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騎士の証  作者: 鷹峰
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中篇 美しき公爵夫人

 翌朝。身支度をして部屋を出ると、あの美しい婦人が出迎えてくれた。

「おはようございます、クリフォード様。

 昨夜はよく眠れましたか?」

「え、ええ……まあ」

 答える青年の目には、くまができている。彼女はそれを知ってか知らずか、食卓へ手を指し示し、こう言った。

「朝食の支度ができております。どうぞ」

 見れば既に、食卓には香ばしいパンや香茶が並んでいる。クリフォードは感激しながらも、申し訳なさそうに頭を下げる。

「私のような者の為に、何もあなたがそのようなことをされずとも……

 宜しければ、次からは私もお手伝いします」

「いいえ、ご心配なさらずとも大丈夫です。料理をするのは好きですから」

 しかし――と食い下がろうとするが、勝手な真似をするわけにもいかない。そもそも、彼に料理の心得があったわけではない。素直に相手の言葉に甘えるしかなかった。

 そうして食事の時間が訪れる度、婦人の心がこもった手料理を振舞われる。クリフォードは不謹慎だと思いながらも、心の奥では幸せを感じていた。

 緊張を解く為だろうか。食卓で、エスメラルダは様々な話をクリフォードに聞かせてくれた。

「クリフォード様は、レンスターのご出身でいらっしゃいますの?」

「は?……え、ええ。私のことをご存知なのですか?」

 食事の手を止め、クリフォードは首を傾げる。出自について、まだ彼女に話したことはなかった。

「いいえ。クリフォード様の歩き方や礼法が、レンスター式の作法に見えましたもので」

 確かこうして頭を下げるのは、南域レンスター特有の作法でしたでしょう――と、かつて婦人にしたそれと同じお辞儀をしてみせる彼女。

「はい。そんなことまで知っておいでとは……。

 仰る通り、私はつい先月まで、キルケニー公国に仕えておりました」

 クリフォードはすっかり、エスメラルダの博識っぷりに舌を巻いてしまった。

「そんな。偶然聞いただけですわ。そう、キルケニーに……」

 キルケニー公国に起こった悲劇を知っているのだろう、婦人はやや声を潜める。

「……無念です。

 大恩あるダリウス卿に報いることもできず、私は今もこうして生き永らえている」

 だむ、と青年の拳がテーブルを叩く。

 クリフォードを側近として重用し、息子のように可愛がってくれたダリウス公爵。民衆の支持も高かったが、他国の侵略に遭い――国と共に、散った。

「ダリウス卿のことは、私も存じております。卿は……最後まで戦われたそうですね。

 キルケニーの麦酒を飲んだことがないと私が言ったら、次にリムリックを訪れる際は手土産に馬車一杯積んでくると……それは楽しそうでいらしたのに……」

「……はは、あの方ならば馬車一杯積んでも一人でおなかに入れてしまいそうだ」

 話題が尽きることはなかった。エスメラルダは自身の知識の豊富さを鼻にかけることもなく、また、主を失ったクリフォードを気遣い、激励することも忘れなかった。

「ダリウス卿の側近であったことを、あなたはもっと誇っていいはずだわ」

「はぁ……しかし、私など至らぬ点ばかりで、とてもとても……」

 話をすればするほど、エスメラルダに惹かれていく自分を、クリフォードは感じていた。

 ――こんな美しく聡明な貴婦人を、妻とすることができたらどんなにいいだろう。

 彼女を娶ったというジェフリー卿に対し、心は嫉妬を覚えずにいられない。決闘、そしてそれまでの時間が自分への試験だというのなら、それを越えてやろうじゃないか――そう、彼は固く決意する。

(どんな男かは知らぬが、必ず鼻を明かしてやる)

 そう決めてからは、空いた時間を訓練時間に割いた。素振りをする音は、月が沈むまで辺りに響いていた。


 肉刺がつぶれ、掌が僅かに出血していた。

「そろそろ休んでおかないと……朝食の時間に遅れてしまうな」

 クリフォードは部屋へ戻ると、槍と剣を壁に立てかけ、布団に潜り込む。折角食事を用意してくれるのに、遅れるのは礼を失すると考え、直ぐに寝むことにした。

 ところが。

 昨夜と同じように、軽いノックの音が彼の耳に届く。クリフォードは飛び起きようとするが、部屋を訪れたエスメラルダに制止された。

 一歩、右足を踏み出す。左足の踵を右足に重ねたところで、呆れたように眉尻を下げる。

「……やっぱり」

 溜め息をこぼし、エスメラルダは再び右足を部屋の絨毯へ踏み出した。やがてベッドに腰をおとし、クリフォードの手を眺め遣る。

「手が肉刺だらけですわ、こんなにつぶれて……痛むのでは?」

 肉刺だらけの手を貴婦人が取ったことに動揺し、慌てて答える。

「いえ、こんなもの大したことはありません」

「いいえ、いけません。きちんと手当てをしておかないと、悪くなることもあるのですよ」

 彼女が取り出したのは、薬草のようだった。右手で青年の無骨な手首を掬い、左手に持った葉を出血した掌に容赦なく摺りつける。ぐ、と思わず呻くクリフォード。

「少し、染みるかも知れませんけれど、直ぐに快くなりますわ」

「は、はい……薬草にもお詳しいのですか」

 これには流石に恐れ入った。こんなに物知りな女性を、クリフォードは未だかつて見たことがない。独身であれば口説いていた――と言いたいところだが、奥手な彼にそれが為せたかどうかは疑わしい。

 大人しく手当てを受けていた青年だったが、

「え、エスメラルダさ――」

 掌に、薬草とも相手の指とも異なる柔らかな感触を感じ、ぎょっとする。

 ――彼女の、唇、だった。

「…………ま」

 余計な考えを、とにかく頭から追い出そうとする。しかし、

「クリフォード……さま。わたし……」

 肉刺だらけのその掌を、彼女は――自分の胸に押しあてる。

(……う)

 強引に手を引き剥がせば、彼女の指、或いは心が傷つくかも知れない。どうすることもできず、クリフォードはされるがままになってしまった。

「な、な、な、なりません、そんな――ッ」

 しかしそれに反して、男としての本能は、指を……その胸に埋めることを要求してくる。役得どころか――これでは、蛇の生殺しだ。そんなこと、認められるはずがない。

 こんな真似までして、自分を試すというのだろうか。

「わたし……ほんとうは、」

 まずい、と、心の中で叫ぶ。

 この続きを聞けば、自分は――欲望を、抑えられなくなってしまうかも知れない。

「あ、あのっ、エスメラルダ様――」

「結婚など……したくなかったのです!」

 ……どくん。

「そ、それでは、何故……?」

 男の問いに彼女は、俯いて、それは――と口籠る。何か事情があるのだろうと察し、クリフォードはそれ以上、問い詰めることはできなかった。

「……出過ぎた真似を、いたしました」

 彼女は瞼を伏し、いいえ、と首を振る。それから、何処か思いつめたように、男へと寄り添った。

「私の、心の中にいる殿方は……」

 朝露を帯びた花弁にも似た唇が、告げる声色が、男から理性を奪う。彼女はそれに気づいているのか否か、ますます無骨な男の手を、自分の柔らかな胸に押しつける。

 そっと、唇を寄せてくる彼女。

「…………あ、ああ……ッ」

 平静を保つのも、もう限界だった。それでも荒くなる呼吸を気取られぬよう、必死で抑えるが、胸の感触とちらつく唇が、それを許してくれない。

 不埒な男だとは思われたくなかったのだ。……彼女にだけは。

「クリフォード……さま。

 私を……受け入れてくださいますか?」

 甘いささやきが、理性を麻痺させる。

(……む、胸が……唇が、こんなに、……こんなに――)

 もう、我慢も限界だった。あとすこし、顔を近づけるだけで。あとすこし、指に力を込めるだけで。その甘い蜜を、甘い果実を――

「エスメラルダ……さま。私、は……ッ」

 ばっと、その細い肩を引き寄せ、抱き締めようとする。男の力だった。エスメラルダは一瞬、驚いたように目を見開く。しかし、

 ばさばさばさどさっ!

 騒々しい不協和音で、男――クリフォードは、理性を引き戻された。

 蝙蝠でも木から落ちたのだろうか。思わず二人は窓に眼を向ける。それから。

「…………あ。

 も、ももも申し訳ありませんっ!!」

 クリフォードは掴んでいた腕を放し、後ろを向いて布団を引っ張り寄せる。相手を直視すれば、折角戻った理性を再び失うことになるのは目に見えていた。布団で乱雑に腰までを覆ったのは、若い男ならば当然の生理現象を彼女に悟らせない為である。

「クリフォード様。……私のこと、お嫌いですか?」

「そ、そんな!滅相もない!」

 相手の口調が少し、沈んでいる。クリフォードは焦った。傷つけたろうか、と。

 もし、あの甘い告げ言が罠だったとしたら、自分は叱責を、蔑みを、或いは死を覚悟しなければならないだろう。

 しかし、もしそうではなく、彼女の本心だったとしたら――誘惑に応じることも、彼女を傷つけることもできない。女性の扱いに長けているとはお世辞にもいえない青年にとって、八方塞がりといえる状況だ。

「ほんとう……ですか?

 私のことを、あばずれ女と思ったのではありませんか?」

「そんなこと!私には……あなたはそんな方には映りません」

 それは、偽らざる本心だった。彼女の真意が何処にあるにせよ、男と見れば色目を使い外見ばかりを飾る女達とは、彼女は違う。少なくともクリフォードはそう信じていた。

「……嬉しい。

 あの、少し……飲みませんか」

「え。は、はい……」

 彼女が持ち出したのは果実酒だった。何か拙いことを言ったのではないかと、相手の顔色を伺う。だが、戦場しか知らぬクリフォードにそんな芸当はできなかった。

「――不思議ですか?

 数多の騎士がここを目指したことはご存知なのでしょう。でも、ここにいる騎士はあなただけ」

「それは……まあ」

 どんな恩賞を賜ろうかと騒がしく話していた男達は、建物の何処にもいない。確かにそれは、不可解ではあった。

「幾人もの騎士が、この館の門を叩きました。しかし――」

 そこで、静寂がおちる。彼女はそれ以上、何も言わなかった。

(……『試練』に脱落したということだろうか)

 そんなことを、頭の隅で考える青年。

 杯を傾けると、甘酸っぱい果実酒の風味が喉に心地好い。ほう、と感嘆の声を漏らし、まじまじと杯を眺めた。

「食事のときも、そうなさってましたね。果実酒は珍しいですか?」

「え、ええ……祖国ではほぼ麦酒でしたし、自由騎士ギルドには、こんな洒落たものはありませんでしたから」

 物珍しそうにしていたのが気恥ずかしく、クリフォードは若干早口になる。そんな彼を、婦人は微笑みながら眺めている。

「ふふっ。お口に合いませんか?」

「いえ、そんなことは……。その、好き……です」

 それはよかった――と言って、エスメラルダは空になった青年の杯に果実酒を注ぐ。

 二人は時間を忘れ、しばし語らいの時間を過ごす。婦人が静かになったことに気づき、クリフォードはどうしたのかと声をかけようとする。そのとき、こつんと肩に何かがおちた。

「……エスメラルダ様?」

 返事はない。代わりにあったのは、静かな呼吸――寝息だった。青年の肩にさらりと流れたのは、彼女の長い髪。

「な、ね、眠って……?」

 ベッドを椅子代わりにして座っていたエスメラルダは、そのまま布団の上に転がってしまう。猫のようだ――と不意にクリフォードは思ったが、そんなことを考えている場合ではない。

「あ、あの……その……」

「……ぅう、ん……」

 彼女が身をよじれば、服が乱れ、丸い肩が露になる。捲くれたドレスは白い太腿を露にし、一度は辛うじて収めたクリフォードの欲望を焚きつけた。

 ――『今この屋敷にいるのは私と貴方、ふたりだけですわ。クリフォード様』

 こんなときに、よりによって脳裏を掠めるのは、彼女のあの台詞。

 相手が目を覚ます気配はない。ならば――と、男の中でささやくものがある。

「……ばかな。そんなこと、」

 振り払うには、今の彼女の姿はあまりに無防備すぎた。

(エスメラルダ……さま……)

 身体がぼうっと熱を帯び、抑えがたい衝動が疼く。宵闇が辺りを包み、ランプの頼りない灯りの中で、彼女の白い肌はあまりにも、目映まばゆすぎた。

 思えばそもそも、自分は死に場所を求めていたのだ。ならばいっそ、ここで、浅はかな想いごと果ててしまえたら――

 相手の顔、その側に手をつき、身をベッドに乗り出す。

 …………ごくん、と、生唾を飲む。

 どんな罰も覚悟できた。この腕に彼女を抱くことができるなら、このまま冥府へ堕ちても構わないと、男には本気で思えた。それほどに、渇望していた。

 もう片方の手で女の手首をおさえ、そのまま身を沈めようとした、刹那。

 からんかららん、と、金属音が耳に響いた。

 見れば、床を愛用の槍が転がっている。それは徐々に減速し、クリフォードの足元で、停止する。

「………………っ」

 その槍で、かつて彼は絶対の忠誠を主君に誓った。

 ――『ダリウス卿の側近であったことを、あなたはもっと誇っていいはずだわ』

 はっとして、エスメラルダの顔に目を戻す。無論、彼女は未だ夢の中だ。

「…………わたし、は」

 自噴の念に唇を噛む。僅か、鉄の味がした。彼は床の槍を拾うと、元あった壁に立てかけ直す。

 それからエスメラルダの華奢な体躯を抱え上げ、部屋へと送り届けた。

「お寝みなさいませ。……エスメラルダ様」

 クリフォードは静かに扉を閉めると、自室へ戻り、再びベッドに潜る。甘い残り香に、眩々するのを感じながら――

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