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第三章 七月

 七月。

 ここまで来るとそれこそ学校の授業などもはや犯罪者に科せられる懲罰以外の何物でもない。湿気と暑さでむんむんした教室に監禁され、身体から排出されるのは汗と熱気と不快感。身体と心は今や開放を求めてクーデターを起こしかねない。そんな緊張状態で授業を受けている生徒にとって、あと数週間でやってくるハイスクールライフでは長期の休暇は唯一の救いである。今年の休みは何をしよう、どこへ行こう、誰と遊ぼう、そんな休み中の予定を立てるという行為に活路を見出し、近々やってくる期末試験という最大の障害から目をそらす。だが一つ忘れてはならない事がある。期末試験をおろそかにするものに、休暇などありはしないのだ。その点の俺は問題ない。ずば抜けて勉強ができるわけでも、日々家に帰ってからの予習復習を欠かしていないというわけでもないが、俺はこれでもまじめな子。授業中は先生のお言葉に耳を傾け一心不乱にノートにシャープペンシルを躍らせている。睡眠学習だって欠かさないさ。

 そんな七月。

 「ね! 今年の夏、どこに行く?」

 そんなぶしつけな質問を投げかけてきた彼女は、決してその他大多数と同じように幻想郷へと逃亡しているわけではない。彼女にとって期末試験と言うものは障害になりえないのだ。神は采配を違えたとしか思えない。

 「なんだかその質問の仕方だと、一緒に旅行に行くことになっていますよ」

 だがしかし、たとえ学校の勉強ができたって賢いってわけじゃない。それは知識があるだけだ。それをしっかり使えることができるものこそが賢人と呼ばれるのだ。俺は優しく日本語の間違いを指摘してやった。

 「そう言う意味で聞いたんだけど?」

 だがどうやら彼女はもっと根本的なところに問題を抱えているようだった。

 「誰が行くか」

 「私と小日向」

 「誰が行くかを聞いたんじゃなくて、誰がそんな旅行に行ってやるもんかって意味で言ったんです」

 「そんな旅行って、どんな旅行かまだ決まってないじゃん」

 「ゴメンなさい、間違えました。誰が『あなた』と行ってやるもんかって意味です」

 「行きたくないなら連れて行くよ?」

 「もう、少し黙っててください」

 七月の朝、授業が始まるまでの少しの時間は、こんな無為に過ごすためにあるんじゃない。俺個人としてはもっと有意義に活用したい。睡眠とか、寝休とか、惰眠とか。だがそれを彼女は許さない。今もこうして、彼女との会話に強制ピリオド打って机に体を預けようとすると……。

 「う~はっ!」

 ガシンッ!

 「いっでぇぇ!」

 デコピンとは思えないその音と破壊力、頭蓋骨にひびが入ったとしても納得の威力だ。

 「何すんだよっ!」

 「それはこっちのセリフ。まだ話し終わってないじゃん。ねぇ、どこに連れて行かれたい?」

 「そんな願望ねぇよ!」

 先日の席変えで、俺はまさか天久さんのお隣というワースト二の席を引き当てる驚異の引きを披露してしまった。つまりこの一ヶ月間、俺はこの苦行に耐え続けなくてはならなくなったのだ。他の生徒と多少の違いはあれども、俺も夏休みを渇望する一人となった。

 ちなみに天久さんの近くの席には、俺なりの順位が付いている。ワースト二は両隣、ワースト四が天久さんの後ろ、そして最悪だと思われるワースト一が天久さんの前である。それは一度体験済みだったが、十分ワースト一になるに足りえる最悪の一ヶ月間だった。彼女の奇行は、授業中でも休み時間中でもいつでも関係なく俺を苦しめた。背中には青いあざが無数に点在する週もあった。それから考えれば、今はまだ良い方だが、先月の平穏無事な席と比べてしまうと、やはり辛いものがある。あ、早く来ないかな夏休み。

 「小春さんはどこかに行くの?」

 だがしかし、こんな地獄にも蜘蛛の糸は俺の頭上に垂れていた。俺の後ろの席にはなんとエンジェル小春が座っているのだ。この存在はかなり大きい。彼女がいなければ俺はもしかしたら今月学校に来ることはできなかったかもしれない。今もこうして俺からの何の脈絡のない質問にテンパっている姿は超かわいい。

 「うちは……特に予定ない、かな」

 うわあ、はにかんでるよ、はにかんでるよ!

 この笑顔に値段を付けることなんてできない。と言うかしない。俺が絶対に誰にも売らん。

 「そうなんだ、なら一緒にどこか遊びに行こうか?」

 「え!? ええっ!?」

 「私は小日向の実家に行きたい」

 「うるさい黙ってろ。ね? どう? 小春さん」

 「そそそそんな、悪いよ、あ、いや、ダメだよ!」

 うわあすっごい慌てふためいてる~た~まらねぇ~。

 ……俺は、どうやらもう引き返せない所まで来てしまっているようだ。でも、後悔はしていない。

 「俺と一緒じゃ嫌?」

 「嫌!? ち、ちが、違くて、うれしいよ!? でも、ダメだって……」

 「私は大歓迎」

 「聞いてねーよ。じゃあ良いじゃん。それとも二人っきりが嫌なら友達連れて来てくれて良いからさ。こっちもコガ連れて行くし」

 「でも……でも……」

 「私も――」

 「いないよ。じゃあとりあえず考えておいてよ」

 バンッ! と机と何か固いものが当たって、机の方が悲鳴を上げた。

 天久さんがキレた。

 まあそろそろとかなとは思っていた。今回はよく我慢できた方だ。目の前では小春さんが完全におびえている、今にも泣きだしそうだ。

 「どうしたの天久さん? 顔が怖いよ?」

 天久さんは机に手をついて立ち上がっていた。正直髪の毛で隠れていて顔は見えないけど、想像はつく。

 「小日向……」

 とその時、英語教師のマーティン先生が教室に入ってきた。号令係の島田さんが「起立」と号令をかけ、みんなが立ちあがった。「礼」をして「着席」すると天久さんは何事もなかったように大人しく座った。最近の俺はこういう風に彼女に対するささやかな反抗をするようになった。いつまでもやられてばかりではないのだ。

 だがしかし、天久さんもやられてばかりではない。と言うか、彼女はやられたらやり返すことが非常に楽しいらしく、嬉々とした表情で行動をする。そう、今、マーティン先生がその大きな口を開けて発音を丁寧に教えている姿をちらりとも見ずに、ずっと机を見ながらニヤニヤしているのは、あの頭の中で俺への復讐のデモンストレーションを行っているからだ。

 そして、その時はやってきた。

 言い訳がましいが、俺だって決して油断していたわけではないのだ。常に彼女の行動には気を配っていた。意識を常に張り巡らし、気配を敏感に察し、必ず一人での行動も避けていた。だが、彼女はやってのけた。しかし勘違いしてはいけない。彼女がやってのけたのは、決して彼女が並はずれた能力、例えば時空間跳躍だとか、どこぞのスプーン曲げ少年のように念能力が使えるというわけでなく、誰にだってできることで、それができたのはやっぱり他ならぬ俺の油断が招いた結果だということは、重々承知しておかなくてはならない。

 四時間目は、体育だった。この湿気と暑さの中での体育は本当に苦しい。汗で体操服が体にへばりつき、身体はべとべとなうえ砂が付いている。これはとても耐えがたい。何より汗のにおいが周りに人に多大な不快感を与えてしまう。だから体育が終るとみんなすぐに着替えをして制汗スプレーなどをこれでもかってくらいかけまくる。年頃の高校生はそういったことをとっても気にするのだ。俺だって小春さんに嫌われたくはない。こんな汗ばんだ服はさっさと脱いで、着替えをしようとしたところで、気が付いた。

 「……やられた」

 体育の時、女子はジャージを持って更衣室に行き、男子はそのまま教室で着替える。女子はそのまま制服を更衣室に置いて行き、授業が終わると着替えて帰ってくる。それが普通だ。だから俺も、つい油断してしまった。習慣によって危機感を失ってしまっていたのだ。まさか、この教室に忍び込むなんて。

 俺が机の上に脱ぎ散らかしておいた制服が、何故か奇麗にたたまれている。ワイシャツを下に、ズボンを上に。まさか彼女が善意においてこのような行動に走るわけがない。つまりは、仕掛けられたのだ。おそらくこの場合は、ワイシャツに。

 意を決しズボンを持ちあげる。

 「はっ――」

 そのまま固まった。

 「どうしたの?」

 そんな俺の奇怪な光景を見たコガが地近づいてきて、机の上のそれを見ると、同じように息をのんだ。

 そこには、綺麗にたたまれたワイシャツがあった。

 しかし、そのワイシャツのどこにも、ボタンはなかった。

 「……ちくしょう」

 まさかだ、まさかこんな暴挙に打って出やがるとは。これはいくらなんでも悪質すぎるだろ。この状態のまま着るとなると、それはそれはだいぶラフな着こなしになってしまう。学校の制服をラフに着こなすのは決まって不良かただのバカだ。そしてこれを着たら俺はただのバカだ。

 時間を見る、女子が帰ってくるまで残り三分程度。その間に何とか打開策を練らなくては。

 とりあえずこのままジャージのままでいるか? いやダメだ。それはあまりにもハイリスクだ。こんなむんむんした教室と言う密室空間にそんな汗まみれ男臭ぷんぷん野郎がいたら、小春さんのためにも俺なら確実に締め出してやる。なら、俺が締め出される可能性があるってことだ。何より、小春さんにマイナスな印象を与えてしまう。そんなことがあってたまるか!

 なら他には?

 とりあえず運よくワイシャツを二枚持っているやつがいないか探してみることにした。

 「おい、誰か都合よくワイシャツを二枚持っているやついないか?」

 「あ、俺持ってるぜ」

 男臭い男子集団の中から一人、手が上がった。

 「寺田グッジョブだ!」

 さすが寺田だ。俺の数少ない友人がこうも頼れる人物で俺はうれしい。意気揚々と寺田の席に借りに行った。天久さん、詰めが甘いんだよ。

 だがしかし、そこにいた寺田はカバンに顔を突っ込みながら、ものすごく申し訳なさそうな顔をしていた。ものすごく嫌な予感がする。

 「どうした?」

 「あのな……悪い、もう貸しちゃってたわ」

 「なあ!? 誰に?」

 「それがな、天久さんがどうしても必要だっていうからさ」

 あの野郎……完全に読んでいやがった。

 その時、女子が戻ってきた。先頭は、あいつだった。

とにかく汗臭いのはまずい。急いでワイシャツに着替える……が、これは予想以上にきついぞ。

 テンパる俺を見て、自分の中から湧き出てくる感情を押し殺すことができずにその顔に如実に表れてやがる。

 彼女を先頭に、ぞくぞくと女子が戻ってくる。みんな、ちらちらと俺を見ている。その気持ちは分からなくもない。

 「おい……これはいくら何でもやりすぎだ」

 「なんの事? それよりどうしたの? さっきからずっと手でワイシャツを抑えてるけど?」

 天久さんは足を組んで座っている。その顔には後輩をいじめ倒す先輩OLのような笑みを浮かべて。その右手では、なにか小さくて複数あるものを弄んでいる。

 「それを返せ」

 「なんの事? なんか小日向君顔が怖いよ?」

 ちくしょう……なんて顔してやがる。今のこいつならあのガンジーですら己の信条を曲げて暴力に訴えてしまってもおかしくない。

 「返してください」

 「今年の夏、どこか行きたいね~」

 こいつ、またこういう手を使うのか。そしてまた俺はこの手に屈服するのか。思えば入学してから今まで、このような方法で幾度となく苦汁をのまされ続けてきた。俺は今まで我慢してきたつもりだ。こいつはいつだって、何事も自分の思い通りにしたがる、自分の好きなようにしたがる、そうならないことが嫌い。

 だが、とふと思う。

 このままでいいのか? 

 俺は我慢し続けるままでいいのか? 

 それは、俺の意思なのか? 

 これは、彼女のためなのか?

 「返してください」

 「ねぇ、どこに連れて行ってもらいたい?」

 「いい加減にしろ」

 「嫌だ」

 甘やかすことは、甘え方を教えることなのか?

 「ほら、早く」

 「嫌だってば」

 そう言って彼女は右手のものを自分の胸ポケットにしまいこんだ。

 「返してください」

 「取って良いよ?」

 彼女はとても挑戦的な笑みを浮かべながら胸を張った。普段の俺なら臆することなく手を突っ込んでいただろう。もちろん、下心など微塵もなく。

 しかし、ここは教育機関、次世代を担う若者たちのたまり場にそれはあまりに刺激が強すぎる。よって却下。

 そして、またも俺は彼女に屈服するのか。

 あきらめかけたその時、先日のコガの何気ない一言を思い出した。

 『押してダメなら、引いてみな』

 ちなみのその時のコガは意味深に超笑顔だった。

 ――そうだな。

 ふう、と息を吐き出す。

 残念なことに、俺は偉大なる彼のように非暴力を信条に掲げてなどいないがしかし、非服従の点では大いに賛同したいと思う。

 「もう、いいや」

 そう言って天久さんとの話を切り上げると、小春さんに向きを変えた。

 「ねぇ小春さん。ヘアピンか持ってないかな? 五個くらい」

 「えっ!? あ、あるよ?」

 「じゃあちょっと貸してくれないかな?」

 「い、良いけど……」

 「ありがとう」

 小春さんがくれたヘアピンはリンゴや花が付いているかわいいものだった。それらを、ボタンを通す穴につけてワイシャツの前を留めた。こうして見ればちょっとかわいいボタンのようにも見える。

 「これ、明日まで借りていいかな?」

 「う、うん」

 よし、これで何とか大丈夫かな。先生たちには適当に言ってごまかそう。

 「コガ、パン買いに行こうぜ」

 「え、うん……良いよ」

 先に廊下に出てコガが来るのを待った。少し遅れてコガがやってきた。

 やっぱりこの即席ボタンは人目を引いた。廊下ですれ違うたびにいろんな生徒にじろじろ見られてあまりいい気はしなかったけれど。上半身をさらけ出すよりは数段ましだった。

 「ねぇ? 秋光」

 「なんだよ」

 「良かったの?」

 「何が?」

 「……何でもない」

 購買で焼きそばパンとマンゴーミルクを買って、屋上で食べることにした。空は黒い雲に覆われていて、いつまた雨が降り出すかもしれない天気だった。

 教室に戻ると、大半が昼飯を食べ終えた中、天久さんだけがまだお弁当を食べていた。机に上には、二つお弁当が並んでいたが、一つはまだ空いていないようだった。俺の姿を見つけた小春さんがすがるように見つめてきたけど、俺は気が付かないふりをして席に着いた。

 天久さんは何も言ってこなかった。俺も特に何も話すことはなかった。

 案の定、五時間目、六時間目と帰りのホームルームでは先生に目を付けられ、その度に「無くしました」とか「落しました」とか状況に応じて適当に答えた。だがしかし非常に面倒なことに、六時間目の現代社会の丸森先生はなかなか口やかましく、「生活態度が悪い」だとか「普段からの心構えがなっていない」だとか、くどくどと俺の問題点を挙げていった。反論する気も起きずぼんやり聞いていたが、いつの間にか「お前のようなやつが社会の標準を著しく低下させる」と何やら話が肥大して言ったので「買いかぶりすぎですよ」とあくまで慇懃な物腰で反論したが、それがまた却って相手に火をつけてしまって、その日の授業の大半を俺への「指導」で費やすこととなってしまった。

 「小日向、ちょっと」

 帰りのホームルームが終わると、先生が大層面倒くさそうに俺を呼んだ。

 「なんでしょうか?」

 「丸森先生がな、職員室に来いだとよ」

 あの先生は、どうやら俺のことが心底気に入ったようだ。

 職員室に行くと、先生はコーヒーを飲みながら待っていてくださった。俺が近くに行くと「こっちだ」と言って職員室を出た。どこに連れて行かれるんだろうなんて考えながら付いて行くと、下駄箱の近くで先生は止まった。

 そしてそこで「指導」を始めた。まあ大体が自分の学生時代と今の学生の比較、及び今の学生に対する不満をぶちまけているだけだった。ただ、その場所にここを選んだのは、おそらくこの格好を全校生徒に見せて恥をかかせようというものだろう。確かにその効果はあったようで、奇妙なボタンをした生徒が丸山先生に怒られているというのはなかなかの注目度だった。

 どれくらい時間が経ったのか、時計がなかったので分からなかったが、だいぶ時間がたった後、「貴重な時間を無駄にさせるな」と言って先生は帰って行った。

 やっと解放され昇降口から外を見ると、いつの間にか雨が降り出していた。

 「ああ、ちくしょう」

 とりあえず荷物を取りに教室に戻ることにした。

 教室には誰もいなかった。たぶんみんな雨が降り出す前に帰ったんだろう。あいにく傘は持っていない。

 しょうがないので掃除でもして止むのを待つことにしよう。

 「あれ?」

 掃除用具箱を開けると、何故か雑巾とバケツがなくなっていた。

 おかしい、確かに昨日掃除した後にここに入れたはず……と言うことは誰かが持って行ったんだろう。悪戯にでも使う気か。まあちゃんと戻しておいてくれるなら何でもいい。ただ、掃除をする気が失せた。

 掃除用具箱の扉を閉めると、その扉で死角になっているところに人がいた。

 天久さんだった。

 驚いて危うくかわいらしい声が出てしまうところだった。

 見るとその手には今まさに探していた雑巾の入ったバケツがあった。

 「あ、掃除してくれたんですか?」

 「……うん」

 天久さんはうつむいたまま、こちらを見ずに答えた。

 「それはどうも、ありがとうございます」

 俺はそれだけ言って自分の席に座った。天久さんは音から察するに掃除用具箱にバケツを片づけて、俺の隣の、自分の席に座った。

 お互い黙ったまま何も話さなかった。教室には時計の秒針の音と雨の音だけ。どうやら雨はすぐに止む気配はない。

 俺は机に突っ伏して目を閉じた。

 

     □


 肩を叩かれて、自分が寝ていたことに気が付いた。時計を見ると、さっき見たときから一時間ほど経っていた。

 そして横には天久さんが立っていた。

 どうやら肩を叩いていたのは天久さんだった。

 「なんですか?」

 「……帰ろう」

 「先に帰っていいですよ。今日俺傘ないんでもう少し止むまでここにいます」

 「傘なら、あるから」

 そう言って天久さんは傘を前に出した。黄緑色した折り畳み式の傘だ。

 「一緒に、帰ろう」

 別に今日は早く帰らなくちゃいけないような用はないから、このままもう少し雨が止むのを待ってもいいんだけど、まあ、せっかくの申し出を断る理由もないか。

 「いいですよ、ちょっと待ってて」

 俺はなるべく急いで帰る準備をした。天久さんはもう準備は終わっていたみたいで、先に廊下に行って待っていた。

 「お待たせ」

 「……うん」

 天久さんはそれだけ言って歩き出した。俺もその後に続く。

 昇降口に着いていざ開いてみると、いやまあ開く前から分かっていたと言えば分っていたけれど、折り畳み式の傘じゃとても高校生二人を覆うには小さすぎた。肩が当たりそうなくらい近付いても身体の半分はほとんど濡れてしまっている。

 しかしそれでも天久さんは何も言わない、ただ下を向いているだけ。

 「仕方ない、行こうか」

 とりあえずそのまま歩き出した。

 相変わらず二人の間に話は全くない。決して会話をしたくないというわけではなかったけど、これと言った会話のネタがなかった、ただそれだけだ。

 ひたすら黙って歩き続け、分かれ道にたどり着いた。ここで左に曲がれば俺の家の方、このまままっすぐ行けば天久さんの家の方に行く。

 ここで別れよう。

 「じゃあ、ここまで入れてくれてありがとうございました」

 「…………」

 見ると雨は思いのほか弱まってきている。この分なら走って帰ればそれほど濡れないうちに家に着きそうだ。

 俺はカバンを頭の上に掲げて傘から飛び出そうとした。

 「……待って」

 しかし、突然呼び止められて俺は後ろを振り返った。

 天久さんはこちらに横顔を向けたまま立っていた。顔はうつむいてしまっていてよく見えない。たぶん怒ってはないと思う。しかし何を考えているのかもよく分からない。

 まあ、それは今に始まったことでもないか。

 「何かな?」

 「…………」

 呼びとめたくせにそこから話は続かなかった。こうしている間にも傘の代役を務めてくれているカバンがどんどん濡れていく。中にはこの先まだまだ苦楽を共にする教科書たちが詰まっている。彼らが雨に濡れてしおしおになるのは避けたい。

 「何も用が無いならもう行くよ?」

 「……私も、行く」

 「え? 行く? 行くって、うちに? なんで?」

 「…………」

 どうやらとことん俺と話したくはないみたいだ。

 こうしてなにがなんだか推測する時間は多少なりともあれども結論には一向に至らぬまま、俺の家へと到着した。今考えてみると、俺がなんの抵抗もせず自分の家へと彼女を招き入れたのは初めてかもしれない。まあ今回は例外と言っていいだろう。雨も降っているし、途中まで送ってもらったし、何より、今日の天久さんの態度は変だ。もしあの場で断っていたならば、俺は帰る途中で雷様におへそを持って行かれたかもしれない。それは違うか。

 「あっちで座って待ってて。タオル持ってくるから」

 玄関で靴を脱ぎながらそう言って、俺は彼女を唯一の部屋へと促した。誰に言われなくたってそこでしか待つ他ないけれど、あえてそう言ったのは彼女がまるで沓脱に深々とたくましい根を張ってしまったかのように動かなくなってしまったから。何なんだ全く。

 「さて、タオルは……と」

 「……ねえ」

 タオルを探していると、突然真後ろで声がした。顔には出さなかったが、この時俺は心臓が飛び出そうになるくらい驚いていた。あと一歩で失神しかねなかったかもしれない。その要因としてはまず、いつの間にか真後ろにいたこと。彼女ほど存在感がある人間が、まったく気づかれることなく背後にいたことに心底驚いた。そしてもう一つは、その格好だ。雨のせいだと思うが、髪の毛が顔にへばりついている。顔はうつむき加減で、無表情。正直言ってこれはホラーだ。それらが合わさった時の戦闘力は半端ではない。俺はしゃがんだ状態で彼女を見上げる格好になっていたのだが、数秒間動けなかった。

 「……これ」

 そう言ってしゃがんでいる俺のワイシャツの襟をつかんだ。

 「脱いで」

 「……は?」

 今日の彼女の奇行には拍車がかかっていた。風邪でも引いているのだろうか? 何が起こっているのか全く分からなかったが、ただただ言われた通り俺はワイシャツを脱いでいた。天久さんはそれを受け取るとすっと部屋へと入って行った。何らかのリアクションを期待していた俺は数秒遅れて入った。

 天久さんはテーブルの前に座って、何やらカバンをごそごそいじっていた。立っていても仕方ないのでとりあえず俺はベッドに座ることにしよう。

 天久さんがカバンから取り出したのは小さなケースだった。淡いピンク色そしている。それを開いて中から取り出したのは針と糸。なんとその小さなケースには裁縫道具が入っていたのだ。

 「なんと意外な」

 うっかり漏らした言葉を天久さんは完全にスルーした。これはこれで怖い。

 慣れた手つきで針に糸を通すと、胸ポケットからボタンを取り出し、テキパキとワイシャツに縫い付けていった。そのおよそいつもの天久さんの性格、生活からは想像ができない家庭的な面に俺はたいそう驚かされた。自分が上半身裸なのを忘れていたくらいだ。

 「……ごめんね」

 「はあ?」

 まさかこの天久蓮から発せられた言葉と思わず、俺は自分の家を見まわしてしまった。しかしどこかに誰かが隠れている様子はない。つまり、今の言葉はこいつから出たっていうのか? まさか、この天久蓮が、誰かに促されたわけではなく自発的に「ごめん」と言ったって言うのか?

 「私、勝手だよね」

 否定ができない。

 「でもね、本当に遊びたかったの」

 話しながらもボタンはちゃんとつけている。

 「こんなこと、初めてなの」

 三つ目が付け終わった。

 「小日向みたいな人は、初めてなの。小日向みたいに思えた人は、初めてなの」

 糸が短くなってきた。でもあれだけあればあと二つ付けるのに事足りるかもしれない。

 「だからね、ダメだって分かってても、どうしても抑えられないの」

 とうとう最後の一個に着手し始めた。

 「バカだよね、それで嫌われたら元も子もないのに」

 その時、天久さんの手が止まった。天久さんは床に、俺はベッドの上に座っているので今度は俺が天久案を見下ろす形になっている。ここからだと彼女の顔は見えない。


 「……ヒック」


 恐ろしく静かな部屋の中心から微かにしゃくりあげる声が聞こえた。

 ぽとり、何かが天久さんの手の甲に落ちた。それは、涙のようだった。

 涙。ナミダ。なみだ……

 そして俺は、俺は、俺は――テンパった。

 「い、一緒にどこかに行くことはできないけど、その代わりずっと遊ぼう、な? それなら良いだろ? ろ? と言うかもう遊んでください俺と遊んでください! だから泣くな! 泣かないで! やめて!」

 「いいよ」

 確かに彼女はちょっとやりすぎだ猪突猛進過ぎるがしかしそれが彼女らしさであり彼女の良さでもあるわけでその真っすぐさは言うなら自分とちゃんと向き合えている証拠じゃないかいや確かに考えなしとも取れるけどそれに引き換え俺ときたらただ煙たがって邪険にするばかりだそんなことする権利は俺にないじゃないか俺はいつだって自分と向き合ってなんか――

 「なんですと!?」

 「だから、それでいいよって」

 俺は彼女の真摯な願いにどうにか応えるべく最大限の譲歩と敬意を持ったつもりだ。ベッドの上で土下座までした。しかし彼女から変えてきた言葉、それは俺の期待を百八十度超えて二十度裏切るものだった。いつの間にか立ち上がり俺を見下ろして、いや見下している。彼女の顔はいつも通り、その顔にまるで悪魔に取りつかれた少女のような笑みを浮かべていた。

 「……泣いてたんじゃ……ないのか?」

 「ん? 泣いてなんかないよ? もしかして……雨と見間違えたんじゃない?」

 彼女の髪の毛は雨で少し濡れていた。

 「全部……芝居だったのか?」

 「そんなことないよ、本心だって。ただ、まぁ、若干過剰演出かな?」

 「……はあ?」

 指を顎に当て首を傾げ語尾を上げて疑問形にすることでキャピってかわいさをアピールしようとしているそのしぐさのすべてが腹立たしい腹立たしいああ腹立たしい。

 結局俺は、またしてやられたということなのか――。

 「さっき言ったこと、忘れないでね」

 天久さんの笑顔は、とてもまぶしかった。涙がにじむほどまぶしかった。


     □


 これから数週間、俺はニヤニヤと紙にペンを走らせている彼女の隣からの一刻も早い解放のため、夏休みを渇望する自分と、それに相反するニヤニヤとペンを走らせたその紙に記された夏休みの緻密なる分刻みタイムスケジュールを恐れ、夏休みがやってこない事を切望する自分、という両極端な自分を抱えてしまうこととなった。葛藤、これが思春期と言うことなのだろうか。

 ちなみに今回の一件には一人の黒幕がいたことが、少し後になって分かった。

 「やはり、お前か」

 「やだな~、僕のせいじゃないよ。僕はどっちにもつかない、中立でいなきゃいけないんだ。だから、秋光に助言をしたんだったら、同じことを天久さんにもしなくちゃいけないわけ。そこから先は当人の責任だよ。それに僕に一体どんな罪があるっていうんだい? 僕はただ月並みな助言を言っただけだよ? 一体それのどこが悪いのさ? 僕はただの友達思いな友達じゃないか~」

 などと、至極もっともな言い訳を並べるコガの顔は始終緩みっぱなしだった。俺は相反する二つの自分を抱えた負担を、こいつで解消することにした。

2013/10/19 誤字修正

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