最終章 八月と少し
八月。
ひたすら不快な蒸し暑さの峠を過ぎた先は、灼熱地獄だった。今年は過去最高の真夏日が続いており、日々ハイスコアを記録している。張り切るのも大概にしてほしい。気のせいかセミたちの鳴き声も度とか弱々しい。彼らにも夏バテはあるのだろうか。そんな夏真っ盛りな二十一世紀にあっていまだクーラーと言う新三種の神器の一角を欠いたローテクアナログてんこ盛りなあの家は、もはや人の住める環境ではなかった。かの黒き生命体ですらはだしで逃げ出すであろう。まあ、常に整理整頓清潔清楚を心がけていたあの家にもともとそのような生物は最初から存在はしないのだが。
だがまあ、人間驚くべき点はその環境適応能力である。それこそ暑くて暑くて、いっそ室内で打ち水を試みようかと本気で思っていたのは最初の数日で、それ以降は大した問題ではなくなっていた。いや、もしかしたらそれ以上に深刻な事態が、暑さからの脱却を二の次三の次へと追いやってしまっているのかもしれない。
いや実際、いろいろと騒がしかった。
だからこそ、今俺は電車からこんなに穏やかな気持ちで夕陽を見ている。大人になるって、こういうことさ。
そんな八月。
事の発端は数日前に遡る。
□
連日連夜の猛暑は俺の唯一無二にして至上の極楽である睡眠を、選ばれし子供の心の壁並みの鉄壁な防御によって阻害し続けていた。
「……暑い」
しかしその日の朝の気温は異常だった。いつにも増して暑い。まるで、至近距離に誰かが寝そべっているような、そんな外的要因から来る暑さのようだった。
こめかみのあたりから伝い落ちる汗がそのままベッドへと落ちるのを感じる。全開の窓から入って来るのはセミの鳴き声。それがまたより睡眠を阻害するのだが、窓を閉めるわけにもいかない。
このとき気を付けるべきことは、眼は閉じたまま決して開けてはならないということだ。一度開けて日光をこの目に入れてしまったならば、俺はきっと今日の夜になるまで寝ることができなくなる。よってこのまま出来得る限りの方法で涼しさを求めるより他ない。
とりあえずお腹の上にかかっているタオルケットを勢い良くはいだ。それだけでも十分変わったが、まだ暑い。そこで、位置を少しずらしてみた。布団の表面の、まだ俺の体温で温まっていないところは幾分冷たい、はずだった。
「……暑い」
おかしい、一向に変わらないどころか、余計暑くなっている。さっきまで感じていた暑さの他に、今度は何やら生暖かい風が胸に吹きかかる。しかもそれは断続的に吹いていて、まるで人の吐息のようだった。
「…………」
禁を破り目を開けると、目の前には頭があった。
ここで言う頭が自分のものではない事は容易に理解できる。つまり、目の前に誰かがいるのだ。
その瞬間反射的に「やっちまった!?」と思ってしまったのは一種の懸念であって、必ずしも自分がそういった犯罪行為に手を染めることをあらかじめ想定していたわけではないのだ、なんて言い訳を自分に言うことでとりあえず落ち着かせた。
まず落ち着いて昨日のことをよく思い出してみよう。はいスタート!
まず昨日は確か、午後から天久さんに強引に家から連れ出され何故か鬼ごっこをすることとなり、かなり本気で逃げ回っていた。それから、やっと解放されて家に帰るとシャワーを浴びてすぐに寝た。
そう、すぐに寝た! それで昨日は終了。
つまり、どこにもやましいところはない。あ、いや、知ってたよ、マジで、当たり前じゃん。
ではこれはなんだ、俺の妄想が具現化したのか? いやいや現実的に考えてそれはないだろ。
ではなんだ?
そんなことを考えている俺の心の中の隅っこの一角には実はある一つの仮説が立っていた。しかしこれはある一つの条件が必須となっているため、今この状況に当てはまるわけがない。しかしこの仮説はそこに根を張りなかなか取り除くことができないのも事実。
そもそもまずこんな状況において自分がそこまで取り乱していないのもこの仮説に関係している。そしてこの仮説はある経験則に基づいている。そしてそれには、ある一つの条件、一人の人間が登場している。
「……おい」
「ん……あ、おはようございます。お兄さん」
緋陰が、やってきた。
□
恥ずかしながら憚らずに言わせてもらうと実は、俺は子供の頃『神童』と呼ばれていたことがある。それが単なる親バカと言われればそれまでなんだけれど、事実、恥ずかしい話俺自身そうだと信じていた頃もあった。俺は少しばかり周りと比べて頭の方の発達が早かった。そんな俺を両親は神童だともてはやし、俺も自分は特別なんだと疑わなかった。しかし栄枯盛衰とはよく言ったもので、そんな俺の全盛期はものの数年で終わりを告げることとなった。
緋陰の誕生だ。
その妹の発育ぶりは俺のそれをはるかに超えていた。両親たちは手のひらを返すように俺から緋陰へと関心を移していった。神童は取って代わられたのだ。その時俺はというと、後から来た新参者のくせに俺の地位を奪っていったこの妹に激しい憎悪を抱いて……なんてことは全くなく、「僕の妹だ、僕のように頭がよくて当たり前だ」なんてかなりおめでたいことを考えていた。あろうことかその当時自分が持てる知識のほとんどをまだ年端もいかない妹にたたきこんでさえいた。その甲斐があってかなかったのか、彼女が小学生になった頃には、三つ歳が上だったはずの俺は彼女に対し教えてあげられることは何一つなく、むしろたびたび教えてもらうことがあったくらいだった。
さすがにこの時には、俺が神に選ばれた子供だ、なんていかれた妄想を抱いてなどいなかった。それは両親も同じだった。しかし、一人だけ、そんな妄想を信じて疑わない奴がいた。
緋陰だ。
その当時からのこいつの口癖は「お兄さんはすごい人なんだ」だった。決して俺がそう言うように教育したわけではない。しかし何故かそんな妄言を語るようになってしまった。
しかしこいつがどれだけ言おうとも俺を含めて誰一人そんなことを信じるわけがなかった。それ故か、彼女はある日一つの結論、もとい極論に至ってしまったらしい。
お兄さんを本当に理解できるのは私しかいない。
天才とあれは紙一重、その言葉を痛感した。こいつの暴走は俺が中学に入った頃から始まった。
朝起きると、何故か横にはこいつがいるような日が何日もあった。俺がただの友達の女の子と一緒に帰っていると、なにゆえかそれを敏感に察知し、俺たちの前に現れ、じわじわと、あえて直接的ではなく、あくまで遠回しに、間接的に相手の心を砕き、泣いて帰らせるというかなり悪質なこともあった。
もちろん俺だってそのままで良しとはしない。何度も止めるように促したがしかし、こいつはもはや俺の抑止すら聞き入れないほどの狂人ぶりを発揮していた。
だから、高校に進学するにあたって家を出ることとなった時、俺が心から歓喜の声を上げることとなった大きな一つの要因がこれだった。
「お兄さん、朝ご飯は和食で良いですか?」
「あ」
そう言って我が家の小さな台所に向かって行った。いつの間にかエプロンまで付けている。
とりあえず電話をすることにした。
「もしもし」
「母よ、今目の前に誰がいるかわかるか?」
「ああ、着いたんだ」
「なんで来させたんだよ」
「だって、行きたいって言うから。何? 何か問題でも?」
緋陰は普段の行動を両親に知られないよう巧妙に動いている。
「女の人と話しているのですか?」
「母さんだよ」
なぜこの距離で女性であると聞き取れるんだ。
「あなた最近たるんでるからね。緋陰ちゃんに少し様子を見てもらおうと思ったのよ。これからは緋陰ちゃんを見習って少しは生活を改善しなさい」
その行為が実は母の思惑と真逆に働いてしまうことを教えてあげるべきなのだろうが、どうせ聞き入れてはくれないだろう。
「でもなんでも緋陰ちゃんにおんぶにだっこじゃダメなのよ。分かってる? じゃあちょっと緋陰ちゃんに代わって」
言われた通り携帯電話を緋陰に渡した。何を話しているのかは聞き取れなかったが、緋陰は何度か「はい」と返事をしていて、最後は「任せてください」と実に物騒なことを言って電話を切った。
「母さん、なんて?」
「この夏休みいっぱい、お兄さんの面倒をよろしく、と」
緋陰はどこか含みのある笑みを浮かべている。俺は緋陰から携帯電話を受け取ると部屋に戻ろうとした。
「ところで、お兄さん」
その時、突然後ろから緋陰に呼び止められた。
「何?」
「なんだかこの部屋、女の方のにおいがするのですが……」
一瞬、確かに心臓の動きが停止した。背中に緋陰の視線が突き刺された。
忘れかけていた恐怖が、蘇る。
「気のせいでしょうか?」
「……当たり前だろ、あれだよ、きっと勧誘できたおばさんのきつい香水が残ってるんだよ」
暑さとは違う何かによって汗が出てきた。
「そうですか」
後ろでは一定のリズムを刻む包丁のトン、トン……という音が聞こえる。怖くて振りかえれない。
「でも、このにおいは……なんと言いますか、丁度お兄さんと同い年の方のような……」
相変わらず包丁の音はそのリズムを刻んでいる。
「そんな、においでそんなことが分からないだろ」
「それもそうですね、でも……」
包丁の音が、止まった。
「長い黒髪の方とは親しい間柄みたいですね」
恐る恐る振り返った。緋陰の身体は横を向いているが、顔だけはこちらを見ている。口角が少し上がってはいるが、目が全く笑っていない。右手は包丁を握っていて、左手は手のひらを上に向けて開いている。その手の上には、髪の毛が乗っているようだ。明らかに俺の髪の毛ではなく、かといってショートヘアの緋陰より明らかに長い、髪の毛が。
「……どうしたの、それ?」
「お兄さんの洋服についていましたが、心当たりはございませんか?」
記憶を振り返る。
昨日の洋服は、洗うのを忘れていて床に脱ぎ散らかしたままだった。
「それは……きっと、どこかで服に付いたんだろうね」
「そうですか……私の思い違いでしたか。失礼しました」
また包丁が動き出す。
「まさかお兄さんが、私に嘘をついているわけがないですよね」
トン、トン、トン、トン、トン……
「ゴメン、ちょっと電話してくる」
「いちいち外に出るんですか?」
「ここたまに電波悪くなるから、一応な」
外に出てアパートから十分な距離を取って、なおかつあいつが付いてきていない事を十全いや十二全に確認してから、電話帳からその番号を出して電話をかけた。
呼び出し音が鳴るかならないかのタイミングで相手は電話に出た。
「はい、小日向蓮です」
「すみません間違えました」
一度切ってもう一度かけ直した。
「はい、小日向蓮です」
「すみませんまた間違えました」
切って、しっかり確認してからもう一度かけ直した。
「……はい、天久蓮です」
「あ、天久さん?」
どうやら今度はつながったようだ。
「どうしたの? なんだか元気ないみたいだね」
「立て続けに二回も間違い電話がきてさ……」
「それは災難だったね」
「それより小日向こそどうしたの? そっちからかけてくるなんて珍しいね。と言うか初めてかも。そんなことないかな?」
「ちょっとやむをえない事情でね」
「なになに? 私の事好きで好きでたまらなくなって抱きたくなったとか?」
緊急事態なのでスルー。
「今日うちに来ないでほしいんだ」
「無理」
きっぱりとした口調だった。
「今日どころか、この夏休みずっと来ないでほしいんだ」
「拒否」
断ち切るような言い方だった。
「ホント、お願いね。こればっかりはどうしようもないから」
「却下」
隔絶をはらんだ発音だった。
でもそんなこと知ったこっちゃない。
「じゃ、そういうことだから」
電話を切った。これで大丈夫か……大丈夫だよな?
「お兄さん、電話、終わりました?」
後ろに緋陰がいた。
「……いつからいた?」
「つい今です。ご飯できましたよ。ところで、小日向蓮とはどのようなお方ですか」
緋陰が持っている包丁が、あやしい光を放っていた。
□
部屋に戻ると、テーブルの上にご飯に味噌汁、漬物に焼き魚と、日本の朝ご飯には大正解の品々が二人分並んでいた。何故か丸いテーブルに横並びになって。いくら狭いわが城とは言っても、男女二人が窮屈するほどではない。スペースは有効に活用すべきだ。
とりあえず俺は何も言わずにテーブルの前に座ってご飯を食べ始めた。すると緋陰は何の躊躇もなく俺のすぐ隣に座って食べ始めた。俺は何も言わずに緋陰から少し離れて座りなおした。緋陰は何も言わずに距離を詰めてきた……を何度か繰り返し、結局テーブルを一周してきたところで俺が折れた。
お互い肩がぶつかりそうな距離にいて、何も話すことなく黙々と食べ続けた。落ち着かない。
おかげで久しぶりの我が家の味噌汁の味をほとんど味わうことはなかった。
「そういえば」
沈黙と言うアイアンメイデイから解放されるために俺から話を振ることにした。
「正確にはいつ着いたんだ?」
「昨日の午後五時です」
「午後五時って、まだ俺帰ってないじゃん」
「はい、おられませんでした」
「え? あれ? そういえばいつうちに入ったの?」
「それでは昨日から今に至るまでを簡単に説明させて頂きます。まず昨日午後五時にここに着いた時、お兄さんはおられませんでした。ですからお家の前で待っていることにしたんです。そしたらお隣さんの原田さんにお会いしまして、私とお兄さんとの特殊な関係を伏せながら説明したこところ、ある程度お察していただいて、お兄さんが帰ってくるまでうちにいな、とおっしゃってくださったのです。せっかくの申し出ですし、正直なところ長旅で少々疲れていたのでその申し出をありがたくお受けしました。それから原田さんにいろいろお兄さんのお話をお伺いするなどしているうちに、どうやらお兄さんが帰って来たので、原田さんにお礼を言ってお宅を後にしたのですが、何度呼びかけてもお兄さんは気付いてくれなくて、途方に暮れていました。すると大家さんがやってきて、私とお兄さんとの特殊な関係を伏せながら説明したこところ、ある程度お察していただいて、お兄さんのお家の鍵を開けてくださったのです。そこで大家さんにお礼を言ってお兄さんの家に入ったのですが、その時すでにお兄さんはご就寝でしたので、起こすのは忍びなかったので私も床に入らせていただくことにしました。最初はお兄さんの背中に私が寄りついている格好だったのですが、私が床に入ってからおよそ一時間後にお兄さんは寝返りを打ってこちら側を向く格好になりました。そこから三十分後には左手を伸ばして私の頭を抱える格好になり……」
「止めろ、その先はいい」
「そうですか? ここからが大切だと思うのですが?」
「気のせいだ。それとさっきは話を止めるのもあれだからと思ってそのまま流したが、お前原田さんと大家さんに何を話した?」
「真実、です」
「幻想、だ!」
「何をそんなに興奮されているのですか? ほら、ご飯粒まで顔につけて」
「待て! なんでご飯粒を取るのに顔を近づけるんだ!」
「何かおかしいですか?」
「全てがおかしいです!」
「ではどうしろと?」
「そこに座って何もするな!」
「それではご飯粒がとれません」
「俺が取れるだろ!」
「私が取れません!」
「当たり前だ、この俺が、直々に、お前の目の前で取るんだからな! ふははははは!」
「そ、そんな、あんまりです!」
はてさて、俺は休日の朝っぱらから頬にご飯粒を付け、声を張り上げ誇らしげに自分の妹に一体何を言っているんだ? そして妹はなんでそんなに憎々しげに俺を見つめるんだ?
もう訳が分からない。
そんなこんなでいささか騒がしい朝食も終了。
緋陰は食器を洗っていて、俺はベッドに横になっている。
「なんだか……」
「違うぞ」
「まだ何も言っていないですよ」
「お前がこの次に何を言おうとしているかなど火を見るより明らかだ」
「さすがはお兄さんです」
「このところそう言った笑えない冗談をよく振られるからな。慣れた」
「どなたにですか」
はっ――
「……どなたって、なんだ?」
こちらを見る緋陰の眼は、黒く淀んでいるように見えた。
「どなたがそんなつまらない冗談をおっしゃるのですか?」
部屋には水道から流れる水の音が響いている。セミたちはどこか遠くの方へ行ってしまったようだ。さっきからサンサンと照り続けていた太陽が雲に隠れてしまったからか、部屋が一気に暗くなる。
「……言っても、分からないだろ」
「おっしゃってくれれば、これから分かるようになります」
「別に、お前もすぐ帰るんだから知る必要はないだろ」
「小日向蓮、ですか」
ドッキン。
「…………」
「せっかくですから、お会いしたいものです」
「絶対だめだ」
「お兄さんとはどのようなご関係なのですか」
「ただの、クラスメイトだ」
「でしたら問題ないではありませんか」
「問題あるんだ。俺はこの夏休みを有意義に使いたいんだ。我が家を天下分け目の決戦の場にすることは許さない。やるなら岐阜県に行ってくれ」
「何をおっしゃっているのかよく分からないのですが?」
「気にするな、そして会おうとするな」
「でも……」
「デモもストもない」
「いらしてしまったようですよ」
その瞬間、俺は玄関に向かって駈け出した。
右手を可能な限りのばし、あとほんのちょっとで鍵に手が届くというところで、無情にも扉が開いた。
「来ちゃった!」
奴はやってきた。
俺は勢い余ってそのまま地面に突っ伏した。
「あ、なになに? 小日向ったら勢い余って転がるほど私に会いたかったのかな? 照れちゃうな~えへへへへ」
と言って、少しの間が空いて、そしてものすごい勢いで扉を閉めた。当然俺の体が挟まっているのだが、まあ当然気にかけてくれることはない。
かがみこんで俺の首をつかむと一気に持ちあげ、自分の顔の高さで固定した。そして今までとは打って変わった。地獄の底から響いてくる地鳴りのような声で言った。
「あれ、なに?」
あれ、と言う指示詞が何を示すのか。俺には皆目見当がつかなかった。正しい日本語の使い方では、人の事を「あれ」で指し示したりはしない。つまりはきっと違うことを聞いているのだ。
「なんのこと?」
決してしらばっくれているわけではない事は誓って言える。ここまで来てそんな往生際が悪いことをするほど子供ではない。第一嘘を言おうものなら舌を抜きそうな勢いだ。別に彼女の顔を見ていないことに理由はない。
「しらばっくれるな」
だがしかし、俺のこのような潔さは人に理解されるのが難しい。
「あそこにいるのは、なんだ?」
彼女の眼はもはや理性と言うリミッターを完全に解除した野獣と化している。今や彼女を留められるものは何もないかに思われた。
「妹です」
しかしこれが意外なほどの効果を持っていた。彼女はみるみる冷静さを取り戻し、本能は呆気なく理性のベールに覆われてしまった。
「なんだ~早く言ってよ」
「がっ!」
そう言うと俺の襟を急に放すもんだから俺はコンクリートの床に勢いよく頭をぶつけてしまった。彼女は「コホン、コホン」と小さく咳払いを二回すると、扉を開けて入って行った。
この場合俺はすぐに追いかけて行くべきなのかもしれないが、しばらく横たわっていた。決して、怖いからではない。ただ、扉に挟まれ倒れている今この時間がこの夏休みで俺に与えられた唯一の安息であろうことを俺は、何となく感じ取っていた。
「……よし」
どれくらい時間がたったのだろう。十分か、三十分か、はたまた三分か、地面のコンクリートは俺の体温ですっかり温まってしまっている、それくらいの時間が流れた。その間部屋の中からはほとんど物音がしなかったから、どうやら物理的な闘争は回避されたのかもしれない。俺は立ちあがって家に入った。
台所と部屋を隔てるガラスの引き戸は開いていて、中の様子が見える。二人は小さなテーブルに向かい合って座っていた。
もしかしたら、仲良くなれたのかな?
「私は大嫌いです」
「私は大好きだよ」
それがまず最初に聞こえてきた言葉だった。
□
二人はテーブルをはさんで座っていた。どちらも正座をして背筋を伸ばし、とても礼儀正しい振る舞いに見えなくもないが、方や感情をナノレベルまで分解して作り上げたほぼ完全な無表情。方や誰が見たってどこから見たってこれ以上はないのではないかと思わせるほぼ完璧な笑顔。
さてここで質問です、完全と完璧、どっちがより上でしょうか。
「そんなこと、今関係ありますか?」
「……ないね」
緋陰に諭された。
「全くないってことは、ないんじゃない?」
「……かもね」
天久さんに諭された。
「…………」
窓の外を見た。どうやらセミたちは本当に遠くの方に言ってしまったようで、全然帰ってくる様子がない。太陽はいまだ隠れたまま。何かひんやりとしたものが背筋を下から上へとなでた。思わずびくりとする。
「どうかしましたか?」
「どうかした?」
「いや、なんでもないよ」
気にかけてはくれたみたいだけれど、二人はこちらを見てもいなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
いつまでこんなことをしているのだろう。
「だからって、なんで僕を呼ぶのさ」
結局、二人はお互い向き合って座ったまま特に何かを話すこともなく、何かが起きる様子もないので緊張もすっかり緩んでしまった俺は、暇で暇でしょうがなかったので仕方なくコガを招集した。
「一緒に宿題をしよう、そう言ってたよね」
「するともさ。ただちょっとスペースが限られてしまうのと、クーラーもないのに部屋がひんやりしているだけさ」
「あの二人は?」
「なに、いていないものだと思ってくれ」
「なるほど」
コガはふふふ、とまるで女の子みたいな笑い方をして納得した。
「ところで、そちらのかわいい女の子は?」
コガが緋陰に向かってそう言うと、緋陰はコガに向きなおって一礼した。
「これは失礼いたしました。私は秋光緋陰というものです。兄とは十三年の付き合いになります」
最後の一言は明らかに天久さんに向けられていた。
「へぇ、かわいい妹さんだね」
「……まあな」
「そんな、お兄さんったら」
天久さんが俺を睨んでいる。
「でも、人と人って、年月だけじゃないと、私は思うな。ね? 小日向?」
「……まあね」
「ほら!」
緋陰が俺を睨んでいる。
「……さて、と。それじゃあ俺たちはさっそく宿題を始めるとしようか。ねぇコガくん?」
「そう? 別にそこまで急がなくても」
コガは満面の笑みを浮かべている。
「いやいや、そんなことを言っているからいつまでたっても終わらないんだよ。じゃ、俺たちこっちの廊下でやるから」
「どうしてですか?」
「どうして?」
二人は間髪入れずに聞き返してきた。
「いやだって、そこでやってたら邪魔でしょ? こんな暑い日に一つの部屋に四人かたまるなんて」
「私は構いませんよ」
「私も」
その笑顔と無表情の組み合わせは怖かった。
「……じゃあ、そっちでやろうか」
丸いテーブルに、俺から時計まわりに天久さん、コガ、緋陰の順番で座った。ただ、俺の両隣の二人はやや俺の方に寄っている。
俺とコガはそれぞれ宿題をやっているが、二人はただ俺の所作をじっと見続けている。それはすごく居心地が悪い、手が震え、落ち着かない。
部屋には紙の磨れる音とシャーペンがコツコツと字を書く音しかない。
重い沈黙。
「二人とも、宿題は?」
「もう終えてきました」
「終わったよ」
「……そっか」
またしても重い沈黙。
「二人とも、昼食は?」
「まだ十時です」
「まだいらないかな」
「……そっか」
繰り返される沈黙。これを打開するために、こいつを呼んだのだ。さあ、今こそその意義を存分に発揮するのだ。コガよ!
「コガはどうだ?」
「僕も食べたばっかりなんだ」
まあ、実際のところこの展開は容易に想像できた。この四カ月の間、こいつが俺のために俺が欲することを察して行動してくれたことは……きっとなかった。
「お兄さんは、どうなんですか?」
「へ?」
「お昼、お召しになりたいのですか?」
食べたいかと聞かれれば、別にそこまで食べたいわけではない。だがしかし、この場合その問いに対する答え次第では、あわよくばこの状況を打破することも可能かもしれない。一縷の望みにかける価値はある。
「そうだな、少しお腹がすいたかもな」
「そうですか。それではご用意いたします」
「私がやるよ」
両者は中腰のまま見つめ合い膠着状態に入った。コガはわくわくした目で俺を見ている。
「いや、せっかくだから外で食べようよ」
□
自分が作ると言ってきかない二人を言葉巧みに誘導し、何とか外に出ることに成功した。照りつける太陽、鼓膜を揺らすセミの鳴き声、ああ、これほどまでに愛おしいと思ったことは今までなかったのではなかろうか。
「どこに行く?」
「どこに行きましょうか?」
「さて、どこに行きましょうか? そこら辺のファミレスで良いんじゃないかな、と俺は思うよ」
「だったら、僕に任せてくれないかな」
珍しくコガが提案をしてきた。特に断る必要はないが、どうしてこいつは何かを企んでいる顔を隠すことができないんだろうか。実は聞かれるのを待っているのか?
「まあ、特に行きたいとこがあるわけじゃないし、良いんじゃないか?」
「じゃあみんな、こっちだよ」
コガが先頭になって歩き始めた。するといきなり天久さんが右の腕に自分の腕を組んできた。
「なにをしていらっしゃるのですか?」
それを俺よりも先に緋陰が反応した。
「だって、二人であること気はいつもこうしているんだもん、ね? 秋光?」
うそです。
すると今度は左の腕に緋陰がまきついてきた。
「では、私もいつも通り」
「兄妹でそんなことしてるの?」
「何か問題でも?」
「なにもない、ってことはないよね?」
「はて、そんな法がいつから施行されたのでしょうか?」
「法律がどうとかじゃなくて、常識だよね」
「常識!?」
まさか天久さんの口から常識なんて言葉が出てきたことを俺は信じることが出なかった。
「常識ですか。それをあなたがおっしゃりますか?」
「ん? どういう意味かな?」
「これは、とんだ御無礼を。私としたことが、もう少し分かりやすく噛み砕いて話すべきでしたね」
「私はその意味をよく理解したうえでこの質問をしたんだけどな」
「とりあえず離れようか、お二人さん」
聞こえていない、ただの道化のようだ、俺は。
「これは、またまたご無礼を」
「うん、しょうがないよ。たとえ緋陰さんだって、分からない事はあるもんね」
「あれ? 聞こえなかったかな? 離れようって言ってますよ、僕」
「そうですね、まだまだ若輩者です。少しでも天久さんのような方にご教授賜れたらと」
「私だったらいつでも大歓迎だよ」
「ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして。じゃ、二人とも離れよ?」
俺の願いはどうやら神どころかこんな至近距離にいる二人にすら届かなかったみたいだ。
「実は私、ここに来る途中も何度も道に迷ってしまって。この一帯は、本当に複雑ですね。ですから皆さんに迷惑をかけないよう、お兄さんの腕につかまっているのです。本当に、至らぬ身である自分が嫌になります」
「腕を組まなきゃ迷っちゃうって、そんな人いるのかな?」
「何事も、用心に越したことはありませんから。天久さんに、その必要はありませんよね?」
「小日向って、ちゃんと見てないと、すぐどっか行っちゃうんだよね。本当に手がかかっちゃう。私がついていなきゃね」
「それは、手をつながなくても事足りるのでは?」
「何事も、用心に越したことはないよね」
「そうですね」
「そうだよね」
二人は結局俺と腕を組む格好で落ち着いた。
ただ、一つ気がついてほしい。前にコガ、両腕をそれぞれ天久さん、緋陰に組まれて歩いている俺というこの画の異常さに。
体の自由を奪われ、道行く人からはなんだなんだと後ろ指を差される俺には、ただ空を見つめることしかできなかった。
そんな、さながら「遅刻しました」と書かれたプラカードを首から下げ廊下に立たされた小学五年生のみじめな気持ちを満喫しながら着いたところは、なぜか俺も御用達の地域密着型スーパー『一郎』だった。
「なんで?」
俺は当然のごとく疑問の声を上げた。他の二人も声すらあげてはいないものの同じ気持ちのはずだ。おれたち三人はコガを見た。
するとコガは、もったいぶった感じをあからさますぎるくらい出しながら言った。
「第一回、秋光争奪お料理対決~パフパフ」
まさか、今までこいつと付き合ってきて、その人間性を完全に理解したつもりはない。人間はそんなに簡単にはできていない。もっと複雑で難解で細々しているかと思いきや案外大ざっぱ、なんて矛盾すらはらんでいたりいなかったりの集大成だと言っても過言ではない。だが、それでもこいつと知り合って数か月がたって、少しくらいこいつを理解しているはずだった。だから、よく考えればこの行動を俺は予測ができたはずなんだ。だから俺にはコガを糾弾する権利はない。これは俺の過失だったんだ。それがまさか、こんな結末を迎えることとなったとしても……
「なんだかそのモノローグだと最後はびっくりどっきりなどんでん返しが待っていそうだね」
「お前外に食べに行こうって言わなかったか?」
「おや? 言葉が足りなかったな。日本人は必要最低限の言葉しか言わないって言う迷惑な国民性を籠っているよね。ちゃんと付け足せばよかったよ。外に食べ『物を買い』に行こうって言いたかったのさ。実は」
「お前は、本当に何がしたいんだか分かりやすいやつだな」
「そうかな?」
「そうだよ。少なくともこの二人よりはな」
「そんなことないと思うけどなあ~。まあいいや。それじゃあ、始めましょうか!」
コガはパン、と手を叩いた。それが合図とばかりに緋陰と天久さんは飛び込むようにスーパーの中へと入っていった。
「いや~すごいね。見た? 二人の顔」
こいつは本当に楽しそうな顔をしている。
「あほ抜かせ。そんなもん怖くて見れるか。夜おトイレに行けなくなっちゃうよ」
「確かにそれくらいの迫力があったね。さてと、それじゃ秋光はこれからどうするの?」
「とりあえず、家にでも帰ろうかな」
俺がここにいる必要はないみたいだし。
「了解。それじゃ先に帰っててよ」
「え? コガは来ないのか?」
「僕はここに残らないとね」
「そうか、大変だな。それじゃ俺は帰るよ」
「また後で、楽しみにしててね」
「楽しみにしてるのはお前だろ?」
俺はコガと別れて家路についた。結局は全面対決になってしまったわけだが、まあ死傷者が出ないのなら……出ないよな?
□
「……きて」
「う~」
「……起きて」
「あ~」
「ねえ、起きてったら」
「お~」
「起きないと、キスしちゃうぞ?」
「お前、正気か?」
「あれ? 起きちゃたの? なんだ~残念」
目の前のコガの顔には、気のせいか寝ぼけているせいか、落胆の色が伺えた。
「おお~嘘みたいに最悪の目覚めだぜ~」
「何か悪い夢でも見たの?」
「半分はお前のせいな。でもあと半分はそうだ。最悪な夢だった……なんかな、突然俺の妹と俺のクラスメイトが料理対決をすることになるんだよ。で、そんなの馬鹿馬鹿しいって俺は寝始めるんだよ。でも、突然たたき起こされて、目の前には中性的かつ同性愛者予備軍筆頭の友達の顔があってな、で、テーブルにはいつの間にか料理が並んでるの……あ~思い出しただけでもダメだ、元気が湧いてこねえ。悪いコガ、俺もう一回寝て良い夢を見直してみる」
「それじゃあ、私がキスで起こしてあげる」
「それでは、私が目覚めのキスをさせていただきます」
その言葉で跳ね起きた。
あっぶね~もう一回寝てたらもう二度と小春さんの顔を拝むことなく永眠するところだったぜ。
「さて、秋光も起きたことだし、さっそく始めましょうか!」
なんとまあ、こいつはなんでそんなに楽しそうなのでしょうか。俺は友の異常な性癖を本当に心配する。
「まあ、勝敗は待つこともなく確定しています」
「それって、私が勝ち、ってことかな?」
「これは失礼しました。私の不用心な一言がまさかそんな歪曲して伝わってしまうとは、私の過失です。正しく言い直す必要がありますね」
「いーや、大丈夫だよ。ちゃんと伝わってるから。ちゃんと伝わったうえで、そう言ったんだよ」
どうやら俺が寝ている間に二人は料理という媒介を通して互いの心を感じ取り、手を取り合う道を歩みだしたようだ。俺はうれしい、この世に争いから生まれるものなど何もない。人の手は、人を傷つけるためにあるんじゃない、人を温めるためにあるのだ。
「良いね良いね。やっぱ勝負事はそれくらい燃えてなくっちゃね。さ、秋光もいつまでもベッドの上で現実逃避行なんてしていないでこっち座りなよ」
俺はコガに言われる通りテーブルの前に座った。そこにはもうすでに料理が並んでいた。一つはカレーライス。もう一つはかつ丼だった。どちらも漂うにおいが腹の虫を呼び起こす。俺の体はすでに臨戦態勢だ。ただ、理性がその衝動を真っ向から抑えている。得体のしれないものは、食べる前に調べろって、ばあちゃんも言っていた気がする。じいちゃんだったか?
「これって、どっちが、どっち?」
「それが分かっちゃ、面白くないでしょ? 厳正で公正な評価をしてもらうために、あえて分からないようにしてみました!」
「ワァオなんてクールなアイディアなんだいマイハニー!」
「ヘーイそんなに褒めないでよダーリン」
俺とコガのコミカルアメリカンファミリー劇場を、二人はまるで死んでほしいやつを見るような眼差しで射殺そうとしていた。
「さて……と、じゃあ早速食べてもらいましょうか。秋光?」
「あれ? どうしたんだ? 急に食欲が……」
さすがに調子に乗りすぎたようで、天久さんの鋭き眼光に二度ほどに視殺されてしまった。彼女の目はビームが飛び出す特注品なのだった。
もういい、なるようになれ。
「いっただきまーす」
最初は食べきれるか心配だったけど、俺はどうやらすごくお腹がすいていたらしい。かつ丼もカレーライスも難なく間食してしまった。
味は……正直なところ、どちらも結構うまかった。
「さ、ささ、秋光、判定の方、どうぞよろしく!」
「いや、思ったんだけど、これ、普通同じ料理を作らないとどっちがうまいかどうかの判定はしづらくないか?」
「…………」
三人はまさしく青天の霹靂を食らったような顔をした。少し考えればすぐ分かるようなことだと思うけど。
「……今回は、普通の料理対決とは違って、秋光が食べたかった料理を作った方が勝ちって言う意匠を凝らした企画となっていたのだった~」
見事な後付けだった。
「で、秋光、どっち?」
二人は期待に目を膨らませて俺を見ている。
「そうだな……どちらかと言われれば、かつ丼の方が食いたかった気がするな」
本心だった。これはまぎれもなく、俺の本心。別にカレーが嫌いなわけではない、むしろ好きだ。でもそれと同じくらいかつ丼も好きだ。ただ今日がかつ丼って気分だっただけ。
俺の回答を聞いた二人は一瞬の間があって、それから別々の行動をとった。
一人は大きくガッツポーズをとった。
一人は何も言わずに駆け足で家から出て行った。
「いや~、さすがは秋光だね。ここでそういうチョイスができるんだからさ。じゃあ、あっちのことは僕に任せておいて。それではお二人さん、ごゆっくり」
コガはそう言い残して家を出て行った。
「……なんだ?」
俺は誰にともなく疑問を口にした。
「この勝負、負けたほうがこの場を去るという決まり事がなされていたのです」
と、緋陰が答えた。いつの間にそんな決まりごとが。
□
どうやらその決まり事というのは本当に強い影響力を持っているらしく、天久さんが戻ってくる様子は一向にない。
ただし、そこは天久さん、転んでもただでは起きません。
「……ねえ、入ってくれば」
「それはだめ、そういう約束だから」
「おいコガ」
「それはだめだよ~この約束を反故にした人は、これから一年間、秋光と話しちゃいけないんだ」
「……あれ? それってなんだか俺が罰ゲームくらっているみたいではないか?」
「いいの、とにかく私は入っちゃいけないの」
「だったら、帰るとかすれば? そうでなくともそこはやめてくれません? 皿洗うのに集中できなくて」
天久さんは家から出て行った、しかし帰ったわけではない。家の外にいるだけなのだ。しかも今は台所にある小さな窓から家を覗いている。こんなところご近所さんに見られたらまたとんでもない噂をたてられてしまう。
「お気になさらず」
「気にしますよ! マジ入ってこれないなら帰ってください!」
「そうですよ、天久さん」
いつの間にか緋陰が後ろに来ていた。
「そんなところにいられたら、何かと不都合です」
「何をするのに不都合だっていうのかな?」
「さあ、それは私の口からは何も……」
そう言うと緋陰は急に後ろから抱きついてきた。白く細い腕が腹に巻き付く。
「おいなんだよ緋陰、抱きつくなよ、暑いじゃねぇか」
振りほどこうにも両手が泡だらけで振りほどけない。
その時、どこからか「ドォン」と低く響く音がして、建物が揺れた。目の前の天久さんはうつむいているせいで髪の毛が顔を隠していて、今一体どんな表情をしているのか視認できない。
「あの……天久さん?」
返事はない。
「おいコガ! コガ!」
あいつはいつの間にかどこかに逃げていた。ちょっとこれはまずいことになったかもしれない。
「あの~天久さん? 大丈夫? どうかした?」
そんなこと聞くまでもない、考える必要もない。
彼女は、ご立腹だった。
何が引き金を引いた? 俺か? 俺がカレーを選ばなかったからか? その程度の理由でか? それだったら企画者にその矛先を向けるべきだろう?
「そうですよ。どうしたんですか? 大丈夫ですか? 天久さん」
緋陰が俺の肩に顔を乗せながら言った。するとまたさっきと同じ音と揺れが起こった。原因はともかく、着火剤はこいつに間違いはない。
「おい緋陰、お前は少し静かにしていなさい」
「はい、お兄さん。それにしても、お兄さんの背中は大きくて温かいですね」
緋陰は一層強く抱きついてきた。音と揺れは一層大きくなった。
なんなんだこの板挟みは、頼むから二人で勝手にやってろよ。
「あ、天久さん? ほら、そんなことしたら他の居住者にご迷惑だからさ、ね? 分かるでしょ?」
俺の言葉は彼女に届いたようで、体がピクリ、と反応した。
だがしかし、俺の思いまでは届かなかったようだ。
「あれ? 天久さん? すっごい顔怖いけどどうかした?」
「……分かった、分かったよ小日向。君はそっちの味方をするんだね」
味方も何もないだろうに。
「もういい、もうこれっきりだよ」
そう言い残して天久さんは去って行った。遅れること約三十秒でコガがやってきて、「あ~らら」とだけ言って帰って行った。誰のせいだ、誰の、まかせてと言ったのはお前の口で、お前は関係ないってか?
「そしてお前はいい加減離れなさい!」
「それでは、この続きはまた」
「ねーよ!」
□
単純計算で、天久さんが二人になったような感じだ。つまり、二倍疲れる。
……いや、天久×二はそんな型にはまった方程式ではない、無限の可能性を秘めているかもしれないのだ。
「お兄さん、お休みになられますか?」
「お兄さんはお休みになられるんだけどね、残念なことに君と一緒にではないんだなこれが」
だからそんな風にベッドに二人分の枕を並べられても仕方がないんだな。
「な、なんでですか!?」
「さてなんででしょう? これはお兄さんからの夏休みの宿題さ」
「さすがはお兄さんです。これほどの難問をさも一般常識であるかのようにさらりと問うてくるとは。これはリーマン予想をはるかに上回る難易度ですね」
「ああ、うん、よく分かんないけど頑張って」
緋陰がベッドの上で横になり、枕を抱えてあっちへ行ったりこっちへ行ったりコロコロと転がりながらうんうん唸っている。その間に、俺はちゃっちゃと押入れから来客用の布団を取出し床に敷いた。
「あら? お兄さん、それはどうしたのですか?」
その発言で俺はまたもや一つの失態をやらかしたことに気が付いた。この来客用の布団は、母や父が購入したものではない。俺が個人的に買ったものだ。
俺は視線を下げたまま硬直した。
「ああ、友達がたまに泊まりに来るからな、そのために買ったんだ」
「それでしたらなぜお父さんやお母さんに言ってお金を工面してもらわないのです?」
「まあ、いわばこれは友達を泊めるための俺の私的な買い物だからな。一人暮らしをさせてもらっている身分でそこまでは望めないだろ?」
「そうですか、さすがはお兄さんです。しかし、仕送りからそのためのお金を算出するのはとても大変だったのではないですか?」
そう、この布団は、俺の金だけで買ったわけではない。
「まあ、そこは友達にも少し工面してもらった。ほら、今日いただろ? あのコガって呼ばれてたやつだよ」
「そうですか、それはいけませんね。今度お会いした時にはしっかりお礼をしなくては」
「いいよ、そういうの嫌いなやつだから」
「……それで、泊りに来る方はどちら様ですか?」
覚悟を決め、恐る恐る顔を上げた。
緋陰はさっきと同じ、横になりながら枕を抱えたままの恰好だった。
ただ、こちらを見ている眼だけが違っていた。
「……何を言ってるんだ?」
平静を装っているはず、顔は笑顔に保たれているはず、俺に不審な点は何もないはずだ。
しかし、緋陰の目は一向に元に戻らない。
「金を出したのはあいつなんだから、泊りに来るのもあいつしかいないだろ?」
「そうですか。いえ、なんだかその布団からは、お兄さん以外の香りを感じないもので」
「……どういうことだ?」
「私も今日お会いしたばかりなので確かなことは言えませんが、あの方は、この家に泊まりに来ることはあっても、決してお兄さんのベッドで寝ることはありませんよね? きっとお兄さんも寝かせないはずです。でも、その布団からはお兄さんと同じにおいがするのはなぜでしょう? それは、お兄さんがそちらの布団を使っている、ということなのでしょうか? ということになると、お泊りに来た人は必然的にこちらのベッドを使うことになってしまいます。でも、あの方はこちらでは眠らない。はて、どういうことでしょう? 誰が、こちらのベッドをお兄さんから奪うのでしょうか?」
なぜだ、この布団はつい先日天日干しをしたばかりだぞ? なのになぜ匂いが分かる?
「……気分によっては、布団で寝たくなったりして、こっちで寝たりしているんだ。それに、実はたまに他のクラスメイトが来たりもするんだ。そいつには俺のベッドを使ってもらっている」
「どなたですか?」
「……言っても分からないだろう」
「そうですね、失礼しました。ところでお兄さん、今日私たちが買い物をしている時、先に帰られましたよね?」
「それが、どうかしたか?」
「あの後、三人でこの家に向かっている時の会話を思い出したのですが、最初コガさんが先頭を歩いていたのですが、途中、『僕、あんまり秋光の家に行ったことないからちょっと自信がないんだ。天久さん先歩いてくれる?』と言っていたのを思い出したのですが、はて、泊りに来ることがあったはずなのに道を覚えていないとは、なぜそんな嘘をついたのでしょうか?」
「……さあ、あいつの考えていることはよく分かんないからな」
じわじわ、首を絞めつけられている気がする。呼吸がままならない。頭がくらくらする。
「それに、そのとき聞いたのですが、お兄さんは、あのお二人以外には自分が一人暮らしをしていることを言ってらっしゃらないみたいですね」
「……そうだったかも」
「しかし、ここには他のクラスメイトさんを招いてしまったのですか? それでは自ら教えてしまうみたいなものではないですか?」
あははは、と、とても乾いた笑い方をした緋陰は、一緒に顔を笑わせることを忘れてしまっていた。
「すみません、お兄さん。私から話を振っておいて、自ら道をそらしてしまいましたね。それで、お兄さん」
こいつは、一気にこの喉元にかぶりつくとみせかけ、じわじわと、ゆっくりと、退路をつぶし、取り囲んでから、取り込む。
もう、だめだ。
「誰を泊めたのですか?」
「天久さんです」
いつだってそうだった、今までだってそうだった。
勝てるはずがなかった、負けないはずがなかった。
「でも、何にもないぞ。やむを得ない事情でそうなったけど、決して何もなかったからな」
緋陰はゆっくりと起き上がると、さっきとは一転して非常に感情豊かな顔になって言った。
「……お兄さん、真に残念ながら、今回私がここに来た理由の一つには、私がお兄さんの生活を『監視』するという目的もあります。ですから、本当に、身を裂くほどの思いですが、私はこの一件をお母さんに報告せねばなりません」
白々しく涙を拭うふりをしている。
「そ、それだけは……」
俺はみじめに緋陰にすがりついている。兄の威厳は今この瞬間だけ心の中の宝箱に大切にしまっておいた。
「私だって、好きでこんなことをしているわけではないんです。分かってください、すべてはお兄さんのためなのです。……しかし、方法がないとは言いません」
両手で顔を隠しふるふると頭を振りながらしゃべっていた緋陰が、急にぴたりと止まった。
いつものパターンだ。
「……どうしてほしいんだ」
手で隠れている緋陰の眼が、一瞬輝いたのを、俺は見逃さなかった。
「考えてみてください。なぜ他人の男女が同じ部屋で寝ることがいけないのか、それはつまり、他人の身ながら、身内より接近してしまうというその状況がいけないのです。だったら答えは簡単、その他人より、身内がより接近すればいいだけの話なのです」
「いや、それはおかしいだろ」
俺は、こいつの掲げている持論が全体的に間違っていることに気が付かないほど馬鹿ではない。
「ならば仕方ありません、お母さんに報告するしか……」
「はいおっしゃる通りでございますだからどうかそれだけは……」
だがしかし、こいつを説き伏せられるほど頭がいいわけでもない。というかこの状況だと、頭の良い悪いにかかわらずもう俺に反論の余地がないだけだ。
「そうですか! それは私としても喜ばしい限りです!」
両手からでてきた顔は非常に輝いていた。
「で、俺は何をするんだ?」
「はい、ナニを――」
「はいアウト!」
それからしばらく、どちらも一歩も引かない攻防が続いた。俺は前科持ちにならないために必死だった。
そして結局、添い寝で話はまとまった。
「いいか、添い寝だぞ。それ以上は何もないぞ。何もすんなよ!」
「分かっています、分かっていますとも」
緋陰の笑みはとても意味深だ。
「……まあいい、もう電気消すぞ?」
「あ、待ってください。まだ心の準備が……」
はい消灯。
「ふふ、せっかちですね」
「聞こえない聞こえない~」
こうなりゃさっさと寝ちまうしかない。寝ることに関しちゃ俺の右に出るものはいないぜ。
しかし、ここにきて忘れていた暑さが帰ってきやがった。暑い、二人が接近している分さらに暑い、密着している背中にじわっと汗が身染み出てきた。ダメだ、これじゃすぐに寝られそうに……ぐぅ――
「お兄さん」
「うひゃあ!」
人がせっかく深い眠りにダイブした瞬間、耳のすぐそばで発せられた言葉と吐息で俺は瞬く間に覚醒状態へと引き上げられた。耳がこそばゆい、鳥肌が立っている。
「お前いい加減にしろよ、人がせっかくいい感じに寝てんのに」
振り返るとそこには至って真面目な顔をした緋陰の顔があった。
「何をしているんですか?」
「何って、何もしていないだろ?」
「だから、何で何もしないんですか?」
緋陰の顔は至って真面目だ。
俺は体を起こした。緋陰も体を起こして向き合う形になる。俺はそっと緋陰の両肩に手を置いた。
「緋陰、目を閉じろ」
「はい」
緋陰は目を閉じた。完全に見えていないことを確認して、俺は渾身の力でデコピンした。
「……痛いです」
「俺はな、緋陰。寝ているところを起こされるのがこの世で三番目くらいに嫌いなんだ」
そう言って俺はまた横になった。緋陰は少しの間そのまま座っていたみたいだが、俺のすぐ隣で横になった。暑い。
「……ちなみに、一番嫌いな事ってなんですか?」
「…………」
俺が一番嫌いな事……面倒なこと、意味が分からないこと、疲れること、寝られないこと、思い通りにいかないこと……ふむ、探してみれば随分あるもんだ。
「……それは、その時次第だ」
「では、今はどうですか?」
「もちろん、寝られないことだ」
「もう少し広い規模での『今』です」
何を言っているんだこいつは、『今』に狭いも広いもないだろう。
それを察してか、緋陰は付け加えた。
「今のこの生活です……いえ、もっと具体的にいきましょう、あの方とのこの生活のことです」
俺にはその言い回しはあまりにも遠回しに感じられて、いまいち緋陰が言わんとしていることが分からなかった。だから何も答えなかった。緋陰の質問に無言で答えた。緋陰はそれでも話し続けた。
「お兄さんは、あの方とどういう関係なのですか? あの方は一体どういう方なのですか? お兄さんは一体、何をなさろうとしているのですか?」
なぜだか問い詰められている。まるで悪いのが俺みたいじゃないか。
「正直な事を言わせていただきますと、お兄さんとあの方の関係はとても不自然です。歪です。異形です。他の人と同じようで、他の人とは違うよう。その矛盾を抱えているその関係は……なんだか居心地が悪いです」
緋陰は俺が相槌も何もしないのに、話し続けている。俺の背中に向かってとつとつと話し続けている。いや、もしかしたら口にすることで、自分の中でそれらを整理しようとしているのかもしれない。だとしたらはた迷惑な奴だ、そんなことに俺を、実の兄を巻き込むんじゃない、自分の中で完結させなさい。
「お兄さんはこの生活を望んでいるのですか? これはお兄さんが望んだ形なのですか? 嘘偽りなく言わせていただくと、このままでは、どちらにとっても中途半端で苦しいだけなのではないのでしょうか。私にとってはあの方の身に何が起きようと、そんな事など無きに等しいです。ただ、それがお兄さんの弊害となるのであれば、私はそれの存在を認可できません。悉く淘汰します」
「お前は発言のいちいちがおっかないな」
「そうでしょうか? 私にとってはこのままの方がよっぽどおっかないです。私にとって今、一番嫌いなことです。お兄さんは違うのですか?」
俺は何も答える気はない。別に答えられないわけじゃない。俺の中にちゃんとある。だがあえてそれを言う必要はない。
だが、緋陰はそれでよしとしてくれるほど甘くはない、それは良いことばかりではないのに。そのままをそのまま受け入れれば、こいつはもう少し楽しく生きられると思うんだけどなあ。苦労性な妹。まあまだ中学生、小さいうちは自分の思うままに生きてほしいな、なんていう俺は老衰しているみたいじゃないか? 俺だってまだまだぴっちぴちの十代さ。
「お兄さん」
ギュッ、と緋陰が俺のシャツをつかんだ。
「――小日向とは一体誰のことですか?」
「…………」
兄弟というか、家族という立場からの色眼鏡で見なくても、こいつはすごく頭が良いと思う、でも、一概にうらやましいとは思えない。気が付かなくて良いことにまで、分からなくて良いことにまでこいつは勝手にたどり着いてしまう。そんなのありがた迷惑以外の何物でもない。俺だったら、俺だったら知らなくていいことは、分からなくていいことは、そのままでいいと思うはずだ、他のみんなだってそうだろう? 緋陰みたいな例外はほんの少しだろう?
「あの方は、一体誰と遊んでいるのですか?」
「それは……」
「あの方は、一体誰と話しているのですか?」
「…………」
「あの方は、一体お兄さんに誰を重ねているのですか?」
「お前が気にすることじゃない」
無意識に力んでいて、乱暴な言い方になっていた。なんで? 俺はもしかして、動揺している? 俺はなんで動揺しているんだか、さっぱりだ。
「いいえ、私はそう思いません」
でも緋陰はそんなことお構いなしだった。まったく、こいつは兄の尊厳と言うものを軽視、いやむしろ無視しすぎではないだろうか。まったく、みんなして何でもかんでも俺に押しつけんじゃないっての。まったく……やんなっちゃうな。
「……お前が考えていることは、どれも根拠も何もない、ただの想像だ。お前はあいつが気に入らないから、そんな架空の話を自分の中で作り上げて、あいつを『悪役』に仕立て上げようとしているだけだ。そうすれば、お前の行動にも大義名分が出来るからだ。もし……お前の言うことが仮に本当だとしても、たとえ大義名分なんかがあったとしても、お前の行動はもはや一線を超えている。やりすぎだ。お前なら分かるだろ、分かってるんだろ。どうすれば、どうしたら、あいつが壊れるかぐらい」
「……そうですね、そうです、確かに今まで私が言ったことは何の根拠もありません、私の想像と言われれば、否定の仕様がありません。彼女を壊そうとしていると言われれば、否定の仕様がないどころか進んで肯定してしまいます」
なんて妹だ。どうしてここまで狂人と化してしまったのか。兄ながら悲しい、本当にこいつの行く末を案ずるばかりだ。こいつならいつ人を殺めてしまってもおかしくないんじゃないか? これは今から言い聞かせておく必要が大有りだ。
「頼むから、これ以上引っ掻き回すな。それだけ約束してくれたら、この夏休みをお前のために使っても構わない、何ならちょっと旅行に行くのだっていい。だから、お前はおとなしくしていろ」
「素晴らしい申し出ですね、すごく心揺さぶられます。でも、勘違いしないでください、私にとって必要なのはお兄さんとの楽しい思い出でも、かけがえのない体験でもありません。今を生きるお兄さんそのものです。過去に何の意味がありますか? 過去に何の価値がありますか? これは言い過ぎました。もちろんありますよ、それら全てひっくるめて今のためにあるんです。だから私は、今を楽しく生きるお兄さんがほしいのです」
これはあれか? 俗に言う『ヤンデレ』ってやつか? 確かにこれは非常に危ない状況だ、病んでいる、病みすぎている。実の兄にむかってこんなことを言う妹を持って、俺は正直恐怖だよ。
「俺はお前が一体何の心配をしているのか、正直な話さっぱりだよ。確かに彼女にはちょっとおかしなところもある――いや、それは過小評価だ、訂正、おかしなところはだいぶある。でもそんなの十人探せば、一人二人くらいはいて当然のものだ、クラスになれば三人から六人はいる計算になる。何も心配することじゃない。いつもと同じで、お前はちょっと神経を過敏にしすぎてるだけだ。普通だったらとるに足らない、なんてことないことにも引っかかってしまうくらい過敏になっているだけだ」
「かもしれませんね。でもそれらはどれも根拠も何もない、と違いますか? 彼女のような方がクラスに三人も四人も五人も六人もいる、そんなことをどうやって証明できるのですか?」
「それは――」
「そうですよね、絶対にいない、または絶対にいないことなんてない、そのどちらが正しく、どちらが間違っている、そんなこと言い切れませんよね。だからこの場合、お兄さんのクラスでの話をするにあたって、それは私よりお兄さんの方がよく知っているのは当然で、そのお兄さんがいるというのですから、いるのでしょう、それは、お兄さんの主観的な話。でも、お兄さんのクラスはお兄さんの方がよく知っているように、お兄さんのお友達のあの方のことはお兄さんの方がよく知っているように、よく知っていると言うお兄さん自身を信じているように、私自身のことは、私がよく知っていると、私自身が信じています。そして私という一個人の主観としては、私はとても冷静です。過剰にも過敏にもなっていない神経で今日一日を過ごしました」
「…………」
「それとも、やはりお兄さんからは今日の私は異常に見えましたか? 過敏で過剰に見えましたか? 私にとっての客観に身を置いていたお兄さんが見たら、そう見えましたか? そうなんですよね? でも、お兄さんから主観的に見て、クラスにいる何人かのうちの一人だと思っている彼女は、お兄さんにとっての客観に身を置いていた私から見たら――この上なく異常に見えましたが、これは勘違いですか? ――いや、これは詮無き話ですね、そんな個人の価値観、主観レベルの話は本当に詮無きものです。ですよね?」
俺は、馬鹿だ。
「……そうだな」
「そうです、そうなんです。だからこれらの話にはなんら意味なんてありません。今までの会話に内容なんてありませんでした。こんな無駄な話をしていたことを許してください」
ズタズタの、ボロボロです。
なんだか一息にまくしたてられたな。そりゃ俺自身言ってて筋通ってないな、とは思ってたけど、そこまで言うか? そこまで言うことないじゃんか。正直ブレイクファーストだ! ……朝食だ、……超ショックだ。やばい死にたい。
こんな親父ギャグが自然と頭によぎった自分が恐ろしくなるほど恥ずかしい。口に出さなくてよかった。こんな場面でこんなことまで言ってたら、それこそ兄の威厳なんてものは地を貫き奈落へと一直線だ。あったらだけど。
しかし何が悲しいって、緋陰がこの話を、こんなおつむの足りない哀れな兄に説明するために、これでもかってくらいに噛み砕いてくれていたことだよ。なんだよこれ、ここまで言ってもらわなきゃ分からない俺って何だよ、泣きたくなるわ。本当ならほんの一言二言で済みそうな話が、こんなに説明的になってるじゃねーか。それで結局分かったのが、話自体は難しくなくて、ただ俺が馬鹿だったって。無知の知。聞かぬは一生の恥とはよく言ったのものだ。
「そんなに落ち込んで、どうしたのですか? お兄さんが意気消沈する必要は一切無いですよ。むしろ狂喜に体を震わせていいくらいです」
「己の愚かさに狂喜できるような人間と思われているのか、俺は」
とても、悲しい。
「そうではありません、お兄さんは分からないことを投げ出し逃げ出しのらりくらりと生きているです」
「ねえ! 俺のこと嫌いなんでしょ? ほんとは嫌いなんでしょ?」
「冗談です」
「いじりといじめの境界線を知れ!」
「いじりといじめは同義です、ただそれを受け取る側の――」
主観の問題です――そう、緋陰は言った。ここに先ほどの会話から得た教訓を取り入れるならばつまり「つーわけでこんな無意味なやり取りは終了!」という意味を含んでいるのだろう。やっぱりこいつ、実は俺のこと嫌いなんじゃないか?
「ずいぶん話し込んでしまいましたね。何分久しぶりにお兄さんと二人きり水入らずなもので、少々気分が高揚してしまいました」
こいつ今さらりと両親たちまで邪魔者扱いしなかったか?
「もうこんな時間です。そろそろお話も終わりにしましょう。お兄さん」
「そうだな……自分のことくらい自分でするから、気にするな」
「分かりました」
それから緋陰は何も聞いてこなかった。ちょっと振り返ってみると、すーすーと静かな寝息をたてていた。話を振ってきたくせに先に寝るかね、普通。
かく言う俺は、まったく寝付けなかった。
額から何かが伝って、ベッドに落ちていった。額を触ってみると、汗で少し濡れていた。
そう言えば、今は夏だったな。
□
翌日、天久さんと今世紀稀に見る、そうあたかも漫画の熾烈で壮絶なバトルシーンのような、苛烈にして過激なケンカをした。
□
「こりゃまた、辺鄙を油彩画で描いたかのような濃さですこと」
天久さんとのケンカから数日後、俺は帰省していた。
実家……と言う表現で良いんだろうか? とにかくそれは今の住まいの最寄駅から電車に乗ること約一時間半、そこから新幹線に乗り換えて約一時間、次はまた電車に揺られること約三十分、駅から徒歩二十分強でやっとこさ着いた。
ずいぶん遠くまで来たもんだ。建物の感じから人の雰囲気まで、同じ日本でこうも違うものか。空気の味も違うきがする。でもこれは旅行に行った先でたびたび感じるあれだ。つまり今の俺は軽い旅行の気分ってことか。これなら「帰る」と言う表現はあまり適切ではなかったかも、なんで親のいる前で言ったらとんでもないことになってしまうか。
しかしまた、どうしてこう毎度毎度およそ都会とはかけ離れた一種のクローズドサークル的な居住地を探して来るのかね、うちの両親は。職業病か?
これじゃあ学校は電車で通うしかなさそうだ。あんまり好きじゃないんだよな、電車って。
「ここの二階三号室です」
これはまた、古風で趣がある建造物だった。
……そんな、あたかもアンティーク感が漂っている体の表現が適切でないことは重々承知しているけれど、やはりこれからお世話になるわけであるからして、少しは寛容になることも必要だ。でも実際、アパートとか、マンションとかそんな横文字を受け付けない、木造建築で日本古来の下宿といった感じだ。古いが、家から感じる温かみはどこか住みやすそうな印象を与えてくれる。
「……そう言えば、お前はどこの学校に通っているんだ?」
駅からここまで歩いてくる途中、中学校はおろか三階建て以上の建物を見かけなかった。
「自転車で五十分の公立の中学校です」
緋陰はその方を指さした。しかし俺の視力では視認することができなかった。
「……へえ、お疲れ様です」
……って、俺も他人事じゃないじゃん。
「……それじゃ、ちゃっちゃと済ませて、愛しのスウィートホームに帰りますか」
そう思ってはいたものの、まあそう簡単に問屋が卸してくれるはずもなく、予定よりやたらと時間がかかってしまった。高校生の貴重な夏休みを何だと思ってんだ、まったく。これだからお役所仕事は嫌いだ。
結局マイホームに帰って来た時には、貴重な夏休みはだいぶ減っていた。
だがしかし、残されたその数日すら俺には自由な時間がなく、緋陰に指揮のもと、効率的かつ合理的にせかせかと荷づくりやら手続きやらにいそしんだ。その姿は、そうまるでファラオの命に唯々諾々と従い、石を積み上げて行く奴隷のようだったことだろう。
□
そして迎えたマイホームとのお別れ。
荷物はアヒルのステッカーを張った見るからにいかがわしい帽子をかぶった集団に持って行かれ、ついでにその人たちに緋陰を持って行ってもらって(これが何より一番苦労した、何を言っても緋陰はその場を頑として動こうとせず、口ほどにものを言っている瞳で上目使いに俺を見続けた)、さっぱりしてしまったこの部屋に、何か大切なものを忘れているような、後ろ髪を引き抜かれそうなくらい引かれながら、俺は泣く泣く大家に部屋の鍵を渡した。おおグッバイマイホーム、瞳を閉じればまぶたの裏にここでの思い出が、まぶたの隙間から溢れんばかりに溢れてくるかと思いきや、実際そうでもなく、何故か肩透かしを食らった感じで俺は最低限の荷物が入ったカバンを背負って駅に向かった。
しかし、さすがにこのままこの地を去るのはダメなんじゃないのどうなのよ的な未練が心の底から全速力で表まで浮かんできてしまった。そうなってはしょうがない、そこで俺は最後の未練――そう、愛しのエンジェル小春さんに俺のこの熱いハートを届けに行った。がしかし、問屋は俺に対し最後まで意地っ張りだった。
まさかの不在。留守。
仕方なく俺は手紙をしたため小春さんの家のポストに投函しておいた。この持て余したパッションは行き場を失い、ただただ後悔となって駅までの俺の足取りを重くさせるだけだった。
しかし現代の交通機関はよくできている。たとえ俺がどんなに乗り気でなくとも、乗っている以上こいつらは勝手に運んで行ってくれるのだから。
徐々に過ぎて行く見慣れた景色、次々に入ってくる知らない景色。別に何を見るわけでもなく、ただただぼーっと外を眺めていた。傍から見たら危なそうな人に見えるのか、さっきから斜向かいに座っている少年から指をさされている。それを留めようとする母親、「見ちゃだめ」と口が動いたように見えた。ひどいな。
『ひどい』
俺の頭の中で懐かしい声が響いた。誰の声だったかな、もう思い出せない。
ただ、誰かに言われた事だけは覚えている。
「俺ってそんなにひどいのかな?」
誰も否定してくれなかった。母親はいよいよ不審者を見るような眼を堂々と向けてきている。
「でも、俺にひはないんだよね」
あ、ちょっとうまいじゃん、俺。でも誰も笑ってくれなかった。母親は子供を連れて違う車両に行ってしまった。それはいくらなんでも露骨すぎるでしょうよ。
急に、窓の外の視界が開けた。ビルとビルの間、傾いてた夕日が差し込んできて目がくらんだ。クーラーの稼働音がうるさいくらい耳に響く。
夕日はまた高いビルの向こう側に姿を隠した。景色が目まぐるしく変わっていく。でもこれは、別に珍しい光景ではない。今までだった、ずっとそうだった。気持ちはいたって穏やかだ。
数えきれないくらいしてきた体験。これからもその数を重ねていくんだろう。一つの場所に残ることが出来ないなら、一つの場所に残すものなんて何もない。その場のものは、その場に置いていく。ただ今回は、ちょっと多くて時間がかかるだけ。
目を閉じた。もうそろそろ乗り換えする駅だ。それでも少しだけ、寝たくなった。
□
「なんてこった」
朝、家を出る時には確かに快晴だった。天晴れってくらいに晴れ渡っていたはずだ。なのに、たった三、四十分だぞ? たったそれだけ過ぎたくらいでこんなに雨が降るものなのか? おかげで俺は駅から外に出ることができない、立ち往生だ。なんでまた今日なんだよ。もしかしたらこれはこっちの地方特有の気候なのか? 確かに、周りを見渡すと、みんなしっかり傘を携えている。なるほど、これがこの地方なりの洗礼ってわけか。良いだろう、受けて立とう!
「あのぉ」
これからこの大雨の中をカバン一つで走り抜けようと高めた意識を、なんとも間の抜けた声に足払いを食らって見事に砕かれてしまった。
振り向くと、改札のほうに行く人たちと、逆に改札から出てくる人たち、その中で、その声の持ち主は俺のすぐ後ろに立っていた。
近頃の俺はなぜか周囲に対して過剰なまでに気を張り巡らしている。まるで後ろから蹴り飛ばされることを恐れているかのように。そんな俺の背後を取るとは、こいつ、只者ではない。
しかし、その容姿は相当な手練れ、などと微塵も感じさせないような、なんとも間の抜けた、いわゆる癒し系な感じだ。長く明るい髪に、その人の性格を表しているかのようにゆるゆると緩いパーマがかかっている。若干垂れ目がちなその眼もまたゆるさを増長している。持っているカバンについているストラップも、カバンの持ち方も、たたずまいも……もう何もかもひっくるめてそう『癒し』そのものだった。
「なんと、マイナスイオンの権化か?」
「えっとぉ、たぶん違いますぅ」
まあ、違うだろうと思う。
「割とプラスですぅ」
「イオンの権化は間違いないのか!?」
「えっとぉ、だぶん」
「はぁ、世界は広いな~。それでプラスイオンさん、僕に何か用かな?」
「違いますぅ」
「は?」
「プラスイオンじゃないですぅ」
「知ってますよ」
「えぇ~意地悪ですぅ」
「じゃあ嘘です、知りませんでした」
「プラスイオンじゃないですぅ」
「分かりました、やっぱりマイナスイオンなんですね」
「割とプラスですってばぁ」
何これ、ちょっと楽しいんだけど。
「……それで、何か御用ですか?」
「あのぉ、もし傘がないなら一緒に入って行く、のかな~と思ってぇ」
……ん? ちょっと待った、何だ、何が違うんだ?
「そうか、分かったぞ! その文だと、あたかも傘を忘れた俺が、君の傘に断わりもなくふてぶてしく入って行く、ってことになってしまうんだよ!」
「はい、はい?」
彼女はピンと来ていないようだ。
「……えっとぉ、とにかくぅ、一緒に入って行かれるんですかぁ?」
会話のキャッチボールがままならない。まるで外国人同士が互いの母国語で話しているみたいだ。
「……そうだね、入れてもらえるなら、お願いしようかな?」
「はい、どうぞぉ」
そう言って差し出してきた傘に、俺は一瞬戸惑った。ベースは赤、その表面に黒い点々が無数にあり、縁は緑色の葉状の模様になっている。
これは……スイカか?
「スイカ?」
「いいえ、イチゴですぅ」
なんと、イチゴだったのか。どちらにせよ目に悪い柄だな。
「……ありがとう」
しかし入れもらえるのだ、ぜいたくは言えない。
早速傘を受け取って開いた。
……小さい。
「これ……」
「はい?」
「……いや、行こうか」
「そうですねぇ」
とりあえず二人の頭上に傘をさしてみた。予想通り、小さい。どうやっても、肩がくっつく位近づいて、二人の頭まで入れるのが精いっぱいの幅だった。でもそうすると、彼女と俺の半身が濡れてしまう。俺はいいとして、さすがに彼女が濡れることは避けたい。もともと彼女の傘なわけだし。
結局、傘はほとんど彼女の方にさし、俺は吹きすさぶ豪雨の中に体を投げ出して傘を持っている。瞬く間に全身がずぶ濡れ、雨に濡れたシャツが体に張り付いて、靴の中はぐちょぐちょいって、最高に気持ちが悪い。これならまだ、走って行ったほうが随分ましだった気がする。いや、ましだった。
彼女は何を考えているか全く分からない。予測がつかない。これはまるで……まるで?
「? どうかしましたかぁ?」
「あ、いや、何でも。……そんなことより、なんで傘に入れてくれたの?」
「ん~と、なんででしょう?」
「さあ、なんででしょう?」
まことに不思議なことに、彼女は本当に分からない、という感じで頭を傾げた。
「難しいですねぇ。ところでぇ、同じ学校の方ですかぁ?」
「今更確認すんのかよ!? 俺はてっきり同じ学校だから一緒に入れてくれたんだと思ったよ……」
だがしかし、よく考えてみれば俺はまだこの学校の制服をもらっていなくて、前の学校の制服を着ているから、普通は違う学校の人だと思うよな。
「違うんですかぁ?」
「いや、分かんないよ。俺今学期から転校してきたんだ」
「なら、多分あってますよぅ」
どこで判断したんだ。
「そもそもこの辺りじゃ高校は一校しかないですしねぇ」
判断するまでもなかったのか。……じゃあなんで聞いたんだよ。
「私は、一年三組の妹尾佳鈴ですぅ」
「セノウカリン? へ~良い名前だね」
「いえいえ、それほどでもぉ」
照れた、もじもじ照れた。なんだこいつ……ちょっとかわいいじゃねえか。
「それって、どう書くの?」
「いえ、別格ですぅ」
……はい?
これは彼女なりのボケなのだろうか。彼女は突っ込まれるのを待っているのか。いやしかし、常識的に考えよう。まだ会って間もないこの俺にボケてくるだろうか。いや、そんなことあるわけないだろう。さすがに生けるマイナスイオンな彼女でも、初対面のやつにいきなりボケかませるほどボーダーレスなことはないはずだ。これはつまり、彼女の純粋な間違いなのだろう、訂正してあげるべきなのだ。
「ははは、いやそうじゃなくてね、俺が聞いたのは『セノウカリン』っていうのは漢字でどう書くの? ってことなんだ」
「……冗談ですぅ」
ぬぅ!? しまった!? どうやら「彼女」を図り間違えていたようだ。
セノウは恥ずかしそうに俯いてしまった。なんだか悪いことをした気がする。でも、そんなところがちょっとかわいらしいかも。やばい、もっと意地悪したい!
だってその落ち込み方が少し……少し、なんだ?
やれやれ、いつの間にか俺には変な属性がついてしまっているみたいだ。
「……ところでぇ、あなたのお名前はぁ?」
意識をふわふわ宙に浮かせていたので、セノウの質問は耳に入っても脳まで届かなかった。
「あ、あ、ごめん、何?」
「何がですかぁ?」
「え?」
「はい?」
「……いやいや、妹尾さんが何か聞いてきたでしょ?」
「あれぇ? そうでしたっけぇ?」
彼女は頭を傾げている。なんだか、眠くなってきちゃったよ。
「……そうだぁ」
セノウは左手を皿の形にして、そこを右手をグーにしてポン、と叩いた。
「あなたのお名前はぁ?」
「あ、名前ね、俺の名前は秋光小向っていうの」
「アキミツ、コナタ?」
その時、セノウの頭の上で百ワットの電球が光ったように見えた。
「えっとぉ、どう書くのですかぁ?」
目をキラキラさせて、セノウは聞いてきた。その笑顔には何か期待が込められているように見えなくもない。
「……、えっとね、秋の光に、あとは小さい向かいって書くの」
「あ……そうですかぁ」
セノウはなぜかしょんぼりしてしまった。俺なんか悪いことしたかな?
体にあたる雨が次第に弱まっている気がする。いつの間にか周りには同じ制服を着た人たちが増えてきた。一同が向かう先には校舎のようなものが見える。
「あれが私たちの学校ですよぉ」
いつの間にかセノウがしょんぼりから帰ってきていた。立ち直りが早い。
「へー、意外と大きいんだな」
そうか、ここが俺の新たな学び舎か。俺には、ここでまた新しい生活が待っているんだ。今度はどれくらいいられるか、そんなの分からないけど、その間せいぜい楽しませてもらおうじゃないか。
俺の適当で妥当な高校生活は、今日ここからこうして始まるのだ!
「……ところでぇ、秋光さん」
「なんでしょう?」
セノウは、ととと、と傘の外に出た。雨はいつの間にか止んでいて、今度はじめじめした熱気に包まれている。照りつける強い日差しに早くも体に張り付いたシャツが乾き始めているようだ。
俺はすかさず傘をたたんだ。先ほどからこの一点に集約していた視線は、やっとこさ分散し始めた。確かに、人目をひくには絶好の柄だ。どぎつい赤と、制服のシャツの白とのコントラストはまあ傍から見たらすごいんだろう。
セノウは数歩先に行くと、こちらに振り返った。その瞬間、ちょうど風が吹いて、膝の少し上のスカートが少し大きくひらりと舞う。俺は彼女の身長は俺と三十センチ近く違うのが憎らしかった。
彼女は両手を後ろに組んで、頬を染めて、ちょっと恥ずかしそうにしながら、言った。
「もしよかったらぁ、付き合っていただけますかぁ?」
九月。
突然見舞われた異常な豪雨の後、気だるい暑さが体を包み、より一層二学期最初の登校を苦渋にさせる。雨に濡れ、汗に濡れ、水の滴る顔を照らす日差しはまだ強い。空を仰ぐと、そこには明るい青が広がっていた。遠くに見える積みに積もった入道雲は、懐かしいほうへと漂っていく。あっちでも、雨を降らせているのだろうか。濡れている誰かがいるのだろうか。ふと、そんなことを考えて未練がましい自分を嘲笑する。
この新しい土地で、あの新しい学び舎で、まだ見ぬ新しい友に囲まれ、始まる新しい生活を送る自分を想像していた。
そんな九月。
俺はイチゴの傘を持った女の子に出会った。
”第一部”完結……の予定です。