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第二章 六月

 六月。

 我らが住む下界にあまりにも雨が降ることによって神様がおわすところの天界に水が無くなってしまうとかなんとか。神だったらそんな事態になる前に雨を止めろっての。栓の仕方も分からないのかよ――なんて天に唾を吐くような行為に興じれるような気分ではない。雲が太陽の陽光を遮り、どんよりジメジメしてしまう空気と俺の心。案外俺は空気と割合近いところにいるのかもしれない。いやそれは決して俺の存在が空気に近いとかそういう意味ではなく、まさにその言葉通り、俺を構成する成分が空気のそれに近いのかもしれないという意味で……って俺は誰に対して弁明しているんだ?

 そんな六月。

 とにかく今日も、昨日一昨日その前と変わらず灰色に覆われた雲を、机に上半身を預けながら灰色に濁ってしまった目で見つめていた時、まったく脈絡なく、まさに青天の霹靂――いや、この場合は暗天の霹靂と言うべきだろうか――俺は気が付いてしまった。

 「コガ!」

 「おぅっ!? ビックリした。どうしたの急に?」

 どうして今まで気が付かなかったのだろうと頭を抱えてしまう位、それは重大な問題だった。

 「そうか、そうだったんだ……」

 「何が?」

 「この胸にある虚空感というか、虚無感というか、そのなんやかんやの原因は、なんてことない簡単な事だったんだ……」

 「何の話?」

 「俺たちの生活には……愛がないんだ」

 「急に何を言い出すかと思えば。あんまりバカになんないでよ」

 しかし、この問題に対しコガはあまりにも無関心だった。なぜならば、コガに関してはそういった問題を問題だと感じる必要がなかった。

 つまりは、そういった問題をすでに解決していた。

 つまりは、こいつには彼女がいたのだ。

 これは先月知った事実だ、中学からの付き合いらしい。天の采配とは常に奇想天外だ。

 「お前はもう良い。むしろこれ以上は許さない。しかし俺は? 俺はどうだ? どうしてこうもサハラ砂漠のようなカラカラ十代を送らなければならないのだ。不条理だ、不衛生だ、不潔だ」

 だが最初コガは俺の言っていることが分からないと言うように首をかしげた。そして指をさす。しかしその指の先には女子用の制服を着た長い黒髪メガネで、確か授業中先生が話していたようないなかったようなタイトルの文庫本を読みふけっている天久さんしかいない。

 俺は視線をコガに戻すとさっきのコガのように首をかしげた。 

 するとコガはさっきと同じところを、より強く指差した。しかし何度見てもその光景は変わらない。じれったいので直接コガのその真意を問いた。その答えは、衝撃だった。

 「天久さんがいるじゃん」

 何が衝撃って、コガが彼女を一人の女性として認識していたところだ。確かに彼女の性別はどちらか、という二択でなら女性というカテゴリーに入るのかもしれないが、彼女の一挙手一投足から、いかにして女性という認識が生まれよう? 俺はそこまで寛容にはなれない。

 「からかうのはやめろ」

 「マジなんだけどな」

 「とにかく、高校生になったのだから、一日にクラスの女子とのうれしはずかしトークの一つや二つ、あってしかるべきじゃないのか? なのに、なぜか俺はクラスの女の子から若干距離を取られている気がしてならない。どう思う?」

 そう、入学してからそろそろ二ヶ月と言うのに、一向にお近づきになれないどころか、どんどん離れて行ってしまっている気がする。あいさつをすればかしこまられ、手伝いを申し出れば遠慮され、話しかければ逃げられる。

 「確かに。まあ何でかは分からなくもないけど」

 「俺が何か嫌われるようなことをしたってこと?」

 「いや、そうじゃないよ」

 それ以上何も言わず、コガはただ微笑んだ。

 「……とにかく、うだうだ考えても解決するわけじゃないなら行動あるのみだ。そこで早速隣の小春さんに話しかけてみようと思うのだがどうだろう?」

 先日の席替えによって隣の席には、これまた先生が話していたようないなかったような文庫本を静かに読んでるまさに愛くるしいという言葉が辞書から飛び出して生を受けたような少女、小春さんがいる。その幼すぎる体系に幼すぎる顔と栗色のボブカットが絶妙に合っている。

 「いいんじゃない? 天久さんが遠い席に行っちゃって良かったね」

 それに関して異論はない。席替え万歳だ。

 「よっしゃ、さっそくかましてくるぜ!」

 さて、意気込んでみたもののいざ話そうと思うと何も話題がない。家にテレビはないから昨日のドラマについて語るのはなし。新聞も取ってないから時事ネタもなし。もともとあまり読書家ではないから文学的話題もなし。趣味もないから……あれ? 俺ってだいぶつまらない人間じゃないか? いやいや何関係ないところで落ち込んでんだよ。別に俺になくてもあっちにあるかもしれないだろ。そうだよ、小春さんならきっと素敵な趣味の五つや六つあっておかしくない。何んとかむこうに話させればいいだけの話じゃないか。女の子ってのはたいていおしゃべり大好きだから、きっかけさえ与えてやれば華厳の滝のごとくドバドバと話し出すだろう。そうすればこっちの勝ちだ。あとは笑顔を絶やさなければ万事良好。

 よし、いくぞ。

 「やあ、小春さん」

 「やっ!」

 「…………」

 それが、彼女の第一声だった。

 ウソだろ……名前呼んだだけで、イヤって言われた?

 めげるな俺、まだそうと決まったわけじゃないだろ。突然話しかけられて、驚いちゃっただけ、そうだよね?

 「えっと……」

 「だ、だめっ!」

 あ、だめだ、これ完全に拒否されてる。どうしよ、泣きそうだ。

 「こらこら、小春さんを怖がらせちゃダメだよ」

 こっちとしてはそんなつもりは毛頭ないどころか胸の奥の方にえげつない傷を負ったわけなんだけど今この状況ではナイスなフォローだコガ。

 「安心してよ、別に秋光は小春さんをいじめようとしていたってわけじゃない。ちょっと話したかっただけだからさ」

 「えっ……や……それはちょっと」

 明らかに落ち着きがなくなり目線もあっちやこっちを行ったり来たり、しかしあっちやこっちには俺はいない。つまり、俺を視界に入れてはくれないみたいだ。もう泣いてもいいだろうか。

 いや、泣くのはまだ早い。どうせならどうしてそこまで俺を拒絶するのか、その真意を聞いてからでも遅くはないはずだ。

 「あ、あのさ、もしかして俺、小春さんになんかしちゃった?」

 途中声が裏返った気がした。それは少なからず俺が話し始めた時、小春さんの体がまるで幼児趣味の怖いお兄さんに話しかけられて脅えているかのように震えているのに傷ついた自分がいたからだと思う。目頭が熱い。まだだ、まだだぞ。

 しかし、ぼろくそになじられてしまいには俺が泣いてしまうという予想に反して、小春さんは頭をぶんぶん振っていた。

 「じゃあ小春さんのお友達に?」

 「そ、そういうことじゃなくて……」

 そこまで言うと、その先はとても言いづらいのか、うつむいて黙ってしまった。

 俺も困ってしまったのでコガに視線をやる。やつはニヤニヤしながらこの状況を楽しんでいた。だからとりあえず殴っておいた。

 再び小春さんに視線を戻しても彼女はまだうつむいたままだった。手に持った文庫本を膝の上で山折りにしたり谷折りにしたりしてペコペコいわせている。ちょっとかわいいからそのまま見ていることにしよう。

 たれた前髪で表情は窺えないが、よく耳を澄ませると、小春さんは何か言っている。声の小ささからして独り言だと思うけど「いいのかな」とか「やっぱいけないよね」と言っているように聞こえる。この人、素で自問自答をしている。かわいい。

 「あの……」

 「え? あ、はい?」

 「お話って?」

 「へ?」

 「だって……お話があるって……」

 しまった、そういえばそういうことになってんだっけか。まずいな、特にない。

 「いや、せっかく隣になったんだし何気ない世間話に花を咲かせようかな~なんてさ……」

 「…………」

 これはまずい。せっかく話せるようになったのにこのままじゃまたさっきに逆戻りだ。何か、何か話題はないか。ちくしょう笑ってんじゃねーぞコガ。

 「……秋光くん、て、さ」

 なんと、まさか向こうから話を振ってくれるのか? これはラッキー。ここから俺の話術で一気に流れをつかむぜ。

 「いつも、放課後に一人で掃除してるよね」

 あっちゃーそう来るか、しかも瞳には憐みが込められている。でもせっかく小春さんが勇気を振り絞って出してくれたパスだ。ここでつなげなければ男が泣くぜ。

 「そうなんだよね~先生ったらすぐに当番を決めるからって言ってたのに全然決めてくれないんだよ。だからその間俺がずっと掃除しなきゃいけないんだよね。これじゃ今年中ずっと俺が掃除することになっちゃうかもね。ハハハ」

 「大変だね……」

 「でもなんか最近慣れ始めちゃったりしてるんだよね。ハハハ」

 「そっか……」

 「…………」

 終わった、わずか二往復で終わった、ここ一番に頼りにならない俺の話術。そして場を支配する気まずい空気が体に入って肺をちくちく刺してくる。女の子と話すのってこんなに難しかったっけか? コガに出来て、俺にはできないというのか?

 そんなはずない! そんなことがあってたまるか!

 「あの……秋光くん」

 「はい?」

 見ると小春さんはさっきより挙動不審になっている。何故そんなに落ち着かないのだろうか。

 もしかして、おトイレだったり?

 「やっぱ……これは良くないんじゃ……」

 「はい?」

 良くない? 何が? トイレを我慢することがか? それは良くない体に悪い。

 「トイレの話?」

 そう言った瞬間、小春さんは真っ赤になって「ちがうよ!」と半ば怒り交じりに反論した。コガは後頭部をはたいてきた。 

 らちがあきそうにないので「じゃあ何が?」と聞いてみた。すると小春さんは言うべきか言わざるべきか迷っているのか、また挙動不審状態になってしまった。しかし、俺は気がついてしまった。

 小春さんの定まらないと思っていた視線は、よく見ると実はある一点をちらちらと見ていたのだ。

 その視線の先には、また彼女がいた。

 しかし、さっきとは異なり、手に持っていた文庫本は、もうここからではタイトルが読めないくらいに両の手によって圧縮され、その手はやたら小刻みに震えている。下を向いているので顔は確認できないが、彼女の周りの大気がゆがみ具合から容易にどんな顔をしているか想像がつく。

 なるほど、僕ちん分かっちった。

 「もしかして、天久さん?」

 天久さんという言葉が出た瞬間、小春さんの体がビクッとなった。どうやら当たりみたいだ。さっきからの小春さんの珍行動の原因は彼女らしい。

 「あの人のことは気にしなくていいから」

 「え、で、でも……」

 小春さんは相変わらずちらちら様子を窺っている。一体何をそんなに脅える必要があるのだろうかと思うが、そこは彼女の超高校級の珍行動に慣れ始めてしまっている俺だからであって、まあ慣れていない人にはあいつは少々刺激が強すぎるかもしれない。ましてやあんなに怒りを全面的に押し出して、もはや視認できるくらいどす黒いオーラを出していればなおさらだ。

 「大丈夫。あの人はあれでいつも通りだからさ。それにあれは俺に対して向けられている殺意だから、小春さんにはミジンコに生えてる体毛ほども危害を加えないから心配しないで」

 「そう……なの?」

 「そうなの」

 それでもそっと天久さんをうかがうその様子はまさに小動物。見ていて癒されるというか、ほほえましい。いや~やっぱ高校生活にはこう言う光景が大切だね。

 至福に浸かっている俺に、コガが肩をトントンと叩いて耳打ちをしてきた。

 「ねぇ、そろそろまずいんじゃない?」

 「何言ってんだよ、せっかくこんなカスカスの高校生活に一輪の花が咲いたってのに。みすみす見捨ててたまるか」

 「まあ秋光がそう言うならかまわないけど……忠告はしたからね」

 全く、コガは気にしすぎだ。そもそも何故天久さんに気を使いながら行動しなきゃならないんだ。俺の高校生活だ、どうしようと俺の勝手。彼女に制約される覚えもなければ言われもない。俺たちはただのクラスメイトなのだから。

 「ねぇ、秋光くん。本当に大丈夫なの?」

 小春さんその上目づかいな感じグッドです。

 「大丈夫大丈夫。そもそもなんでそんなに心配するの?」

 そう言うと小春さんは首をかしげた。

 「だって――二人は付き合ってるんでしょ?」

 この発言には思わず俺が首をかしげてしまった。

 「……何ですと?」

 「え? ち、違うの?」

 これは小春さん的ジョークか? 笑うところか? つっこむところか? いやいやあえて冷静に訂正ってのもありかな。

 「勘弁してくださいよ」

 その発言に、小春さんが目を見開いてやけにオーバーなリアクションをしたのと、コガが声を上げて笑ったのと、天久さんのいる方から「バンッ」と机を叩く音が聞こえたのはほぼ同時だった。まるで俺の発言が合図だったかのように。

 「なんだなんだ?」

 俺はさっぱり状況がつかめない。ただ一つ分かること、最近の非日常な経験から覚醒した俺の中の奥の方の、普段表に出てこない動物的本能が告げている。逃げろと。

 三十六計逃げるにしかず、素晴らしい言葉だ。

 「させない」

 天久さんが立ちはだかった。しかし所詮一人では退路を全てふさぐことなどできるはずがないだろうが。あなたが前を塞ぐなら、俺は後ろに逃げるればいいだけの話。

 天久さんから伸びてくる右手をギリギリのところでバックステップして避け、そのまま百八十度ターンしてダッシュ、後は朝のホームルームの時間までの耐久レース。

 と、頭脳で構築した逃亡劇は、まさかまさかの展開を迎えることとなった。

 それはまさに俺が彼女の右手をすんでのところでかわし、後ろに下げた左足を軸に百八十度ターンをしようとしたまさにその時だった。視界の端で、栗色ボブカットが揺れるのをとらえた。

 途端、

 「きゃっ!?」

 というかわいい声と、

 「あっ!?」

 というコガの声が聞こえた。

 「なんだと!?」

 俺は百七十七度くらい回ってしまった体をもう一度無理やり百七十七度回転させた。その時思いっきり首の筋を痛めてしまったけど、そんなことに気を回す暇はなかった。そんな状況が眼前に広がっていた。

 まず目に入ったのは、右手をのばしたまま、一体何が起きたのか分からないという顔をして固まる天久さん、次に、天久さんの胸のあたりに、身体を後ろに反り、両手を横に目一杯広げたまま顔が埋もれている小春さんだった。

 天久さんは女子の中ではかなり背の高いほうだ、それこそ男子の俺とたいして変わらない。ちなみに俺はこれでも背の順に並べばわりと後ろのほうだ。それに比べ小春さんはもう一回小学校に入れるのではないかと言っても決して過言ではない程小さい。これは俺の子供だ、と言っても六割ぐらいの人間はだませそうだ。あまりにも小さすぎる。文部科学省は、高校入学に身長制限を組み込むことを前向きに検討することをお勧めする。

 まさにこれはその結果が生んだ奇跡。天久さんの右手は小春さんの身長より高いところを通り、飛び出してきた小春さんに当たることはなく、また、おそらく天久さんには小春さんが見えていなかった。だから、そのまま突っ込み衝突――という結果になったのだろう。

 ではなぜ、小春さんはあの暴走機関車に捨て身で飛び込んだのか?

 「ぷはっ」

 と小春さんは天久さん胸に埋もれた顔を抜き出すと、おたおたと数歩後ずさって今度は俺の体に当たると、

 「ご、ごめんなさい」

 とあわてて離れてしまった。

 さて、ここにはようやく首の痛みに気がついて顔をゆがめながら首をさする俺と、相変わらず右手をのばしたまま硬直している天久さんと、状況が全く読めない、と顔に出まくっているコガとその他数名と、とってもキョドキョドしている小春さんがいる。そしてみんなが待っているのは、この状況の説明、つまり小春さんの発言なのだけれど、どうやらこのキョドキョドは長くなりそうだ。俺が流れを作ることにしよう。

 「えっと、小春さん、大丈夫?」

 天久さんの右手がかすかに動いた気がした。

 「う、うん」

 小春さんがうつむきながら答える。残念ながら俺はそこにいないのだけれど……っていうのはもうやめよう、空しくなるだけだ。

 「なんで天久さんに抱きついたりなんかしたの?」

 「わ、私そんなつもりじゃ!?」

 両手を広げて天久さんを包み込もうとしていた、そうとしか考えられなかったけど。どうやら違ったらしい。

 「じゃあなんでまたあんな危険なことを?」

 すると小春さんは、しばしのモジモジタイムの後、こちらではなく天久さんに向かい合った。天久さんはと言えば、身体はそのままだが、眼だけは彼女を捉えている。怖すぎるだろそれ、特に小春さんには。

 案の定かなりビビっていることが後姿からでも容易に感じ取れる。しかしこの小動物的なところも小春さんの良いところであったりするわけで、俺はこの状況をそれなりに楽しめちゃったりしている……やばい、なんだか自分が世間体的に良くないものに目覚めつつある気がする。自重。

 しばしの間天久さんは目の前でキョドキョドしているかわいらしい小動物を実に冷たい目で凝視していたが、

 「何?」

 と、実にシンプルで、それゆえにとても冷ややかな一言を放った。

 「あの……えっと……」

 小春さんは必死に答えようとしているが、完全に気圧されている。そろそろ泣き出してしまうのではないだろうか。と思っていた矢先、微かに小春さんが嗚咽しているのが聞こえてきた。

 同情します小春さん、本来あなたは無関係なはずなのに、なぜこんな責められるようなこと――実際責められているのだけれど――をされなくてはならないのか。しかし、ここが踏ん張りどころです。このままでは天久さんはあなたにまで危害を加えかねません。さあ、頑張って。

 この俺の思いが通じたのか、小春さんは一度深呼吸をして自分を落ち着かせると、相変わらず冷たい目を向けている天久さんに話し始めた。

 「あの……ゴメンなさい! 私が、悪いんです」

 そう言って小春さんは頭を下げた。はてな? 何故小春さんが謝る必要があるのあろうか? 明らかに謝らなければいけない人間は他にいると思う。ここにいてこの状況を見ている誰もがそう考えているはずだ。ただ、その人物が誰かという点で意見が合うことはないだろう。

 「私が……ちゃんと考えないから……天久さんの気持ちを、ちゃんと考えられないから……そうですよね、他の女の子と話していて気持ちがいいわけないですよね、ホント、私馬鹿です。だから、これは私が悪いんです、小日向君は悪くないんです。ゴメンなさい!」

 もう一度ゴメンなさい、と言った小春さんを、天久さんは見降ろし続けた。こんな状況に俺は納得がいかなかった。それは今まで黙って事の成り行きを見守っていたコガも同じだった。

 「違うよ、小春さん。小春さんは何も悪くなんかないよ」

 ね? そう言ってコガは俺を見た。

 「その通り。小春さんは何も悪くない。俺が話しかけたことに、応対してくれただけ。本当に悪いのは天久さんだよ」

 俺は少しでも小春さんの気が軽くなるように明るい調子で言った。それが癇に障ったのか、天久さんの目がギロッという効果音が聞こえてきそうな運動をして視線を小春さんから俺に移した。

 その途端、今まで全く動くことのなかった右手が、急速にこちらに伸びてきた。

 完全に油断していた俺の反応は遅れ、ギリギリのところで身体はよけても、制服のネクタイまでは間に合わなかった。

 天久さんはその掴んだネクタイをものすごい勢いで自分のほうに引き寄せた。またも首に負担がかかり筋を痛めてしまった。

 だが、その直後、ゴンッという鈍い音と、眼前にたくさんのお星さまと、額に鈍い痛みがした。

 天久さんは引っ張った俺の額めがけて頭突きをかましてくれやがった。

 「何すん――」

 「今回はこれで許してあげる」

 俺の言葉をさえぎって、彼女は低く冷たく言い放った。かなり近くにある彼女の顔の、眼鏡の奥の目のさらに奥には、何やら触るな危険な禍々しいものが渦巻いているようだ。

 私小日向、人生二度目の戦慄を覚えた日だった。

 「次はないよ?」

 そう言って笑ったつもりの天久さんかもしれないが、目が笑っていない。

 「それと……」

 そう言って天久さんは下を向いた。そこには憐れ、俺たち二人に挟まれ出るに出れず、かといってそのあまりにも小さい体躯では二人の衝突――というか、彼女からの一方的な激突――を阻止することもできず、ただただ、おどおどと事の成り行きを不安と涙をいっぱいにためたまで見守っていた小春さんがいた。

 しまった――俺はとっさに思った。

 小春さんが危ない。

 「ひゃあ!」

 天久さんがネクタイを持つ手の力を緩め身体の自由が戻った一瞬、俺は小春さんを守るためにその体を引き寄せ――もちろん不可抗力だが――抱きしめるようになってしまった。

 「小春さんには手を出すなよ」

 ……決まった。今の俺の勇姿を高画質で録画して後世に残してやりたかった。せめてこのまぶたの裏に焼きつけよう。

 心で小さくガッツポーズをしたのと、天久さんの鉄拳が額にめり込んだのとは、まさに阿吽の呼吸、絶妙なタイミングだった。

 しかし! か弱き少女を守り抜いたこの敗北に何故悔いが残ろうか? 誰が罵り嘲りせせら笑うだろうか? 否、俺は死して英雄となる!

 といった俺の予想というか妄想というか期待に反して、はち切れんばかりの喝采は一向に聞こえてくる気配がなかった。いやいや、実際はそんなことを期待なんかしていなかったよ、ホントに。すぐに気がついたよ。別に天久さんは小春さんに対して危害を加えようとしていたわけじゃないって。でも、でもさ、気がつく前に体が動いちゃったんだもん、恥ずかしかったんだもん、もうごまかすしかないじゃん。だからさ、みんなもそこは俺の肩を持ってくれてもいいじゃんか、そんな冷たい目で俺を見るなよ。別にオープンセクハラをしようとしたわけじゃねーよ、そこまで欲求を持て余してねーよ。これでもコンビニで買い物した時「あ、袋いいです」の一言がどうしても言えない程花も恥じらう十代だよ馬鹿ヤロー。

 「大……丈夫?」

 殴られ地に伏せる俺に、それは戦場に舞い降りた女神のごとく手を差し伸べてくれた人間がいた。

 「ありがとう、大丈夫だよ」

 その手を取って立ち上がる。こんなに小さい手なのに、なんて包容力だ。幼き容姿の下には観世音菩薩級の慈愛が隠されていたのか。

 「でも、急にあんなことしたらダメだよ」

 小春さんは頬をぷくっと膨らませ、両手を腰についてまさに怒ってますよって格好で怒った。

 ……しかし、この格好、てっきりアニメとかマンガの世界だけの、怒られているはずなのになんだか得した気分になっちゃう怒られ方をこっちの世界で実行する人がいたとは……やばい、これは、反則だ。

 ここで「う、うるせぇよ」みたいな思春期爆発嬉し恥ずかし照れ隠しな反抗発言をして小春さんをもっと怒らせて、もう少しこの姿を拝ませていただこうかなと思ったけど、そうするとなんだか今日だけで開花した俺の新境地が許容限界を超えて暴走を起こしそうなのでやめておこう。それにしても……。

 「……萌えって、ありだな」

 「次はないって、言ったよね?」

 相も変わらずしかめっ面を顔面に張り付けた天久さんがまだそこにいた。いつもいつもそんな顔をして疲れたりしないのだろうか。

 「なんだ、まだいたんですか。まだ何か用ですか?」

 俺としては、もっと小春さんとの楽しい会話をしたいし、そろそろ周りの好奇の目にさらされるのにも限界を覚え始めてきたわけだから、一刻も早くこの方には自分の席に戻っていただいて、よっれよれのぐっしゃぐしゃになった文庫本と一人にらめっこの続きをしていただきたいわけなのだが、どうやらそう簡単にはいけないらしい。天久さんは何も言わない、その無言がいったい何を示しているのかは、もはや今日の数学の小テストの答えより明白だ。

 周りにいる人には、相対する二人の間にほとばしる火花が見えていることだろう。まさに一触即発、爆発寸前、かと思われた。

 「もういいや」

 しかし意外にも、先に折れたのは向こうだった。

 「……覚えてろよ」

 しかも何やら物騒な言葉を残して。

 だがこのとき、俺の耳にはそんな言葉は馬耳東風どこ吹く風。謂れのない罪による容赦ない罰から解放された俺はそんな悪役お決まりの捨て台詞にかまけている暇などないのだ。

 早速楽しい歓談に戻らせていただこう。

 「ごめんね、小春さ――」

 「やっぱり、ダメだよ」

 小春さんにしては珍しい、強い意志のこもった話し方だった。そんな拒絶に、ウキウキ気分でガードを下げていた俺のあごに強烈なアッパーが入って一発KOだったのは言うまでもないか。

 その日は、結局太陽の光を拝むことはできなかった。


     □


 翌日から、天久さんによるあまりにも露骨な嫌がらせ始まった。

 嫌がらせその一、朝の出迎え。

 「おはよう!」

 扉を開けると実にさわやかな笑顔で天久さんが立っていた。だがここまでの間に数十分間、鳴りやまないインターホンの嵐と突き破る気なのではないかというほどの強烈なノックの台風があってからこの笑顔を見ると、ただのホラーだ。

 「……なんですか?」

 「何って、迎えに来たんだよ!」

 俺は振り返って壁時計を見る。現在時刻午前五時きっかり。

 「さ、学校へ行こう!」

 俺は振り返って壁時計を見る。現在時刻午前五時一分。

 ……嘘だろ。

 それから彼女は、どんなにお願いしても決して外に出てくれることはなく、「ここで待ってる」と相変らないさわやかな笑顔で言い続けた。俺が着替えをしている間も、朝ご飯を作っている間も、食べている間も、彼女は土間から動くことはなく、さわやかな笑顔を崩さないまま俺を見ていた。皆さんははたして想像できるだろうか、この恐怖を。もし機会があったらやってみてほしい。

 嫌がらせその二、同伴登校。

 「あの……歩きにくいんですけど」

 「そう? じゃあもう少しくっつこうか?」

 「いや、むしろ離れていただきたいのですが」

 「そんなの嫌」

 天久さんの手にギュッ、と力が入った。

 「あいでででっ!」

 決まってる決まってる決まってる! タップタップ!

 「でも……小日向がそう言うなら……」

 力加減が右肩のぼり。

 「嘘です嘘ですゴメンなさい!」

 「えっ!? もっとくっついていいの?」

 左腕崩壊までのカウント入りました。

 「はいはいはいはいっ!」

 「やったあっ! 私たちって周りからみたらどう見えるかな?」

 刑事ドラマでよく見る、犯人が腕を背中にまわして関節を決められる俺と決めているあなたを見て、常識人ならきっと恋人同士なんだななんて素粒子レベルも思わないことは確かだね……なんてこと、決して言わない。言えない。

 「……どうだろうね」

 カムバック言論の自由。

 嫌がらせその三、マシンガントーク。

 「……そしたらね、その子私になついちゃってさ、私が行く度に私の膝の上に乗ってくるんだよ。かわいいでしょ!? あ~私も猫飼ってみたいな~。ねぇ、小日向の家は何か飼ってるの? あの家ってペット禁止? 実家にはいるの? 実家と言えば、小日向の家族の人たちってどこに住んでるの? 兄弟とかいるの? 兄弟いそうだな~なんだか下の子がいそう。どう? いるでしょ? なんかお兄さんって感じが体からもんもん出てるもん。よく言われない? 言われるでしょ? 私はよく一人っ子っぽいって言われるんだよね~なんでだろ? でも確かに一人っ子なんだよね。小日向は一人っ子がよかった? 私は兄弟と姉妹ほしかったな~。特に妹、妹がほしかった。妹と一緒に買い物に行ったりするのって、憧れるよね? あ、男の子だと買い物とかじゃなくて、兄弟でキャッチボールとかなのかな。あ、買い物っていえばね、聞いてよ、この前さ、シャーペンの芯がなくなっちゃってさ、放課後買いに行ったんだ。だけどね、その時間違えていつも使っているやつより小さいやつ買っちゃったの。家に帰ってから気が付いてさ、もうショック。また買いに行かなくちゃいけなくなっちゃったの。なんでシャーペンの芯に大きさの差をつけるのかな? だいたい、あの小さい方って使ってる人いるのかな? でも売られているんだから需要はあるんだよね、きっと。あれ? なんでシャーペンの話になってるんだっけ? あ、そうそう、そうだ、思い出したよ、嫌いな食べ物の話だったよね?」

 「あの」

 「ん? 何?」

 「……もういいでしょ。もう十分話したでしょ。そろそろ先生来るしさ、天久さんがそこにいるとコガも座れないしさ、だから、ね?」

 「え~まだ足りないよ。それにまだ先生が来るまでに三分はあるよ? コガも私の席に座って待っててくれてるし。もっとお話ししよう」

 「……勘弁してください」

 学校に着いたのが朝七時、それから約一時間三十分、ひたすら話し続けた、というか、ほぼ一方的に彼女が俺に向けて言葉を放ち続けたというか。俺がたとえ外を向いていても、机に突っ伏して寝てしまっても、俺が急に立ち上がってトイレに行っても、そのトイレまで追いかけてきて話し続けた。

 嫌がらせその四、授業への強制参加。

 一時間目、数学。

 「え~、じゃあこの問題を誰かにやってもらおうかな」

 「先生! 小日向君がいいと思います!」

 「は? ああ。そうか? じゃあ秋光」

 二時間目、国語。

 「さて、じゃあこの問題は……」

 「先生! 小日向君がいいと思います!」

 「はい? ああはい。なら秋光君にやってもらいましょう」

 三時間目、歴史。

 「はい、じゃあ次のページを読んでもらおうかな」

 「先生! 小日向君がいいと思います!」

 「え? あ、それでは秋光君お願いします」

 四時間目、体育。

 「先生! 小日向君がいいと思います!」

 「誰だって? ああ分かった! よし! 秋光前に出ろ!」

 「いや無理だよ! なんだよ横交差三重ななめ跳び旋回左右回りって! ホントに縄跳びの技かよ! 高校生にどんな匠の技を期待してんだよ! 帰宅部なめんなよ!」

 「なんだ~ちゃんと説明したろ? 聞いてなかったのか?」

 「聞いてたらできちゃう程度なのっ!?」

 嫌がらせその五、お弁当。

 スピーカーから流れる録音された鐘の音、直前の授業の片づけをしていると肩をたたかれて、振り向くとそこには天久さんがいた。右手にオレンジ色の風呂敷に包まれているお弁当を掲げている。

 「はい小日向! お弁当だよ!」

 「あ、ありがとう」

 受け取って風呂敷を広げる。

 パカッ。

 長方形のお弁当には真っ白く『小日向LOVE』と書かれていた。

 カポッ。

 静かにあけたふたを閉じた。

 「おかしくない?」

 「何が?」

 「このお弁当」

 「どこが?」

 「これってさ、普通真っ白なご飯があって、その上に海苔とかで作るやつだよね? まさかお弁当全域を使って真っ白なご飯だけで作るやつではないのではないかい?」

 文字をかたどった真っ白なご飯、それ以外の、お弁当のふちとご飯の間には、窒素と酸素と二酸化炭素とその他もろもろの気体しか存在していなかった。いやつまり、何にもなかった。

 「持って来るの大変だったんだよ~ちょっとした振動ですぐ崩れちゃうから」

 あ~疲れた、と。まるで苦労をねぎらってくれとばかりに、天久さんは口をとがらせている。作ってもらっている手前、俺には発言権はない。

 「あ、そう、お疲れ様です」

 これなら日の丸お弁当のほうが梅干しが入っている分豪華に見えてくる。

 嫌がらせその六、掃除の指揮。

 「そっちにはほこり落ちてるよ」

 「あ、はい」

 「あっちには紙ごみが」

 「あ、はい」

 「こっちには消しゴムのカスが」

 「あ、はい」

 「そこには髪の毛が」

 「あ、はい」

 「ここには遠い日の思い出が」

 「あ、はい――って落ちてねーよ! てゆーか見えんのかよ! それよりまずゴミと同列にすんな!」

 「邪魔なだけだよ……」

 「意味もなく遠くを見ながら言うな! なんだかいつもの明るい笑顔の下に隠された悲しい秘密に少し触れちゃった気がしちゃうだろ!」

 「小日向、そんな意味のわからないことを言ってないで掃除しなきゃ」

 「あ、はい」

 結局いつもより時間はかかるし疲れるだけだった。

 嫌がらせその七、同伴帰宅。

 「とは言っても朝と同じなんだけどね」

 「何言ってんの? ちゃんと反対の腕に変えてるよ」

 そんなことを言い出したら違いなんてのは結構ある。たとえば、やはりこの時間帯となると朝よりまだ道には人がいることとか。その人たちが俺たちを見たときの怪訝な目ときたら……泣きたくなるぜ。

 結局、天久さんは俺の家に着くまでこの手を解放してくれることはなかった。約三十分ぶりに対面した右腕には――おそらく朝より抵抗をしたせいだが――天久さんの手形が青く、くっきりと浮かび上がっていた。ホラーか。

 この仕打ちはこの後一週間、学校がある日はずっと続いた。決して一つも欠けることなく、俺が健やかなる時も病める時も、ずっと。

 だから、この仕打ちが始まった一週間後の、次の日の朝。いつも通り六時きっかりに迎え来た天久さんに、土間に頭をこすりつけながら許しを請うという結果になったのは当然の理だろう。

 だってそうだろう? 何が怖いって、この非日常が、いつの日か日常になってしまうのが怖いじゃないか。

 朝、やかましい音に起こされて、天久さんを土間で待たせながら、支度。

 自ら「はい」と差し出した腕を決められながら、登校。

 相槌も返答も求めない言葉の流星群を朝の学校の雑踏のような心持で聞きながら、二度寝。

 授業中どの問題があてられるのかと緊張感を持ちながら、三度寝。

 昼食、育ち盛りの男の子がわずかな炭水化物のみを摂取し、感謝。

 倍にも近い時間と体力をいたずらに浪費しながら、掃除。

 自ら「はい」と差し出した腕を決められながら、下校。

 そんなの、俺耐えられない。

 「いいよ」

 だから彼女のその一言に、俺は危うく涙するところだった。

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