愚かな恋心
ディーズに来客があった。
再び、あの時と同じような嫌な予感がして、私は客間へ走る。
道行く人が私をたしなめるけれど、気が気じゃなくて。
ヒールの音を廊下に響かせながら探した。
「――あなたはひどい人だ」
ディーズの私室から声が漏れてきた。
なんて苦悩に満ちた声。それでいて、喜びが隠れた声。
私には与えられることのない、甘い響き。
「知っているでしょう? そういう女だと」
「ええ、悪い女だ」
「好きなくせに」
「あなたこそ知っているでしょう。俺が十二年も前から求めていたことを」
その後部屋は静まる。
いいや、わずかな物音が聞こえる。
私は思わず、その場から逃げ出した。
薔薇の香りが鼻について、気が狂いそうだった。
人目に付かない北の塔の裏、私は逃げ込む。
そして、壁に背中をあずけた。
そうでもしないと、この激情を抑えられなかったからである。
憎らしい、なんて憎らしいのだろう。
私が、年頃になったからと入らせてもらえない部屋にあの薔薇の人は入っている。
そして、彼の愛を無条件でもらっている。
私が逆立ちしたってもらえないものを、あの人は持っているんだ。
「また泣いてる」
窓からディーズの補佐官がのぞいてきた。
少年と青年の狭間にいる彼は、細身ながらも逞しさがあった。
少し焼けた腕を窓にのせ、海のように深い色でフィラを見つめる。
私は慌てて流れ落ちたものをぬぐった。
「いつもエンリには見つかるわね」
「付き合い長いからね。本の友よ」
わざとふざけて明るい話題を振ってくれる彼の優しさに、今は甘える。
「そうね、きっかけは書斎で会ったことだったわね。あの時、あなた急に声かけるんですもの」
「でも、君の持っていた本より、僕の勧めた本のほうがよかっただろう?」
「もちろん。ふふ、またあの本が読みたくなっちやった」
「じゃあ、今から行こう!」
そう言って私の手をつかみ、窓の中へと引き上げようとする。
が、書斎近くにディーズの部屋があることが頭をよぎり、手を振り払う。
「き、今日はやめましょう」
「んー、じゃあ劇を見に行こう!」
エンリが窓を足にかけ、降りてきた。
身軽に地面に着地する。
「皇女は休業だ」
「あら、お父様に怒られたらエンリも同罪よ?」
「望むところだ」
自然と手を取り合い、駆け出していく。
その姿を上から見下ろす者たちがいた。
「私たちにもあんなころがあったわね、ディーズ?」
「ああ」
寄り添う二人。
しかし女の左手の薬指には、大きな宝石が輝いていた。
そして、ディーズの目に薄暗い光が灯る。
***
太陽の日差しが少しやわらいだ頃、フィラは劇場から帰っていた。
自室で劇場で演じられた原作を読んでいた。
なんて明るくて、楽しい話だろう。
ディーズのことで落ち込んでいたなんて嘘みたい。
だからエンリは誘ってくれたんだよね。
優しい人。
自然と頬がほころんで笑う。
「それはエンリを想って、笑ったのですか?」
いつのまにか、部屋にディーズが入ってきていた。
すべて見られていたのだろうか。
羞恥に顔が赤くなる。
「勝手に入ってこないで! 無礼よ!」
「そうですか」
ディーズは皮肉ったように嗤った。
一歩一歩、私に近づいてくる。
いつもと気迫が違っていて怖い。
後ずさった先にはベッドしかなかった。
「そうやって乙女のふりをして、身分の低い男を誑かすのがあなた達なんだ。さぞ愉快だろう! 将来が約束された身で、間抜けな男を誑かすのは!」
怖い。いつもの温厚なディーズじゃない。
彼の手が私の顎をつかむ。
ディーズの目は、獣のようだ。
食い殺される!
彼は私を軽く、押した。
そんなに力が入っていないだろうに、私はたやすく横たわってしまう。
睡眠をとるべき場所に。
なんてことだろう。
これから何が起こりうるのか予想はつく。
叶うことがないだろうけれど、確かに抱かれたかった。
けれど、こんなのってない。
悲しさに涙を流しつつ、目をつむる。
彼を見ていられなかった。
あっけなく私の唇は奪われた。
舌が私の口内を蹂躙して回る。
嫌悪感に涙が止まらない。
何度も、何度も唇が侵される。
次第に涙が乾いた。
そして私はある異変に気がつく。
彼のキスが、いたわる、優しいものになっていたことに。
私は馬鹿だわ。
たったこれだけのことで、許そうと思っているなんて。
変わらず、彼が好き。
彼の顔を覗き見た。
眉が寄せられていて、いつもと違う色気に私は熱に浮かされる。
そんな時、彼と偶然目が合って彼は私から唇を離した。
私と彼の間に出来た透明な橋に、頬が赤くなるのがわかる。
「何て目だ。伊達に男をたぶらかしているだけはある」
酷い言葉。
そう言う彼の眼は雄の獰猛さを秘めていて、私が傷付くのを楽しんでいた。
彼が私を見ている。私は喜びに彼の背中に手を伸ばした。
「ディーズ……」
彼は熱い息をこぼして、服の中へと手を潜らせる。
私は彼の肌の感覚に震え、声をのむ。
部屋がノックされた。
「フィラ皇女、夕飯の時間ですよ」
侍女の声に私は窓を見る。
いつの間にか日は傾き、茜色が空を染めていた。
私は声がいつもと変わらないように、返事をする。
「少し眠っていたから、……身だしなみを整えてからっ、行くわ」
「でしたら、手伝いましょう」
彼の手はその間も止まらない。
声が漏れてしまいそうで恐ろしい。
「そんな、っ、それくらい自分で出来るわ」
彼が私の首筋に吸い付いて痕を刻む。
彼の印に、どうしょうもない喜びがこみ上げる。
「わかりました。早く来てくださいね」
「ええ。わかっ、たわ」
侍女の足音が遠のいて、私は声を出す。
「ディーズ、やめて……」
涙声の私に、彼はあっさりと下がった。
そして衣装室へと行き、とある一着を取り出してくる。
「服が皺になっているだろう? これを着るといい」
「でもそれは嫌だわ」
首筋が見える上に胸元が大きく開いているため、眉をしかめる。
「どうして? 食卓にはエンリもいるだろう? 見せてやらないと」
ディーズがつつっと、私の首筋をなでる。
それだけで背筋が震えてしまう。
「おそらくエンリは腸が煮えくりかえるだろうな。裏切られたと思うだろう。そう、叶わないのなら、最初から想わなければいいんだ」
何度もなぞられる首筋に、私は息が荒くなる。
「その目で食卓に立てばいい」
「出て行って」
「着替えるのを手伝いましょうか、フィラ様」
「今さら敬語なんていらないわ。先に行ってと言っているのよ」
「おやおや。そんなに身体に自信がない?」
「セクハラよ!」
劇の本を投げつける前に彼は出て行った。
そしてディーズが選んだ服を着て、鏡を見る。
所々に彼の跡が写っている。
そして、鏡で見た私の眼は欲情していて、見ていられなかった。
それでも彼が好きだなんて、愚かな女。
鏡の女を嗤った。