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第一章 五月

 五月。

 新入生はそろそろその浮足を地につけて、体は緊張と言う鎖から解放される。進級した生徒はクラスが変わった友に思いをはせることを忘れて、新しい友人との休日の予定を楽しそうに話している。朝の通学路からも新鮮さが消えうせて、高校レベルの勉強に義務教育で悠々自適に過ごしてきた日々を懐かしみ、朝の目覚まし時計に本気の殺意を抱く。

 そんな五月。

 俺にしてみれば五月に限らず通年五月病を発症中なのだが、それがピークに達するのはやはり五月なんだろう。今日もだれる体に鞭を入れ嫌々登校してきたはず俺は今、全力で校舎を駆け巡っている。

 はてさて、なぜこうなったのだろう?

 なぜ俺は、身におぼえのない因果によってこれほどまでに悲運な生活を強いられてしまったのだろうか? 

 考えられる一つの可能性としては、おそらく先祖が交わした悪魔との契約の代償として、子孫である俺の幸福的なものがごっそり抜き取られてしまったという場合。

 だがしかし、それにしては俺の家系は栄枯盛衰からはほど遠い、まったくもって慎ましい歴史を歩んでいるその訳は、おそらく悪魔と契約したうちの先祖は、「幸せにしてくれ」なんて間抜けここに極めりなお願いをしてしまったからだろう。

 一般的に言うところの「幸せ」とは、個々人によって形が異なるものなのだ。目立つことが「幸せ」だと思う者もいれば、地味にひっそり暮らすことが「幸せ」だと思う者もいる。戦うことが「幸せ」だと信じる者もいれば、平和こそ「幸せ」だと信じる者もいる。お金持ちになることが「幸せ」だと考える者もいれば、その逆も――到底信じられないが――この世界のどこかにはいるんだろう。そんな多種多様な「幸せ」の形があるこの世界で、なぜ明確な答えを提示しなかったのか、甚だ疑問でならない。それらを統合し平均した結果が「0」つまり可もなく不可もない、そんなことになることくらい、分かってもいいことだろう。

 まあそんなことを言っても仕方がないのも事実、そしてそのツケが回ってきていることも事実。ならばそろそろ現実を見つめようじゃないか。

 しかし、散々言ってしまった後ではばかられるが敢えて言わせてもらうならば、俺にとっての「幸せ」の形とは――そう俺の祖先がそうであったような――可もなく不可もない平穏で平坦で平凡な日常を送れることだと、俺はここ最近よく思うようになった。そんな今、もしかしたら先祖が望んだ「幸せ」はそこに確かにあったのかもしれないと、思わなくもない。

 でもやっぱり、自分のツケは自分で払ってほしかった。

 「待ってったら~」

 痛感しながら今日も、俺はせかせか足を動かしている。ついでに口も。

 「待てと言われて待てるやつはいない、なぜなら待てるやつとは最初から逃げていないやつだからだ」

 振り返らずに、言う。そこまで大きな声じゃないけど、多分聞こえているだろう。彼女のステータスには驚かされることばかりだ。

 「そんなの知らない。待たないと、殺すよ?」

 案の定聞こえていた。そして何の躊躇もはばかりもなく、とても恐ろしいことを言われた。彼女のメンタルにも驚かされるばかりだ。

 「では聞こうか、待ったらどうする?」

 そんなことを聞かなくたって何と答えるか分かっていることは分かっている。ただ、今までがそうであったように、これからだってこうする。マンネリでウンザリする行為の繰り返しが日常への一歩だ。

 「待てば、半殺す」

 語尾を上げたってちっともその残虐性を失わない。それが彼女。

 俺は今彼女に背を向けている状態でも分かる、彼女はきっと、それはそれはとても楽しそうに笑っている。まるで追いかけっこをする小学生のように、アルプスに住む少女のような笑顔。

 「ハハハ、あなたにそんな繊細な力加減の技術がどこにあるって言うのかな?」

 だから言う、俺は言う、彼女が怒りそうなことを。表情と心情の差があるのはとても怖いことだ。そのギャップは、現代風で言うなら全く萌えない、古典風に言うならゆめゆめこころときめかず。

 「ひどーい、私がガサツってこと? 傷ついたーもう許さない」

 何が傷ついただこんちくしょう。だったら俺はもはや回復の呪文を使っても治らないくらいズタズタのボロボロだ。不死鳥の尻尾を使ったって復活の呪文を唱えたって生き返すことはできないだろうよ。

 目の前には、後ろからおふざけのレベルを超越した速度で走ってくる俺たちを見てあっけにとられている生徒たちが数人、足を止めて頑張ってこの状況を理解しようとしている。そんなことは無理だ、あなた方が常識というがっちがちの型にはまっている限り、理解は無理だ。だからそんなところで立ち止まられても今の俺にはただの障害物でしかない。

 「はいはーいそこのけそこのけおバカが通るぞー関わりたくなかったら端によれー」

 その声に反応した人はさっと道を開けてくれた。それでもそこに居続けた人たちは……たぶん痛い目に合う。それは自業自得。俺は注意をした。ご愁傷様ってやつだ。

 その時、後ろの方でとても乱暴に扉を開ける音と、すばらしくよく響く声がした。

 「コラァッ! 誰だ廊下を走ってるのは!」

 その、誰をも震撼させる怒鳴り声の持ち主は恐怖のサッカー部顧問佐々木先生だ。一度もご教授賜ったことはないけれど、噂はかねがね耳にしている。なんでもその日その日のテンションによって授業の質が変わってしまうというなかなか困った方でいらっしゃるとか。他にも部活動での暴君ぶりは度を越しているらしく、そこの部員どもは密かに地下組織『SOTOZ』(S=ささき、O=おまえ、T=ただじゃ、O=おかねえ、Z=ぞ!)なるものを組織しているとかなんとか……聞いたような聞かなかったような。

 「小日向でーす」

 「おい何やってんだよ!? あなたも走ってるでしょうが!」

 「小日向が逃げるからだー」

 「あなたが追っかけてくるからでしょうが!」

 なんと、よりによって一番面倒になりたくない先生に……面倒だ、非常に面倒だ。あとで呼び出されたらどうしよう、怒られたらどうしよう、そんで親に連絡されたらどうしよう、せめてどうにか親に知らされることだけは避けないと……。

 はっは、明日の心配をしている暇はないだろ。明日は今日の積み重ね、今日なくして明日はない。そして今俺がしなくてはならないことは、この一日を精いっぱい乗り切ることだけだ。

 集中! 雑念を捨て走れ! 生きるんだ俺!

 一度短く息を吐いてから階段を一階から一年三組がある三階まで駆けのぼる。朝からこんなハードな運動にパンクしないようになった自分のハートにビックリだが、それについてくる彼女が俺の中で普通になっている自分にも今更ビックリだ。

階段の踊り場でヒュン、と俺の耳を何かがかすめた。奴の手だった。

 ――うひゃあ、すぐ後ろにいるじゃん。

 三階に着いたら右足だけで九十度回転し方向転換、速度を殺さないよう気を付ける。この『追いかけられっこ』によって体得した技。

 「……見えた!」

 目標確認、一年三組教室内まで推定距離約十二メートル。到着までの所要時間算出……到達まで約二秒。

 今日こそ行ける!

 別に教室に入ったからといって助かる保証はないけれど、なぜだろう、なんとかなりそうな気がする。なぜならそう、俺は何も悪くないからだ。天は我に味方する。

 ざまあ、今日こそはこのまま逃げ切――

 「はっ!?」

 そう、そうなのだ、勝利を確信したその時こそ、決して油断してはならないのだ。

 教室の扉は閉まっていた。

 この事を俺は完全に失念していた。大抵開いていることが多いとしても、いつも開いているわけではない。にもかかわらず、俺は、扉は開いているものだと勝手に思ってしまっていた。

 まあ今までは教室の前にたどり着く前に捕まることが多かったからってものあるが。

 もはやこの勢いを止め、扉を開けるまでの時間は残されてはいない。脳細胞がフル活動し、刹那の時の中であまたの解決策を考案しては棄却し、また考案しては棄却を繰り返した結果、想定外の状況からの脱却は不可能と判断。

 途端、俺の脚は走ることを忘れた。それはただの棒と化したのだった。

 「つーかーまーえっ――――――――たあっ!」

 背後でけたたましい足音と共に彼女が雄たけびにも似た声を上げた。

 続けてドンッ、と地面をける音。

 「……ここまでか」

 無念、いや、残念。俺はそうあたかも現実を拒絶するかのように、自分だけの、自分にだけ優しい世界に逃れるように、静かに目を閉じた。

 すぐ後ろでヒュッ、と何かが空を切る音がした。 

 次の瞬間、

 「ごはあっ!」

 彼女のこぶしが、背中にめり込んだ。

 初めに背中から背骨を砕くかのように、そして内臓を貫く衝撃が、そして徐々にその衝撃を追いかけるように激しい痛みが貫かれた一点から波紋のように身体全体に広がっていき、体が少し宙に浮いた。

 「かはっ!」

 外圧によって肺に溜まっていた空気が外に飛び出した。

 「はあっ!」

 そして彼女は、俺を貫いたそのこぶしを、力いっぱい振りぬいた。

 「ごはあぁぁっ!」

 そして俺は、空を飛び、地を転がった。

 勢いの乗ったいいパンチだ。もう俺は転がる体を全く止めることができず、そのまま壁にぶつかるまで転がり続けた。

 ぶつかって止まった後も、体はマヒして思うように動かない。ぴくぴくと小刻みなリズムを刻みながら痙攣している。

 「ふふふ、捕まえた」

 廊下に横たわる俺を、彼女は見下ろしながら笑う。その呼吸は全く乱れていない。板前さんに下ろされる直前のまな板の上の魚の気分は、まさにこんな感じだろう。

 「急、に、背中、を、殴っちゃ、だめ……」

 あれ、呼吸ってこんなに難しかったのか、息を吸うときも、吐くときも「コヒュー」って音がする。苦しくて起き上がれない。顔を上げるのがやっとだ。

 「気にしない」

 気にしてくれ、と口だけを動かす。声は出せなかった。

 「どうせもっとやることになるんだし」

 彼女は本当に、混じりっけ零の笑顔で、とても楽しそうに言った。俺にはその気持ちを理解できる日は一生来ないであろう。いや絶対に来ない。

 さて、そんなことよりこの状況打破を、保身を、ラブアンドピースを。これはもう体面とかメンツとか言ってる場合じゃない……言ってないけど、とにかくプライドも何もかもかなぐり捨ててでも謝ろう。

 日本式謝罪最上形態、土下座。

 「……今謝ったら半分にしてくれる?」

 しかし、素直に謝れない気難しいお年頃。

 俺だってそうホイホイ頭を地面にこすり付けるわけにはいかないんだ。

 「まさか」

 なんでそうなるの、と言いたげな表情だ。ちくしょう。

 「こんなに必死に頼んでるよ? 良心が痛むでしょ?」

 俺は訴えかけた、彼女にもしかしたら残っているかもしれないわずかな良心に。

 「まさか」

 またそう言って、彼女は腕をのばしたり回したり、足の筋をのばしたりと軽く準備運動を始めた。さっきのかけっこは準備運動にもならなかったってことなのか?

 「さあ小日向君は殴り殺されたいかな? それとも蹴り殺されたいかな?」

 どんな二者択一だ。結局死ぬその過程の差があまりにもなさすぎるだろ。

 「……どちらも嫌です」

 「ハッハー小日向君はバカなのかな? 二択が二択たる所以は選択肢が二択しかないからなんだよ? そんなバカな小日向君は特別に殴り半分蹴り半分で」

 本当に楽しそうに笑ってる。

 「自分だって二択から選んでないだろっ!」

 「…………」

 彼女が動きを止めた。墓穴を掘りやがったな。うまくいけばこのまま説き伏せられるかもしれな――

 「気にしない」

 「なっ」

 しまった。こいつは――

 「ここは他の生徒に迷惑だね。さ、いこっか」

 まごうこと無き真正純血のバカだった。

 彼女は俺の襟をつかむとそのまま引きずっていく。

 なんとか、なんとかしなくては。

 足を消火器にひっかけようと伸ばす、爪を立てる、俺は必死に抵抗する。

 しかし体は引きずられていく。

 周りに手を伸ばす。こちらを見ている生徒に手を伸ばす。

 誰もこの手を取ってはくれない。

 「いやだっ! やめろっ! はなせっ! おねが――」

 そこで突然彼女が急に手を放すから、俺は床に頭を廊下にその音が響き渡るくらいに打ち付けた。その衝撃は後頭部から脳内を直進しおでこを裏から殴るかのようだった。

 俺がその痛みに頭を抱え悶えたその時――鳩尾にあたりに鋭くとがった何かがめり込んでいた、今までにない痛みと不思議な感覚を伴って。

 いやそれはもはや「痛み」という感覚の限界点は一瞬で超えてしまった。途端、避けようがない眠気のようなものが襲ってきた。いや、違う、なんというか、連れて行かれる、という感覚。俺をつかんでいるなにかは底へ底へと躊躇なく引き入れていく。抵抗できない、いや、したくない。もういい、このまま、沈んでしまおう。

 「あ、ごめん、うるさいからつい。いやだ、こんなとこで寝ないでよ」

 徐々に遠くなる彼女の声、薄れゆく意識、動かない身体、うめき声すらもあげることはかなわない。こうなってしまった俺にできることはただ一つ――親愛なる先祖よ、今お前の子孫が忘れ物を届けに行くから首を洗って待ってろ!

 

     □


 「おい、大丈夫か?」

 「おい、大丈夫に見えるか?」

 ははは、とコガは実にさわやかに笑った。

 「まさか」

 「だよな」

 誰が運んでくれたのか分からないけど、気がつくと俺はいつの間にか自分の席に座っていた。そして手にはなぜか何かを殴ったような感触が残っている。記憶にない。

 ああ、呼吸をして胸が上下する度胸にほとばしるリズミカルな激痛が先程の映像をプレイバックさせる。

 「とどめを刺さなかったことを感謝してくれないんだ、蓮ショック~」

 後ろの席から実に忌々しい声がした。振り返ると実に憎々しい顔がそこにあった。

 「本当に殺せなくてありがとうございます」

 俺は努めて笑顔で答えた。

 「それ、褒めてるの?」

 はてさて、彼女はこの場面でどうして褒められるかもしれないという淡い幻想を抱いてしまったのか。ゆとり教育がもたらす弊害とは実に恐ろしい。

 「滅相もございません、ただ、古き良き時代の古き良き人間が作り上げた規律に心の底よりお礼申し上げているだけです。ああ、憲法万歳! 伊藤博文よ永遠に!」

 「人を殺しちゃけないってのは明治憲法からだっけコガ?」

 「はは、そこは軽く流しちゃっていいところだよ」

 さすがコガは物が分かってる。

 「ん~気に入らないな~」

 「何が?」

 「小日向が」

 それに引き換えこの方は何と物分かりが悪い、というか物が分からないのか。

 「頼むから日本にいる以上日本語でなおかつ意味の通るよう話してくれ」

 「殴られたいのかな?」

 「また暴力か、そんな暴力に頼った解決で万事オッケーな君のパッピーな思考に俺はついていけないよ。つーか少しは頭を使えば? あ、もちろんここでの『頭を使う』の意味は頭突き以外のことだけど、それは分かる?」

 「蹴られたいみたいだね」

 「ダメだこりゃ。おい誰か! 食べるだけでどんな言語も分かっちゃうあのこんにゃく買ってきてくれない?」

 その瞬間、天久さんが立ち上がり片足を上げて前蹴りのモーションに入ろうとした。すかさず両手を前に突き出してそれを止める。

 「おいおいもう十分だ。これ以上淡いピンクを見せつけるのはやめてくれ、夢にまで出てきそうだ。もちろん悪夢で」

 今現在でさえまぶたを閉じるとこみ上げてくるものが……もちろん胃から。

 「なあっ!? どしてっ!?」

 天久さんは上げた足を戻すと、スカートを手で抑えた。

 「背中を殴られ地面に横たわる僕をはるか頭上から見下し続けたり、突然鳩尾を寸分の狂いもなく蹴りやがるからです。自覚を持て自覚を、あなたの所作がどれだけ人のトラウマに繋がっていると思っているんですか」

 見ると、体が小刻みに震えている。そうなった彼女が次に起こすアクションが俺の愉快爽快につながったことは今まで一度たりともなかったことを俺は知っている。

 彼女は一度大きく息を吸い込み、吐き出した。

 「一点集中……」

 そう言いながら、右足と右手を後ろに引き、腰を落とす。

 「まてまてまてまて」

 「記憶、抹消突きっ!」

 「なんだそれ!」

 彼女の拳が空を切り俺の額に到達するその刹那、目の前を様々な情景が駆け巡った。あれは昔の家、あ、これはその後の家、あ、これは割と新しい家だ……家だけ?

 ゴンッ!

 「……消えた?」

 「消えるかっ!」

 はて、何かを懐かしいものを見ていた気がする。

 「だよね」

 「知ってるならなんでしたのですか?」

 「そこに小日向の頭があったからさ!」

 彼女はじゃんけんのグーから親指を上に突き出したボディランゲージというのだろうか、そんなものを俺の鼻すれすれに突き出して、笑っている。きっと遠い国の人なのだろう。悲しきかなカルチャーショック、俺には彼女が分からない。

 そんなやり取りを黙って見て笑っていたコガが、「そういえばさ」と思い出したように聞いてきた。

 「今度のは何だったの?」

 「小日向が悪い」

 即答だった。なぜそう人に指をさして自信満々に嘘を言えるのか。

 「っていう彼女の勝手な身勝手が引き起こした……ん? 勝手なんだから身勝手は当たり前なのか」

 「聞いてよコガ、小日向がね、私を辱めたの」

 そう言って天久さんは顔を両手で覆ってしまった、そうそれはあたかもセクハラ被害を告発する被害者女性のように。

 「秋光(あきみつ)……」

 「待て待て、誤解だ、何もしていない、ちゃんと説明する、だからコガはとりあえずその眼やめろ手に持ったケータイしまえお巡りさんに迷惑かけるな!」

 大丈夫ですか? あなたのモラル。

 「犯罪だよ?」

 何がだよ。

 「だから誤解だ」

 「何が誤解よ、私をあんな大勢の生徒がいる前で……」

 両手で覆われた向こうから、くぐもった声が聞こえた。

 こいつは俺に右グーの封印を開放させるつもりなのだろうか?

 いやいや、なんだかんだ俺ももう高校生、大人な態度で対応するのさ。

 「黙って家いや国に帰ってあわよくば一生そこから出てこないで清く正しく慎ましくその生涯を全うしてくれ」

 「じゃあ、秋光は何をやってしまったの?」

 コガは相変わらず冷たい目をしたままで聞いてきた。

 「俺は何もしちゃいない、この子が勝手にしでかしただけだ」

 時は遡り朝八時頃、場所は昇降口一年三組下駄箱前。

 「小日向」

 声をかけられ顔をあげるとそこには奇人変人天久さん。

 「あ、どうもおはようございます」

 「ちょっと待って」

 関わりたくないので足早にその場を後にしようとすると、なぜだか彼女は僕を呼び止める。すでに彼女を視界でとらえた瞬間より俺の中の警報パトランプは最大音量でウーウー鳴っているのだが、嫌々ながら振り返ってそのわけを聞いた。

 「何かご用でしょうか?」

 すると彼女は言った。

 「私と付き合って下さい」

 「お断りいたします。それじゃ」

 回れ右して再び歩み始める。

 「…………」

 無言で後に続く彼女。

 それに気付いてペースを速める俺。

 それに続いてペースを速める彼女。

 距離を開けようとする俺。

 距離を詰めようとする彼女。

 徐々に徐々にペースが上がっていって……。

 「まーてーやーゴラァッ!」

 「なんでこんな目に……」

 と、それからはまあ、大体いつも通り。

 「……というわけだ。全くいい迷惑だ」

 「ね? 小日向ったらひどいでしょ?」

 「だね」

 信じられないことに、こいつは天久さんの肩を持ちやがった。

 「あれれ? なぜそうなる? おっかしいな~説明の仕方が不十分だったかな? 分かりづらかったかな? 届けこの想い」

 「いや、これは秋光が悪いよ、いくらなんでも天久さんに失礼だよ」

 「そうだそうだ」

 コガのやつ、この状況を楽しんでいやがるな。あ、なんと憎たらしいことか。 

 「じゃあ、小日向はもう付き合うしかないね」

 「なんでそうなる、頼むから帰れ」

 「来たばっかだからまだ帰らないよ」

 来たばかりだからいるっていう理屈もどうなのだろうか。

 「しかし天久さんも健気だね~これで何度目よ?」

 コガは指を折りながら思い出している。だがな、コガ、それじゃ足の指を使ったって足りないぞ。

 「さあ? 昔のことは気にしない!」

 「気にしてくれ、そして省みて己の軽率な行動を恥じてくれ。そうじゃないとこの生活に終止符が打たれない」

 「終止符なら簡単に打てるよ」

 天久さんはとびっきりの笑顔をこちらに向けている。大体答えは分かっているけども、聞いてやろうじゃありませんか。

 「私を好きになればいいんだよ」

 うん、やっぱり聞かなかったこととする。


     □

 

 お昼休み、それは学校と言う名をした監獄に捕えられ勉学という極刑に甘んじるしかない僕らに与えられるほんのわずかな安らぎ。

 こいつさえいなければ。

 「自分の席に戻って食べてください」

 「あ、コガ、それとミニトマト交換しない?」

 「ん? いいよ」

 無視しやがった。

 「食べづらいんで自分の席に戻ってください」

 「うるさいなーほらこれあげるから」

 彼女が持ったフォークの先には食べかけのミートボールが刺さっている。

 「ばっち」

 「あ?」

 笑顔が一変、怒顔になった。なんでそんな威圧的なんだよ。

 「だって、それあなたの食べかけじゃないですか」

 「え? 何? いまどき間接キスがどうとか言ってんの? やっだ~小日向ったら」

 「ちっちゃいね、秋光」

 コガまで調子に乗りやがって。

 「ほら? どうすんの? 食べるの? それともシャイなハートを貫くの?」

 なんとでも言え。

 「とにかくいらない。自分の机にさっさと戻れ」

 「つまんないなあ……食えっ!」

 ただ食わせたいだけじゃねーか。

 天久さんは左手で俺の右腕を完全に抑え込んで、右手に持ったミートボール(食べかけ)の刺さったフォークをものすごい力で俺の口にねじ込もうとしている。かろうじて左手で抵抗はしているが、もはや時間の問題だ。

 「もっ、ちょっ、ほんとやめて下さい」

 「食え食え食え食え」

 ミートボールが最終防衛ラインであるところの口に辿り付いてしまった。

 「秋光、観念して食べなよ。じゃないとたぶん諦めてくれないよ。それに、パンばっかじゃ栄養偏っちゃうしさ」

 「そうだそうだ」

 「…………」

 一瞬の油断、その瞬間に彼女はミートボールを力いっぱいねじ込んできた。

 「キャッ、間接キスしちゃった」

 「おめでとう秋光」

 「信じられない……どういう教育を受けてきたんですか」

 「え? じゃあお母さんの教え通りにやっちゃって良かったの? さっすがにそれは私でも憚られたけど……小日向がそういうなら……」

 「勘弁して下さい」

 それは確実にやばい。

 「天久さんの上を行くのか……僕には想像できないな」

 想像すんな。

 「大胆だよ~」

 想像させんな。

 「ところで、いつも気になってたんだけど、秋光は毎日朝昼晩のご飯は買って食べてるの?」

 「まさか、そんなことしたらうちのエンゲル係数は俺一人で一般家庭並みだぞ。晩飯は作って、朝はその残りものだな。昼だけは面倒だから買ってる」

 「ねぇ、小日向……」

 もじもじしながら眼をきょろきょろさせている彼女を見ると、何やら嫌な予感がしてきた。これは今までの経験から言って、確実に外れることはないだろう。

 「何でしょうか?」

 「その……もしよかったらなんだけど」

 「じゃあ結構です」

 転ぶ前に杖を持つことの大切さを彼女は教えてくれる。

 「私がさ、お弁当作ってあげようか?」

 「あれ? ごめん今結構だって言ったよね?」

 「いいね、そうしなよ秋光。そうすればエンゲル係数なんて気にしなくて済むじゃん」

 「コガくんも無視するの?」

 「コガもそう思う?」

 「うん!」

 俺と天久さん、二人からの同時の質問にこいつはその一言しか答えなかった。

 二人の世界にはどうやら俺という登場人物は介入する余地がないらしいが、よく考えてほしい、これって俺のお話だよね?

 「良かった!」

 「良くねーよ話聞けよ」

 「じゃあ早速明日から作ってくるね! 楽しみでしょ?」

 「うわ~うっらやましいな~」

 まずい、これじゃホントに作って来やがるぞ。ここは彼女のためにも本当のことを伝えるべきだろう。

 「そんなものより、俺は購買のパンのほうが断然良いんだ。余計なことはするな」

 その時、あまりにも静かになったもんだから、俺は自分の鼓膜が破れてしまったのではないかと錯覚してしまった。

 「……え~ん」

 そして、この静寂を打ち破ったのは彼女だった。

 「それはひどいよ秋光」

 コガは信じられない、と言う顔をしている。

 この状況を、あくまで彼女たちの目線になってとらえてみると、あら不思議、どうやらすっかり悪者みたいになってしまっている。だが、俺の意思をかえりみないお前たちははたしてこの俺とどう違うのだろうか。

 「え~ん」

 天久さんはまだ続けている。まあなんと白々しい。殴ってやろうか。

 「謝りなよ秋光」

 頭の高さまで振り上げられた左手がそのまま空中で止まった。それは、コガからの全く予想していなかったまさかの提案だった。

 「おい……ウソだろ? なあ? 俺が悪いのか? 違うだろ? 違うと言ってくれ」

 俺はコガの肩を揺らしながら必死に懇願した。しかしコガはそんな俺には目をくれず、周りを見渡して言った。

 「じゃないとクラスのみんなの印象最悪だよ」

 気がつくとクラスの十分の九、五十四とプラス一個の目がこちらを向いている……視線が鋭く突き刺さり、痛い。や、やめろ、俺をそんな目で見るな。悪いのは俺じゃ……てゆーか何で話聞いてんだよ見せもんじゃねぇぞ!

 「え~ん」

 天久さんの一言に、視線の鋭さは五割増。

 「え~ん」

 まさに針のむしろってやつ?

 「……ごめんなさい僕が悪かったです!」

 不条理だ、この世に正義なんてない。

 「じゃ、じゃあ、ヒック、お弁当、ヒック、作って、きて、ヒック、良い?」

 ち……ちくしょう。

 「……良いですよ」

 「はい? 『良いですよ』?」

 こいつ……。

 「……お願いします」

 「あ、あと、これから毎日お昼一緒に食べて良い?」

 「それはお断りし――」

 より鋭く、俺をえぐる視線たち。

 「……お願いします」

 「じゃあ、私と付き合ってくれる?」

 「はいドーン」

 空手チョップ!

 「いったあ、本気でぶったなあ」

 当然だ。

 「いい加減にしろ、仏の顔も三度まで」

 「まだ二つじゃん」

 「あいにく僕は仏ではないので」

 こんな仕打ちを三度も容認できるとは、やはり仏様とは寛大な御方だ。

 「さすが秋光だな~一切の躊躇もなく女の子の脳天かち割っちゃうなんて」

 「まあな」

 「コガは別に褒めてるわけじゃないと思うよ」

 「そこは個人の主観の問題です」

 すると、教室に次の授業が始まったことを知らせるチャイムが鳴り響いた。いつの間にか昼休みは終わっていた。だがしかし俺の昼飯はほとんど終わっていない。焼きそばパンはまだ半分以上残っている。

 「ほら誰かさんの茶番に付き合っていたせいで僕はこの焼きそばパンを味わうことなく腹の中に押し込まなくてはならなくなってしまったではありませんか」

 「なら手伝ってあげる」

 そう言うと彼女は俺の机の上にあるや焼きそばパンをひょいっと掴んでパクッと――

 「あ……食ったな……食いやがったなあ!」

 「僕も」

 「良いよ」

 「しかも勝手に回してんじゃねぇぇぇ!」

 「うるさいなー、そーゆーとこがちっさい」

 「確かに」

 カッチーンと来ちゃったよ。

 「どうやら天久さんは一発じゃ分からなかったみたいだね」

 ゴメン長谷川、お前との約束を、俺は破ってこの右腕を使ってしまう。でも許してくれ、ここでやらなかったら、俺は――

 今この時こそがこの幻の右を使う時なんだ!

 「キャー、先生小日向くんがー」

 な、なんだと!

 振り返るとそこには我らの敬愛すべき担任がたたずんでいた。その口元に浮かぶ笑顔が、明らかに悪いことを考えていることを示唆している。

 「い、いつのまに」

 「あららら~いけないな~それはいけないな~今日の放課後、残ってろよ」 

 「そんな! 先生! 僕にそんな時間はありません!」

 「あららら~秋光くんは先生に意見するのかな? いいのかな?」

 「それは職権乱用による脅迫ですか先生!」

 「そうだ。お前の成績は私が握っていることを忘れるなよ」

 「なんて人だ……じゃあ先生が僕の代わりにタイムセールに行ってくれるって言うんですか? 僕んちの家計は火の車なんですよ!」

 先生は教卓の前に立つと静かに言った。

 「秋光」

 「何ですか?」

 「ここはどこだ?」

 「学校です」

 「お前の家か?」

 「そんなわけないじゃないですか」

 「俺は誰だ?」

 「先生です」

 「お前のお父さんか?」

 「そんなわけないじゃないですか」

 「なら、お前の家計に配慮する必要はないな」

 「な、なんて屁理屈だ……しかし、悔しいが言い返せない」

 大人はみんなズルイやい。

 「分かったら返事は?」

 「はーげ」

 「何だって?」

 「はーい」

 「じゃあ早く席につけ」

 「へいへー……」

 俯いて見えたそこに、焼きそばパンの姿はなかった。

 「あ、これ」

 天久さんは抜け殻のビニール袋を机の上に放り投げた。

 「捨てといてね」

 湧き上がるどす黒い感情。父さん母さん妹よ、次に会うのは本物の塀の内かもしれません。


     □


 放課後、それは毎日約六時間という長い長い刑期を終えた者たちがいとしい我が家に帰ることを許された瞬間。なのになぜ俺が未だその呪縛から解放されないのかと刹那的に逡巡してみれば、数多あるかもしれないそれら原因がすっかり丸ごとごっそり天久連という人物に直結すると言う解に容易にたどり着くのだ。やつはおそらく俺の祖先が契約した悪魔と何らかの関係を持つ存在なのではないかと不意に思ったら、案外正鵠を射ているような気がした。

 「ほら、まだ掃除当番とか決めてなかったろ?」

 教卓にある先生用の机に腰掛け、顔と体を窓のほうに向けながら先生は話し始めた。

 「そうですねー」

 「今はその場で人を決めてやってるだろ?」

 「そうですねー」

 「でもそろそろ当番を決めてもいい頃合いだろ?」

 「そうですねー」

 「でも当番を決めている間、掃除できないだろ?」

 「そうですねー」

 「だから、それまで掃除してくれ」

 「そうですかー……え? それまで?」

 俺は耳を疑った。

 「そう、それまで」

 「今日まで?」

 「それまで」

 「明日まで?」

 「それまで」

 「いつまで?」

 「それまで」

 俺の耳は正常に機能していた。

 「勘弁して下さいよ先生! こっちは生活がかかってるんですよ!」

 「そっちは何とかするから心配すんな」

 「何とかって……ホントに大丈夫なんですか?」

 「…………」

 「ヘイヘイヘイ!」

 「分かった分かった、なるべく早く決めるから」

 と、ひじょーにめんどくさそーに俺をなだめている。これではまるで俺が駄々をこねている子供みたいじゃないか?

 「いつですか?」

 「五日です」

 「くだらない冗談はやめて下さい」

 「くだらない冗談を言わせるな。じゃあよろしく。職員室にいるから終わったら一声かけてくれ、仕上がりを見るから」

 そう言い残して先生が去った教室の床に、俺は崩れ落ちた。

 「食費が……、仕送り増やして、なんて言えねーよなあ」

 そんなこと言ったら……あな恐ろし。

 「そもそもその道何十年の熟練専業主婦が家族一人にかかる食費並みの金額で高校生が一人暮らしなんてシビア過ぎるだろ! 何が悲しくてこの歳でタイムセールの特売品をおばさんと取り合わなくちゃならねーんだよ!」

 ………返事はない、無人のようだ。ちくしょう、目から無色透明の血が流れ出しそうになる。

 「……やるか」

 もしかしたら間に合うかもしれない、いつだって希望を捨てちゃダメだ。

 そして掃除を始めた俺は、やればやるほど出てくるゴミたちに半ば狂乱状態になりながらせっせと床の掃き掃除から床の乾拭き水拭き、机の水拭き、黒板消しの粉落としなどを律儀にこなしてしまった。

 そして気がつけば外は真っ暗、現在大体六時。

 「なんてこったい」

 つまり三時間以上掃除してたってことか。知らなかった、俺こんなに掃除好きだったのか。

 「はあ……帰ろ」

 そういえば帰る前に先生を呼びに来いと言っていたな。俺は職員室に向かった。まあなんとなく分かってはいたが、職員室に先生の姿はなかった。

 「あ、掃除してた子?」

 本来なら俺を待っているはずの先生が座っている席の、隣の席に座っていた先生が俺に気がつくと話しかけてきた。

「はい」

 「君のところの先生から伝言預かってるよ」

 「え?」

 「ごめん先帰る、だって」

 「…………」

 もはや怒りはわいてこない。きっと先生はすごい勢いで俺を大人にしてくれている。

 すっかり暗くなって、ほとんど生徒がいなくなった校舎を通り、部活動の活気がうせた校庭を横目に校門を出る。一人家路につく俺の背中は一体何を語っているだろうか。

 

     □


 夜、我が家(仮)の中。

 「ねぇ! 嫌いな野菜ってある?」

 「……ありません」

 「ねぇ! 福神づけは?」

 「……ありません」

 「じゃあらっきょうは?」

 「……ありません」

 「じゃあ代わりに私の愛情を一杯入れとくね?」

 「いらねーよ!」

 「ゲロゲロゲロ~」

 「おいおい愛を何と履き違えてんだっ!?」

 「愛って、きっと素敵なものの混ざり合いだよね?」

 「少なくともてめえの昼飯と胃酸のハイブリッドではねえよ!」

 「もう、照れちゃって」

 誰か助けてー。

 遡ること数十分前。夜、我が家(仮)の前。

 精神的にも身体的にも疲れを感じながら帰宅した俺を待っていたのは、何でも言うことを聞いてくれる優しいメイドさんでもなければ、何かと世話焼きな幼馴染でも面倒見の良い大家(若い未亡人)でもなかった。どうやら俺にはマンガの主人公になれる器はないことが分かった。だがしかし、悲劇のヒーローは割と相性がいいのかもしれない。

 「なぜだ、なぜだなぜだ」

 テンパった俺はそんなことしか言えなかった。

 「なぜって?」

 「なぜ、ここにいる?」

 天久さんが、という主語すらも忘れてしまうくらいテンパっていた。

 「それはね、先生が健気に掃除している小日向の代わりに買い物に行ってあげてくれないかって私に頼んだからだよ」

 明らかな人選ミス!

 「どうしてだ」

 「どうしてって?」

 「どうして家の場所を知っている?」

 「それはね、先生がもし時間があるならそれを小日向の家まで届けてくれって言うから教えてもらったんだよ」

 俺の個人情報!

 「聞いてないぞ」

 「言ってないもん」

 ……なるほどね。そういうことね。屁理屈ね!

 「はいこれ、ちゃんと安くなってるのを買っといたよ」

 そういうと天久さんはさっきから持っていたらしい(テンパっていて気が付かなかった)ビニール袋を俺に手渡した。

 「あ、ありがと」

 スーパーの袋には多種多様な商品と一緒にレシートが入っていた。記載されている金額を見ると……確かにどれも安い、なかなか上出来だ。これで食費も浮いたし、手段はどうであれ結果オーライ。

 「…………」

 「…………」

 で、終わらせてくれよ。頼むからそんな何かを期待している笑顔をひっこめて帰ってくれ。

 「わざわざ悪かったね、助かったよ。それじゃ、もう暗いし、気を付けて――もちろん、襲ってきた相手には手加減してねって意味だからね?」

 でも俺はそんなことを微塵も感じさせない笑顔で手を振った。

 「え?」

 そら来た。彼女は「何それどういう冗談よく分からないんですけど死す死す死す」という意味を込めた一言を放った。

 「まだ何か?」

 「わざわざ買って来たんだよ?」

 「うん、だからありがとうございました」

 「結構待ったんだよ?」

 「置いてってくれてもよかったのに」

 「もう、くたくた」

 「俺も、くたくた」

 「晩御飯、まだ食べてないよ?」

 「そうか、そりゃまずい、ますます早く帰らなきゃ、だね」

 「…………」

 じとー、とした目で俺を見ている。

 「あっ!? お金か。いくら? 誰に返せばいいの?」

 カバンに手を突っ込んで財布を探した。

 「お家入れて?」

 「嫌です」

 「お家に入れて」

 「嫌です」

 「お家――」

 「イ・ヤ・で・す!」

 やっぱこうなった。そりゃそうだ、そうでしょうとも。だがしかし! こればっかりはダメだ、この秘密がばれてしまったら……考えるだけでも恐ろしい。何としても隠し通さなければ。

 「ご飯作ってあげるよ?」

 「結構です」

 「一人暮しなんでしょ?」

 はいもうバレてました~。しかし、なぜ図星を突かれた時って罪悪感みたいなものを感じるのだろうか? 別に俺は悪くないじゃない? なんか理不尽。

 「……それをどこで?」

 「先生」

 先生、俺のプライバシーって考えたこと無いんですか? てゆーか自分の立場考えてーそれはいたいけな高校生をいたぶるために与えられた権利じゃないよー。

 「……今は、ちょうどまさしくばったりたまたま母親が来てるんで」

 なんて機転がきくんだろう、俺。自分で自分が怖くなっちゃうぜ。

 「う・そ・つ・き」

 一言一言を区切りながら、上目使いに俺を見る。ふん、カマをかけようたってそうはいかないぜ。平常心平常心。

 「なんでそう思うの?」

 「隣のおばさんはそんなこと言ってなかったよ」

 原田さーん。

 「小日向の個人情報って自動販売機で缶ジュース買うぐらい手軽に入手できるよね。あ、タダで手に入るんだからそれ以下か」

 むしろそこまで無価値なら個人情報を悪用される心配はないな、なんてポジティブシンキングで現実逃避。

 「いいでしょ? 入れて」

 「何がどこでどんな違法な遺伝子組み換えと突然変異をしたってそうならないよ。どうぞお帰り下さい」

 すると、天久さんはまさに不敵な、という表現がピッタリな笑い方をしながらまた上目使いで俺を見た。

 「いいの? そんなこと言って」

 にやにやにやにや笑いやがってこの野郎。

 こいつはなぜ一度退くということを知らないのだろうか。今日はもう十分付き合ったでしょ。多くを望むな。ガンガン行こうだけだとすぐに全滅なんだよ。命を大事に!

 「どうするつもりですか?」

 「ここで、泣く」

 ……なんだと? うろたえる俺を見てますます口角を上げる天久さん。

 「いいの? 泣いても? そしたらお隣さんたちはなんて思うんだろ~ねぇ~もしかしたらここには居づらくなっちゃうかもねぇ~」

 脳裏に甦るお昼の光景。

 どうする? ここで泣かれたら、本当にタダじゃすまないぞ。せっかく今まで築き上げてきた「あそこの坊ちゃんは、高校生なのに一人暮らしで、家事も全部こなしているんですってよ、なんて聡明な子なんでしょうね」的なイメージがガラガラと崩壊決定だ……あったらだけど。でも、たとえ万が一にもそんなイメージが無いと言っても、やはりリスクがデカすぎる。最悪……母親にも伝わりかねない。確かここの大家に実家の電話番号を教えてあるから防ぎようがない。でもだからと言って、ここで彼女を上げることも、それなりにリスキーなのでは? そうだ、そうだよ。一つの家に高校生の男女が二人きりでいるなんて、俺がまさか彼女に手を出すなんて暴挙に出ないことは断言できるが、それを見たご近所さんは、きっと想像たくましくあらぬことまで言い出しかねない。むしろそっちの方が大問題じゃねーか。だがしかし、それは何と隠し通せるかも知らないが、もし今ここで泣かれたら――

 「……え~ん」

 「ようこそいらっしゃいました」

 「ふふ、ありがと」

 この……もう嫌。

  

     □


 そしてずかずかと我が家(仮)に入るなり「カレー作ってあげる!」と言い、そそくさと俺からビニール袋を剥ぎ取り料理を始めてしまった天久さん、なぜエプロンがカバンから出てきたのかには言及しないとして、はてさて、彼女が買ってきたものの中に野菜はあっても、確かルーはなかった。確かに大抵どこの家にもルーは置いてあるだろうが……果たしてこれは偶然の産物なのだろうか、はたまた彼女はここにルーがあることを知っていたという必然の結果なのか、真意を聞くためには、俺は少し臆病すぎた。

 「出ぇ~来たぁ~!」

 無駄に叫ぶそのテンションは正直うっとうしい。これではお隣さんに聞こえてしまうではないか。そういう配慮というか、慎みを持ってほしいと思うのは俺のわがままか?

 天久さんはご飯にカレーをよそったお皿を台所から持ってきてテーブルに置いた。さてどんな劇物が出てくるやら。

 「あ、あれ? 普通の……カレーだ」

 こ、これは、天久さんからは想像もできない。どの角度から色眼鏡なしに見ても普通のカレー。恐ろしくすさまじいギャップだな。

 「さ、食べて。味には自信があるから」

 まあこの見た目からしてまずいってことはないだろう、まずは一口。

 「おぉ、うまい」

 意外だ。神が与えたもうた奇跡。

 「でしょでしょ」

 「なんだかよく分からないけど、他のカレーとはまた違った美味しさがある気がする。なんて言うのかな、深みってやつ??」

 「でしょでしょでしょ!」

 「すごいね、何が入ってるの?」

 「私のLOVE」

 ゴミ箱を引き寄せると顔を突っ込んだ。

 「おぇ」

 コンッ、となかなか小気味のいい音と共に側頭部に衝撃が走った。そこをさすった手から少しカレーの香りがする。どうやら彼女はカレーをよそったお玉で殴ったらしい。案外痛い。ただ、ちゃんとゆすいだお玉であったのが幸いだ。頭にべっちょりカレーがついた日には……って、まさか、こうなることを見越してゆすいでおいたのか?

 「一ナノグラムもこぼさず全て食え」

 「ほんの冗談ですよ」

 「でも今本当に吐き出そうとしたよね?」

 「…………」

 もう一度同じところに、今度はさっきより激しい衝撃が走った。おそらく今彼女の背中に隠れてしまっているお玉はひしゃげてしまっているだろう。

 「そこは嘘でも冗談ですって言いなさい」

 ああ、正直者には生きにくい世の中だ。

 だがしかし、食事の最中の天久さんからの視線を除けばなかなか充実した食事だった。それに人の手作りなんて久々に食べた。そこはまあ、感謝したいと思う。

 「ごちそうさまでした」

 「お粗末さまでした」

 すると天久さんは俺のお皿を持って台所に行って、片づけを始めた――あれ? さっきお腹すいたって言ってたのに自分は食べないのかな?

 「じゃあもう気は済んだでしょ? 帰りましょうか?」

 すると、天久さんはこちらに振り返った。首を傾げている。

 「え? 何言ってるの? これからでしょ?」

 ……は?

 「ねぇ、なんだか体の奥から熱くなってこない?」

 ……え?

 「さっきさ、カレーに何が入ってるか知りたいって言ってたよね?」

 おいおい、なんだよそのいかにも悪いことが成功した時に出てきそうな悪魔的笑みは、ここは別に笑いが必要なとこじゃないよ。

 「……何を入れた?」

 「フフ、全部食べちゃったね」

 こ、こいつ、盛りやがった!

 いや、まだだ、まだ完全に消化されるには時間があるはず。今すぐに胃の中から取り除けば何とかなるかもしれない。確か指を喉の奥に突っ込めば――

 「冗談だよ」

 「ふあ?」

 「やだな~ほんとにそんなことすると思ったの?」

 思ったよ思ったさ思うとも、なんせあなただからな。

 「さっき吐き出そうとしたから、お返し」

 「じゃあ、さっきお玉で殴ったのは何なんですか?」

 「え? なんのこと?」

 稲妻チョップ。

 「いった~」

 「これでおあいこです」

 「なんか腑に落ちないな~」

 「どこがですか?」

 「小日向らしくないからかな?」

 と、言うと思いました。

 「はいはいすいません。さ、どうぞそそくさとお帰り下さい」

 半ば追い出す形で強引に帰り支度をさせた。意外なことに、彼女はすんなり言うことを聞いた。いつもこれぐらい聞きわけがいいなら、俺はどれだけ嬉しいことか。

 「それじゃ、お邪魔しました」

 天久さんが家を出た。そのまま鍵を閉めてしまおうかと思ったけど、さすがに相手が天久さんでも一応それなりに礼儀は払うべきなのだろう、玄関の外まで行って見送ることにした。

 「じゃあまた」

 彼女の背中に言った。すると彼女はくるっとこちらを向いた。

 「え? 送ってくれるんでしょ?」

 驚きなのが、彼女はとても意外そうに言うのだ。当然でしょ、と言わんばかりに。

 「まさかこんな時間に女の子を一人で帰らしたりなんかしないよね?」

 「へぇ、まさかこんな日本の片隅にあなたを女の子として認知してくれるような度量を持つ人間がいらっしゃるなんて思ってもみませんでした。天文学的数字の確率で発生したハプニングもとい奇跡ですね。もらってもらいましょうよ」

 「送ってくれないなら別にここに泊るけど……私はむしろそっちの方がいいかも」

 いいかも、と言った瞬間に、彼女は開いていた扉に手をかけた。それも驚くべき力で、びくともしない。多少はその力と格闘したが、彼女が空いた方の手でアイアンクローを決めてきたところで、降参した。

 「送らせていただきます」

 「なんだー、残念。じゃあお泊まりはまた今度ね」

 ふざけんな。

 そして否応なく天久さんの家に送ることになってしまったわけだが、人気のなくなった夜道を天久さんと二人っきり、胸はドキドキハイテンション。間違いない、きっとこれが恐怖なんだ。

 「あの……」

 「ん? なに?」

 二人はなぜか、縦に並んでいます。

 「……前歩いてくれない?」

 「どうして?」

 あなたが後ろにいて今まで楽しかった記憶がないから。

 「……落ち着かない」

 「じゃあダメ」

 「せめて横に」

 「手をつないでくれる?」

 それはあんた「死ぬ? それとも殺される?」って聞いてるようなもんですって。

 「お断りです」

 「ならダメ」

 「てゆーか、なんで後ろ歩くの?」

 「だって、こっちの方が五感フル稼働で私の存在を感じてくれるでしょ?」

 「怖すぎだよ!」

 「ウフフ、小日向のすべては今私に向いている……キャ」

 「ひぃ!」

 思わず飛びのいた。振り返ると天久さんは電灯に照らされた場所で肩を揺らしながら笑っている。

 「本当に何なんですか……そんなに僕のことが嫌いですか?」

 「何言ってんの。こんなに小日向のことが好きなんだよ?」

 「ああはいそうですか」

 「その証拠に小日向以外には殴ったり蹴ったりしてないでしょ?」

 なんとありがた迷惑な優遇だ。もしそれで俺が喜ぶ性癖者ならご褒美かもしれないが、残念ながら俺はそんな気はない。

 「つまり、天久さんが興味がなくなるまでこの理不尽な仕打ちは続くってことですか?」

 「ううん、違うよ。小日向が私に振り向くまで続くんだよ」

 「じゃあ、一生終わらないのか」

 「なに?」

 「何でもないです」

 「…………」

 途端に彼女は静かになった……まさか!? 仕掛けてくる気か?

 だがしかし、そう何度も同じ手にかかると思うなよ。感覚を研ぎ澄ませるんだ……昔どこかの村に千里眼なる常人離れした能力を有したものがいたと聞く。ならば俺にだって何かしらの能力がこの瞬間に開花しても不思議は――いや待て、もしそんなものが俺にあるとしたら、俺は普通じゃない……つまり、天久さんと同類ということになるのか? ダメだ! それだけは何としてもダメだ! じゃあどうする? どうするんだ俺? どこだ俺のライフカ――。 

 「えいっ!」

 「いっ、て、え? ……何やってんすか?」

 「何って、おんぶ知らないの?」

 「残念ながら僕が聞いているのはなぜおんぶをさせられているのかです」

 「してほしいからに決まってるじゃん」

 「僕はしたくないんですけど」

 「ちょっとだけだからー」

 言葉だけ聞けば可愛く駄々をこねているようにとらえられなくはない。おそらく周りからみてもそうだろう。だがしかし、本当のところは俺の首にまわされた腕がちゃっかり頸動脈を徐々に抑え込んでいるのだが、これは当人にしか分からない。

 「……ちょっとだけだよ」

 「ふふ、ありがと」

 そんなこと言って、絶対降りないんだろうな……分かっているのに許してしまう俺はいつか誰かに褒めてもらえるだろうか。

 「ね」

 「なんですか?」

 「なんか恋人同士みたいだね」

 「今すぐ降りろ!」

 「冗談だって~もう照れちゃって」

 頬をつつくな。

 「激しく嫌悪しているのが分からないんですか?」

 「イヤよイヤよも好きのうちってね」

 どんだけ自分勝手な解釈だよ。

 「はた迷惑な誤解ですね」

 「またまた、ホントはどうなの? こんなかわいい女の子おんぶしてるんだよ? 興奮してきた?」

 「理想と現実の違いを痛感しています」

 「……どゆこと?」

 「いやね、僕だって女の子を抱っこする妄想をしたことがないわけじゃないですが、まさかこんなにしんど――」

 言い終わる直前、後頭部に何か鈍い音がして、目の前の暗闇の中にはいくつか小さな星が飛んだ。

 「今度は頭突きかよ……」

 「女の子に重いって言うからだよ」

 「言ってないでしょ」

 「でもそれを連想させるようなことを言ったでしょ?」

 「…………」

 また星が飛んだ。

 「そこは嘘でも否定しなさいよ」

 正直者が安心して暮らせる場所はこの世界にはもうないのだろうか。

 「……やっぱ嘘つかないで」

 どっちだよ。

 「小日向は今のままじゃなきゃダメ」

 「じゃあ、これからも天久さんのお誘いは断り続けて良いってことか」

 「……そこは変わろう」

 勝手だなおい。

 「ねぇ、それはいつまで続くんですか?」

 「言ったでしょ? 小日向が私に振り向くまで続くんだよ」

 「そんなこと一生無いって」

 あ、やべ、これは聞こえた。

 また殴られる――

 なんて俺の予想に反して、まことに意外にも彼女は殴ってこなかった、もちろん蹴りも頭突きもなし。まるでそう俺が言うことを予測していたかのような落ち着き具合。いつもそうであってほしいものだ。

 なんて思っていた矢先、彼女は口を開いた。

 「そしたら、来世に持ち越しかな」

 彼女は輪廻転生する気でした。

 「もはや呪いだね」

 「それはもうしてる」

 「してんのかよ!?」

 「してるよ~」

 「それは……一体どんな?」

 「私以外の女の子の事を考えるとね、悪夢にうなされるようになる呪い」

 そんなもんか、心配して損した。

 「あ、今、そんなもんかって思ったでしょ?」

 読心術まで体得しているのか。

 「ハイ思いました」

 すると彼女は実にわざとらしい笑い声を上げて言った。

 「それだけだと思うなよ」

 まだあんのかよ。この人は人を呪わば穴二つということわざがこの国にあることを知らないのだろうか。たいていどんなお話でも呪いを実行したやつがハッピーなエンディングを迎えることがないことを、彼女には教えるべきだろう。

 「でも、小日向には教えてあげなーい」

 「なんで?」

 「いったら私が呪われちゃうかもしれないからね。ほら、牛の刻参りってやつは呪いの儀式をしている時誰かに見られちゃうと、その呪いが自分に降りかかって来ちゃうって言うじゃん?」

 「それはそれは、賢明で聡明な判断だね」

 ……いや待て、つまるところそれは彼女が牛の刻参り的呪術を施術したことを指しているのではなかろうか? 

 「……ところでさ、一つ聞いてもいいかな」

 「何でもどうぞ。ちなみに愛しているのはあ・な・た・だ・け」

 何でも突っ込むと思うなよ。

 「もし僕に、天久さんではない彼女ができたらどうするつもりですか?」

 「んー、その時はもう何の躊躇も遠慮も配慮もなく最終手段だね」

 なんだか少し考えるような素振りこそしたけれど、実はとっくに答えは決まっていたような言い方だ。

 「あの……最終手段って?」

 「要すれば」

 「要すれば?」

 彼女は俺の肩に自分の顎を置くと、耳もとに口を近づけ、優しく囁くように、明るく楽しそうな声で言った。


 「あなたを殺して、私も死ぬの」


 「……え?」

 「ビビった?」

 俺の様子を見て後ろでケラケラと笑っている。きっと戦慄っていうのはこういうことを言うんだろうな。ちびるかと思った。

 その後は取り立てて会話もなく、俺はいつ背中にやってくるか分からない恐怖におびえること数分で天久邸到着した。

 「送ってくれてありがと。せっかくだからちょっと上がってく? たぶんお母さんも会いたがってると思うよ。この前一回来たっきりだからね」

 「いや、もう遅いんで帰らせてもらいます」

 「そう、ならいいけど」

 「じゃあお休みなさい」

 回れ右して帰ろうとしたその時、呼び止められた。

 「小日向」

 「……何ですか?」

 「また明日ね」

 彼女は笑ってそう言うと、玄関の扉を開け中に入って行ってしまった。

 「……うん、それじゃ」

 もちろん誰もいないんだから何も返事は帰ってこなかった。

 はあ、それにしても今日もいろいろ疲れたな、早く帰って寝よ。五月と言ってもまだ夜は少し肌寒い。

 「今日は冷えるな~」

 明日からは待ってましたのゴールデンウィーク。どんなことをして過ごそうか、帰りながら考えるとしますか。


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