1.
皐月はこの日、大学を休んだ。もちろん歴とした休みがあった訳ではなく、体調を崩した訳でもない。元々講義がひとつしか無い日ではあったが、どうせなら休みにしてしまいたいと思うのが学生としての本音であって、それはもう致し方のないことなのだ。そんな我々学生のやる気とは裏腹に、あの教授は今日も嬉々としてネアンデルタール人の格好良さについて語るのだろう。あの逞しい顔付きが、厳かな立ち居振る舞いが、と。当然のことながらしがないホモ・サピエンスである皐月が友達としたり恋人にしたりを望むのは、やはり同じホモ・サピエンスに対してであって、彼のようにネアンデルタール人に熱愛することなどできなかった。あの髪の毛と髭が境目を失った独特の風貌も味方して、ひょっとすると彼自身がネアンデルタール人の生き残りなのではないかと思えるほど、その情熱は計り知れないものがある。ナウマン象の毛皮を着て洞穴へと帰って行く教授の姿を想像していると、少し申し訳ない気持ちになったので考えるのをやめた。そもそもネアンデルタール人の時代にナウマン象が居たのかどうか、その答えを皐月は知らなかった。
馬鹿げた妄想を繰り広げている暇があるのならば少しでも有意義な時間を過ごそうと思い、そそくさと着替えて家を出る。目覚まし時計などなくても始発電車が線路を軋ませる音で夢から醒めることができるくらい、住んでいるアパートから駅まではすぐだった。雨ざらしのため底が抜けるのではないかというくらい錆付いた金属板の階段をカンカンと踏み締め降りて、グルリと時計回りにアパートを回ればそこに栗沢駅と書かれた看板を掲げる古びた駅舎が見えて来る。壁にはグルグルと蔦が生い茂っていて、よもや廃線となり使われなくなった駅なのではないかという出で立ちをしていた。背負ったリュックサックから財布を取り出して券売機で一番高い切符を買うと、誰も居ない改札口を抜けてホームに上がった。各駅停車しか止まらない寂れた駅には、皐月以外に電車を待つものが居なかった。ちょうど電車が出てすぐだったからだろうかとも思ったが、向かい側、反対方面のホームにも誰もいないようであり、どうやらそういう訳でも無いらしい。よくよく考えると今は平日の通勤ラッシュを過ぎた時間なのだからそういうものなのかもしれない。こんな田舎の駅でも、もう少し早い時間帯には制服を着た高校生や暑そうなスーツを身に纏うサラリーマンで賑わっている。持っていた鞄からスマートフォンを取り出すと、待受け画面の時計が十時過ぎを示していた。ロック画面に現れた九つの丸をS字形になぞり解除して、青地に白文字でアルファベットのfが書かれたアプリを起動する。右下の地球マークに赤く算用数字の一がくっついていて、皐月はそこをタップした。八尾奈良彦さんがあなたの書き込みにいいねと言っています、と表示された。まただ。皐月はそう思いながら、そのお知らせをもう一度タップする。昨日の夜に綴った皐月の書き込みがつらつらと画面に読み込まれた。昨日の明日──つまり今日、大学の授業のお休みを頂いたので、岩窟洞に行ってきます、という内容のものだ。もちろん公式に頂いたお休みではないので、言うならば今日の行動は計画的なものだった。皐月は一人旅を趣味としていて、休みの日にはこうして電車に乗って遠くへ揺られていくのが好きだった。電車そのものに乗るのも好きだったし、見知らぬ土地へ行きそこにどんな素敵な光景が待ち受けているのだろうかと期待に胸を膨らませる道中のワクワク感も好きだった。元々この地域の生まれではない皐月だったが、ある日、家の側を走る電車の終着駅からバスに三十分ほど乗った所にとても海が綺麗な、岩窟洞という観光地があると知り、夏休みになったら行ってみようと企てていたのだが、カップラーメンができるまでの三分間を待てず麺は固めが好きだからと言い訳をして二分過ぎには食べ始めてしまうくらい我慢弱い彼女には、夏休みまでそこへ行きたい欲望を押さえることができなかったのである。定期試験も近い時期であるというのに、辛抱できない自分が情けなくもあったが、皐月自身はそれを実行力が強いが故にすぐ行動せずにはいられないのだと良いように評価していた。今後もし就職活動が始まって、長所と短所を述べなければならないとしたら、そういった二面性を軸に語ればきっと上手くいくだろう。まだまだ社会の何たるかを知らない皐月は楽観的にそう考えていたのだが、世の中はおそらくそんなに甘くは無いんだろうな。具体的にどう厳しいのか、正直な所まだ分からない。
不意に遠くで踏切の音が聞こえ始めた。続いて、ピンポンパーンと軽快なチャイムが鳴り響く。手に持っていたスマートフォンは上着のポケットにねじ込んで、やがて来る電車を待つため白線の内側に立った。
「まもなく、ニ番線に、各駅停車が参ります」
アナウンスが流れ、右手を見ると皐月の立つホームに向かってゴトゴトとオレンジ色の車両が迫っているのが見えた。通学の時間なら四両編成くらいはあるのに、この時間帯は二両だけなのか、なんてことを思っている間にキキキッとブレーキを軋ませて電車はゆっくりとホームに滑り込んだ。