不安が皐月の心の中で渦巻いた。もしかしたら、その間はほんの一瞬だったのかもしれない。しかし、彼が自分の名前を口にするまでの短い時間に抱いた得体の知れない不安は、嫌な形で的中することとなった。

「俺、八尾って言うんだ」

 心臓がドクンと脈を打った。ダラダラと嫌な汗が額を伝う。ああ、やっぱりやめておけば良かった。そう思った皐月の脳裏に、今朝スマートフォンに表示されていた、SNSのお知らせ文章が蘇る。

『八尾奈良彦さんがあなたの書き込みにいいねと言っています』

 まさか。まさかそんな偶然がある訳が無い。でも、きっとこれはたまたまだ。たまたま彼が八尾という苗字の人だったのだ。そうじゃなければ、もし彼があの書き込みと同一人物だとすれば──ストーカー──そんな嫌な単語が思い付いて、足がガクガクと震えた。不安。恐怖。戦慄。今すぐにでも逃げ出したい気持ちに駆られ四方をキョロキョロと見回しても、ここはエレベーターの中だ。逃げ場なんてない。落ち着け。落ち着いて冷静に対処しろ。まずは、彼が本当にストーカーなのかどうか。それを確かめることが先決だ。確認する方法は、ある。おそらくこの世界で、八尾奈良彦なんて変わった名前の人はそう多くないだろう。だから、だから下の名前を──。

「君は? 君の、名前」

 彼に問われ、皐月はハッとした。そう、名前。咄嗟に森山と名乗ろうとしたが、もしも彼がストーカーだったとしたら──それは致命的な失敗になりかねない。しかし、皐月はSNSに海島芽衣という名前で登録していた。彼が皐月のことを海島だと認識しているはずだ。しかし。そこまで多くの情報をSNSに載せてはいなかったはずだったにも関わらず、今皐月の目の前に彼がいるということは、皐月の情報を既に多く仕入れている可能性だってあるのだ。つまりは、皐月の本名をも知っている可能性が高い。その場合もしここで嘘の名前を教えれば、皐月が八尾奈良彦の存在に気付き警戒していることを教えてしまうことになりかねない。そうなれば、最悪の結末が訪れることだって考えられる。

「森山って言います。ジャングルの森に、マウンテンの山で森山です」

 考えを巡らせた結果、皐月は正直に自分の苗字を名乗ることにした。そして出来るだけ平静を装った。今、完全の密室で彼を警戒させてはいけない。刺激してはいけない。まだ地上に着かないのかともどかしく感じながら、それを表に出さないよう皐月は笑顔を繕った。上手く笑えている自信は無かったが、空気を悪くするよりはよっぽど良い。

「森山さん、かあ。へー」

 感心したように頷く彼の仕草がとてもわざとらしく見えてしまい、彼──八尾はやっぱり皐月の名前を知っていたのではないかと思えた。気にし過ぎだろうか。勘違いであればどれだけ良いことだろう。考えれば考える程不安で仕方がなかった。彼に全てを知られているのではないかと恐ろしくなって、下の名前まで教える気にはなれなかった。ひょっとするとそれは無駄な足掻きで、当然のように皐月という名前まで八尾は知っているのかもしれない。それでも、万が一にも知らない可能性を考えると、これ以上皐月自身の情報を与えてはいけない。だから、彼が本当にストーカーで八尾奈良彦という人物なのかどうかを確認するべく、彼の下の名前を尋ねることも躊躇われた。皐月が彼の下の名前を尋ねることで、その質問が自らに戻ってくることが怖かったからだ。逆に八尾に先手を打たれ下の名前を尋ねられた場合には、代償に彼の下の名前も確認しようと考えていた。できれば、聞かれない方が良い。でも、聞きたい。そんな葛藤に苦しみながら沈黙を続けていると、エレベーターはようやく地上に辿り着いた。ゴウンゴウンと重たい扉が開かれて、眼前のガラス窓の向こうに見える海がキラキラと眩しかった。大事に至らなかったことに、皐月は安堵の溜め息を吐く。

「森山さんは、この後もう帰るの?」

 尋ねられて、ドキリとする。本当は近くにある千畳敷という場所にも足を運ぶつもりだったのだが、それを彼に教えて良いものか悩むところだった。いや、そんなこと分かりきっている。絶対に教えてはいけない。

「そうですね。帰りも時間が掛かるので、そろそろ帰ろうかと思います」

 思い出したようにポケットからスマートフォンを取り出し時間を確認すると、いつのまにやら十五時近い時間になっていた。バスと電車を乗り継いで家まで二時間くらい掛かることを考えると、本当に帰るのに良い時間のようにも思えた。皐月の事前の調べによれば猿渡駅から栗沢駅までの電車は夜遅くまで走っているが、猿渡駅までのバスが夕方くらいから激減するはずだ。今日は平日だからなのか、駅に向かう側の最終バスは十六時くらいではなかっただろうか。とにかく、今のまだ早い時間のうちに帰り始めるのが得策であることに間違いはなかった。

「そっか……俺、千畳敷の方にも行こうかと思っていたけど、それなら仕方ない」

 意外にも彼があっさりと引き下がってくれたことにた皐月は驚いた。もしも彼が本当にストーカーなら、そんなこと言わずにと無理にでも皐月を連れて行こうとするのではないだろうか。もしかして、ストーカーだというのは皐月の思い過ごし?

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