芽生え
年の近いお兄ちゃんが好きだった。
かまってくれるお兄ちゃんが大好きだった。
けれどいつからか、お兄ちゃんがお兄ちゃんでなくなった。
私が十二歳の時、彼は二十四歳。
ついに宰相となり、揺るがぬ地位を築き上げていた。
この頃にはディーズを探すのが得意になっていた。
ディーズの執務室にいないのなら、お父様の部屋。
お父様の部屋にいないのなら。
「ここだ!」
「フィラ皇女。ドアを勢いよく開けないで下さい。集めた資料が飛びます」
ディーズは机に資料を山積みにしている。
フィラが見ても分からないものばかりだった。
ここは国の資料をまとめる資料室。
国の情報を何から何まで詰め込んでいる。
私はこの部屋が好きじゃない。
ディーズがかまってくれない部屋だから。
彼は紙を三枚同時に見ていた。
そして頭をかいて、唸っている。
こっちを見てもくれない。つまらない。
暇をもてあまして室内を見渡すと、この前まではなかったのに、用意されていた柔らかい椅子があった。
こういう優しさに胸がもどかしくなる。
ありがとうって言いたいのに、ディーズの視線は資料しか見ていなくて、言えない。
今まで、ディーズの仕事が一段落するまで待っていた。
椅子があるってことは、座って待ってろってことだ。
ぽすん、と柔らかい椅子に座る。
つまんない。ディーズの馬鹿。
私はそこらへんの本を取り出して読む。
国の歴史がつづられていた。
読み進めていくと、分からない単語があったので辞書を引くことにした。
それなのに今日に限って、辞書は手の届かないところにある。
思わずディーズを見たが、ひたすらペンを動かしていて忙しそうだ。
椅子を移動させて上る。
それでもきつい。もう少し頑張れば届きそう。
ジャンプしてみた。取れた。
着地。左足だけ椅子につく。
まずいと思った時には右足は落下を続けて、ぐらりと視線が揺らぐ。
思わず空いた手で何かを掴む。落ちるのは防げた。
けれど掴んでいる何かが傾き始める。
掴んだのは本棚で、本が頭から降ってきた。
もう何も考えられなって、手を放して頭を抱える。
痛いのを覚悟して目を閉じた。
真っ暗な視界の中で、聞くのも嫌な大きな音がした。
音が収まって、目を開けた。
視界は未だに真っ暗。あたりは埃っぽい。
本に埋もれている割に痛くない。
背中にごつごつとした腕の感触がある。
状況がつかめなかった。
「何……?」
光が射し始める。
暗いと思っていたのはディーズがいたからだった。
かばってくれたみたいだ。
ディーズは怖い、怒った顔をしている。
「死んでいたらどうする気だったんです?」
「だって、あんなことになると思わなくて」
「怪我するところでしたよ。分かってます?」
「怪我したら治せばいいわ」
「いけません」
彼と息が触れるほどの近距離。
私は彼の真剣さに戸惑っていた。
けれどそれは。
「私が皇女だから?」
どうして城の皆がよくしてくれるのか、分からなかった。
誕生日を迎えるごとに、習い事が増えた。
勉強の時間も内容も増えた。
そしてみんなの心待ちにした視線が増えた。
全て、次代の皇帝への期待だった。
「馬鹿か!? あんたはそれ以上にフィラっていう女の子だろう。女の子が怪我しちゃいけない。嫁の貰い手がなくなるぞ」
目から熱いものがこみ上げてきた。
それは目じりから流れ落ち、ディーズの服へと染みを作る。
「もしなかったらディーズがもらってくれる?」
「お見合い写真が山ほどあるから困らないだろ。……どうした、きつく言いすぎたか」
ディーズの手がぎこちなく涙を拭っていく。
私は涙をこぼしながらも、ゆるやかに微笑んでいた。
そんな私を見て、ディーズは拭うのを止めて頭をなでてくれる。
この人は家族と同じくらい、私を心配してくれる。
家族の次に大事に思ってくれる他人。
大切の基準は、私が私だから。
少し前の私は知っていた。
彼がそういう人であることを。
だから好きだった。
今の“好き”は今までの“お兄ちゃん好き”とはどこか違う。
心の片隅に暖かい未熟な欠片が転がる。