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薔薇の呪縛

あれから、ディーズに頻繁に唇を求められるようになった。

好きな人と唇を重ねているのに、心は空虚になっていく。

今日も唇を奪われる。荒々しいキスに身体は熱をもつが、心は冷えていく。

私なんて見てない。そんなむなしさに胸が痛んだ瞬間、薔薇の香りがかすかにした。

思わず、彼の唇を噛んだ。


彼は、私の初めてとも言える抵抗に驚いていた。


「ねぇ、私に何を重ねてるの? ディーズだけは“私”を見てくれると思ったのに。私は薔薇の人じゃないわ!」


悲しくて、悔しくて、裏切られたような気がして、感情がごちゃまぜになる。

しょせんキスしてても、彼は私を見ていないことが明らかになった。

薔薇の香りが移るほどのことを、彼女としたのだろう。

感情がセーブできなくなり、自然と涙があふれる。

キスしてる瞬間だけでも独り占めしていると、うぬぼれていた自分自身が嫌になる。


一人で肩を震わせ、泣いている私の背に腕が回った。

デスクワーク中心のわりに、ごつごつした腕だった。

私はその腕から逃れようともがく。


「離して!」

「フィラ」


そんな私を引き止めるように彼は言う。

思わず、私の時が止まる。


キスされる時以外のプライベートな場で、初めて呼び捨てにされたからだ。

いつもフィラ皇女か、フィラ様だった。

一筋の涙が、瞬きとともに流れ落ちる。


「すまない。あなたは出会った頃のような小さな皇女ではなくて、そしてあの人でもない。ずっと、あの頃のような小さな皇女でいてほしかったのに、あなたはいつの間にか香り立つ美しい女性になっていた」


彼はすん、と鼻を動かす。


「あなたからは清涼な香りがする。百合の匂いだ。あなたが、私にはじめてくれた花ですね」


私は始めて私自身の目を見てくれるディーズに、胸が震えた。ずっと、待っていたの。

背伸びをして、彼の首に腕を回す。


「私を見てくれて、ありがとう」



****



俺は成り上がりの貴族の息子だった。

より上流貴族にとり入ろうと、父は俺を売った。


俺を買ったのは、婦人。赤が似合う女だった。

真っ赤な薔薇が好きで、薔薇の香水を身につけていた。

彼女との思い出はいつも、薔薇の香りをともなう。


彼女は買った俺を面白いと、彼女好みに育てた。

女の扱いの手ほどきも受けた。

初めての女に、俺は驚くほどにのめり込んでいった。


彼女とは夫に隠れた、秘密の関係だった。

女の身体の柔らかさに溺れていた俺は、あなただけよと囁く声に、浮かれた。

彼女の力になりたくて、執務を手伝いたいと申し出た。

退屈に飽きていた彼女は、面白いと俺に教えこんだ。

何回もの失敗を重ね、知識を経験を蓄積させていく。


いつしか、俺の手腕は夫を上回ってしまった。

妻の執務の変化に不思議に思った夫は俺に感づいた。

彼女はゲームオーバーだと、夫の隣で微笑んだ。

俺は身の服一枚で、路地に捨てられた。


簡単に捨てられる関係だったのかと、俺は絶望した。

彼女のためだと思っていたのに、俺は遊ばれていたにすぎなかった。

力ある貴族のお遊びにしか過ぎなかったのだ。


家はとうになくなっていた。

貴族の怒りをかい、夜逃げしたらしい。


俺は、気づけば路地裏にいた。

服は何日も変えていない。

風呂ももう、随分前に入ったっきりだ。

食事をする気力がない。

薔薇の香りがずっとまとわりついてくる。

身体から力が抜け、壁にもたれて座り込む。ただ息をしている状態だった。

そこに、騎馬した何者かが近づいてきた。

もう怖いものなんてない。どうにでもなれと、気を失った。


目が覚めると、俺は路地裏の薄汚れた場所から綺麗な場所にいた。

眼前には俺ですら知っている皇帝が、痛みをこらえるような目をしてベッドに横たわる俺を見ていた。


「私の政治は、まだ至らぬということか……。すまない。すまない……」


俺はなぜ謝られているか、分からなかった。

遊ばれて、捨てられただけのことだ。

分からない。


皇帝から俺に何があったのかを聞き出された。

済んだことだと、事務的に話していった。

その最中、一人の少女が部屋に入ってきた。


「はい、おにーちゃん。元気だして」


差し出された花に、呪縛のように香っていた薔薇の香りが薄れた。

ぼんやりとしていた世界に、ピントが合っていく。

何の裏もなく、ただ元気になってほしいその気持だけでここまで来てくれたことに、心に小さな明かりが出来た。

感謝の気持を込めて、ひさしぶりの感覚だが無理やり少女に笑いかける。

百合の花を受け取り、「ありがとう」と言えた。

スンと鼻を嗅いで鼻腔に百合の香りを吸い込むと、気持ちが凪いでいくのが分かった。



****



ディーズはフィラによって首に回された腕に戸惑う。先ほど自分が傷つけたのに、どうして。

先ほどフィラを泣かせてしまったことに、彼はひどく焦った。

フィラは幼い頃から自分に好意を寄せてくれていた、まぶしい子だった。

だから何をしても受け入れてくれる、そう思っていたのだ。


それは思いあがりで、現に自分の唇は痛んでいる。

この痛みは、彼女の痛みともいえるだろう。

泣きながら俺に訴えているのは、もうあの頃の幼いフィラ皇女ではなかった。

気がつけば、フィラと初めて出会った時のような、視界が一気に晴れた感覚がする。


ああ、こんなにも清らかな女性に育ったのか。

あの人とは対極だ。

なんて美しい百合なんだろう。


彼女に出会った日から、百合は俺を眠りにいざなう花となった。その香りを胸に抱きしめる。

そして首に回った腕に戸惑う。もっと強く抱きしめたい。

けれど彼女の華奢な体に、折れてしまうのではと不安になる。


彼女が澄んだ目で、下から見上げてくる。

赤い、果実のようなみずみずしい唇が、ディーズ?とよびかけた。

その果実に己の唇を寄せていく。



『フィラ皇女ー、作法の時間ですよー!』


廊下で彼女を探す侍女の声に、ひきとめられた。

自分は一体何をしようとしたのだろう。

十二歳差だぞ、おかしいだろ。


けれども腕の中にある彼女に抗えそうになくて、慌てて身体を離す。

このままではまずいと、足早に部屋を出て行った。



****



残されたフィラは頬を赤らめ、目を潤ませていた。

やっと、ディーズが一人の女性として、見てくれた。


「諦めなくてもいよね、ディーズ」


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