淡い思い出
私は、今とっても機嫌が悪かった。
「姫様、お勉強の時間ですよ。ほら先生いらしてますよ」
必死になだめる侍女。
私は顔をそらしたまま。
ついでにほっぺもふくらんだまま。
「やだ」
「姫様、宰相補佐がいないのは仕方ないことなんですよ?」
「知ってるもん! リゴーに、お父様とじょうやくをむすびに行ったんでしょ? ……知ってるもん」
先日、勝った戦争の後始末として条約を結びに行ったのだ。
会場は永世中立国リゴーである。
「姫様はどうして宰相が好きなんですか?」
「ディーズはね、フィラをフィラとして見てくれるの。私が皇女だからじゃないの。だから好きなの」
聞く者をはっとさせる言葉は皇女だからか。
フィラ自身だからか。
「あっ、ディーズが帰ってきた!」
窓から王家の紋章が入った馬車が、城に入ってくるのを見つけた。
私はディーズに早く会いたくて、椅子から飛び降りて城門へと向かう。
「姫様、勉強はどうなさるのです!?」
侍女の悲鳴を後に。
***
ディーズは城門で馬車から先に降りた。
「歴史を持つ大国だからか、手ごわいですね」
後から降りる皇帝に手を貸す。
皇帝はそれが当たり前のように手を取り、地に足を着ける。
「負けは負け。あちらも分かっているだろう。明日には結果が出ている」
皇帝の自信に、この人だから部下になったんだと思う。
ディーズは皇帝の言葉に臣下の礼を返す。
「私はあなたについていきましょう」
「それは頼もしい」
皇帝は、ディーズの向こうから走ってくる娘を見つける。
政務で疲れきった心に染みる薬。
皇帝は先ほどの、きりりとした顔を緩ませ、娘のために腕を広げた。
「おかえりなさい、お父様」
「ただいま、フィラ」
抱き付いて家族の抱擁を交わす。
「おかえりなさい、ディーズ!」
そして姫は俺にも抱きついた。
まさか自分がされるとは思わず、驚きを隠せない。
「ただいまって言わなきゃだめなの!」
「あ、はい。只今帰りました」
「それで許してあげる」
こんな暖かいやりとりをしたのはいつ以来だろう。
そしてフィラ皇女にとって、俺も家族だと認識されていることが嬉しかった。
俺はもう一人じゃない。
「父離れか……」
存在を忘れられた人が一人。
皇帝は寂しそうに城に入っていった。
「ところで、何の用ですか?」
「会いたかっただけだもん」
走ってくる侍女を見つけるディーズ。
侍女を見ないように、しっかりと自分に抱きついているフィラ皇女。
なるほど。
「勉強をさぼりたかったのですか」
えへへと舌を出しているフィラ。
頭が痛いとはこのことだ。
「あー! 見て見てあれ!」
ぴょんぴょんと軽く跳ねて指を射したのは、空の橋。
もっと近くで見ようと、俺の手を引っ張る。
「姫様、そんなに急がなくてもそれは逃げませんよ」
「お父様とお母様で見たことがあるけど、ディーズと見たものが一番きれいね!」
真っ白な穢れのない笑顔がまぶしい。
キラキラと笑う少女に、母から伝え聞いた話を教えたくなった。
「虹のふもとには宝があるそうですよ」
「すっご~い! どんな宝なの?」
「さぁ? ですが私はこう思っています。“希望”という宝ではないかと」
人は虹のふもとに夢を見る。
だから希望というものが、ふもとにはあるような気がするのだ。
「ディーズが言うならきっとそうね!」
空に浮かぶのは虹ではなく希望。
****
私は花が好きだった。
彼と出会った時、彼が笑ってくれたから、毎日花を持って行った。
早朝の城。
私は手に一つの花を持っていた。
早く彼に会いたくて小走りになる。
そしてドアの前で身だしなみを整えてから、ノックした。
中から入室を促す声がしたので、彼の邪魔をしないように静かに入る。
彼は今日も、朝早くから仕事をしていた。
私を見ようともしない。
「ディーズ、今日のお花はね」
「ユリでしょう? 匂いで分かります」
手を動かしながら答えるディーズ。
彼は花に詳しくなった。
私が毎日花を持って来ているからだ。
それが嬉しい。
でも一番嬉しいのはユリを分かってくれたから。
彼と私の出会いの花だって、覚えてくれているかな。