前篇 まことの騎士
星灯りがひとつ、またひとつと灯る頃合。それに応えるよう、地上の家々にも心もとない光が灯る。途切れ途切れに風が奏でる旋律は、長い夜の訪れを呼びかけるかのようであった。
ここ東アルスターは厳冬の最中。夜の帳がひとたびおりれば、夜明けは隙間風程度に訪れるのみ。加え、相次ぐ戦乱で母なる大地は浴びるほどに血を吸っていた。
自由騎士ギルドでも、夜の訪れを歓迎するよう、酒を酌み交わす談笑がこぼれる。しかし、それは何処か刹那的で、酒で悲しみを洗い流そうとしているかにも感じられる光景だった。
彼等の多くは、相次ぐ戦乱に疲れ果てていた。
大小合わせて十とも二十ともいわれる小国が乱立し、最早どこに国境があるのかすら誰も記憶していない始末。更にギルドに集う自由騎士や傭兵の多くは、主君を失い途方に暮れている。
「おいクリフォード。
そんな隅っこでちびちび飲んでねぇで、こっちに来いや」
鎧をがちゃつかせ、大柄な男が杯を掲げる。顔には大きな傷がいくつもあり、いかにも歴戦の騎士といった貫禄だ。
「……遠慮する。酒は静かに飲むものだ」
カウンターの一番奥に座っていた若い騎士がそう答えると、大柄な騎士はつまらなそうに肩をすぼめた。
「何だあいつ、クリフォードっていうのか。見慣れない顔だな」
「ああ。何でもこの間陥落した国のどれかに仕えてたって話だぜ?」
男達の噂話にも耳を傾ける様子はなく、クリフォードと呼ばれた騎士は杯を煽る。
「あ、あの騎士さま……毎晩そんなに飲まれては、お身体に障ります」
「……うるさい。金は払っただろう」
冷や汗を拭いながら、深酒を諌めようとするマスター。しかし、鋭い眼光を浴びて竦みあがってしまった。
そのとき。
ぎぃ、と木が擦れ合う音。次いでがしゃん、と重い足音が続いた。
「あ、い、いらっしゃい!」
マスターに一瞥くれると、全身を甲冑で覆った訪問者は客全員をぐるりと見回す。そして、
「――諸君に尋ねたいことがある。
この中に、まことの騎士足りえる者はいるか?」
そう、唐突に切り出した。
飲んでいた騎士達がにわかに騒ぎ出すと、甲冑の騎士は一歩、前へ進み出る。
「私は、リムリック公国太守ジェフリーの使いとして参ったものである!
我が主君は、真に信ずるに足るまことの騎士を求めておられる。我こそはという騎士は、その証を黒の森にて示せ!さすれば、最高の誉れと望みの恩賞を約束する」
朗々たる声が響き渡り、場はどよめき立つ。最高の誉れと恩賞――それは、彼等が何よりも欲するもの、無理はない。
その中でただひとり、声の主をじっと凝視したまま、微動だにしない者がいた。
癖のついた亜麻色の髪、コバルトブルーの双眸。酔いが回っている為か瞼はやや重そうであるものの、精悍な面差しの青年。クリフォードだ。
「黒の森、川岸の屋敷にて待つ。――ただし、」
一旦は去ろうとし、扉に手をかけようとした甲冑の騎士。しかし去り際、肩越しに振り向くと一言だけ添えた。
「偽りは、我が主君の最も忌み嫌うところである。
騎士たる証を示せぬ者は、その首が胴に別れを告ぐと覚え置くがいい」
金属の擦れ合う音がいくつか。甲冑の騎士が去った後も、男達はその話で夜通し盛り上がっていた。
その一方で。
クリフォードだけは、訪問者が去ってもなお扉から目を離せずにいた。
「黒の、森……」
甲冑で身を覆った騎士の姿が、彼の脳裏にはっきりと灼きついて。羨望か、或いは憧憬か、嫉妬か――主君も誇りも失った彼は、その気高き姿に覚えた感情を形容する言葉を持たなかった。
人はそれを、好奇心と呼ぶ。
クリフォードの足は、遠く東――黒の森へと赴いていた。
酒浸りになっていた彼をこの地へ導いたのは、ギルドに訪れた変化がきっかけだった。いつも口やかましくちょっかいをかけてくる騎士連中が、こぞって姿を消したのである。彼にとっては静かに酒を飲めるので好都合ではあったものの、ギルドに現れなくなった騎士は皆、黒の森へ行くと言っていたという。
「……好奇心で命を落としたりなどしたら、『あの方』はお許しにならぬだろうな」
嘲るよう、独り言ちて。瞳を細め、懐かしそうに空を仰ぐクリフォード。
総てを賭けて守ると誓った主君は、もうこの世界の何処にもいない。それなのに、自分は――何故、生き永らえている?
――自分はひょっとしたら、死に場所を求めているのかも知れない。
そう思えば妙に合点がいった。もう、何もかも……どうでもよかった。
「館というのは……あれか。」
鬱蒼とした森の中に、ぽつんと佇む屋敷。金持ちの道楽にしては、手の込んだことだ――そう毒吐くと、クリフォードはその扉を叩いた。
「失礼する」
建物の中は思いのほか手入れが行き届いており、意匠の凝らした調度品も見てとれる。青年はひと声かけると、誰かが出てくるのを待った。
「――あなたは……自由騎士の方ですね?」
「…………っ!?」
現れたその人物に、彼は思わず息を呑む。てっきり、使用人が出てくるものと思っていたが、歩いてきたのは上品な貴婦人だったからだ。
白金を梳いたような長い髪は美しい曲線を描き、華奢な肩を伝って背中へとおちる。端正な目鼻立ちに、艶やかな珊瑚色の唇。すらりとしたシルエットに至るまで、名匠が創り上げた女神像さながらであった。
暫しその貴婦人に見惚れていたクリフォードだったが、相手が不思議そうに首を傾げていることに気づき、はっとして我に還る。
「あ、……あなた……は?」
極力平静を装い、尋ねる彼。しかし緊張と高揚感から、声が上擦ってしまった。
「リムリック公国太守ジェフリーの妻、エスメラルダと申します。
このような辺鄙な場所まで、ようこそお越しくださいました。中へご案内しますわ」
言って、婦人は奥へと促す。右足を前へと踏み出し、左足がそれに続いた。
「つ、妻?」
思わず口を出た言葉に、クリフォードははっとして口をふさいだ。既に歩き出していたエスメラルダはそこで足を止め、なにか――と問い返す。まさに翠玉といったふたつの瞳が、青年を見つめていた。
「いっ、いえ、なんでも……
その、このような森の中に公爵夫人がおられるとは思わなかったもので……失礼を」
口籠り、なんとかそう言って誤魔化す。
――考えてもみろ。こんなにも見目麗しい女性を、男が見初めない筈がないではないか。
落胆する自分を、そう叱咤して。青年は彼女に続き、屋敷の中へと進んでいった。
部屋の一室に通されたクリフォードは、一通の手紙を差し出される。
「主人より預かったものです。騎士のかたが現れたら、渡すようにと」
婦人からそれを丁重に受け取ると、彼は手紙をひろげ、目を通す。手でこすったのか、インクがところどころ滲んでいた。また、うち一枚は地図になっている。
『まことの騎士たる者へ
まずは、遠きこの地への来訪を歓迎する。私は本国から離れることができぬ故、妻にこの手紙を託した。どうか、非礼をお許し願いたい。
我がリムリック騎士団が求むるのは、まことの騎士。貴殿に、その証を示すことを請う。
朔の日、スレイブニルがレンスターを巡る刻――約束の地にて、我が騎士団髄一の騎士と一騎打ちを行い、勝利してみせよ。それを、まことの騎士たる証とする。証を示せし騎士には、最高の誉れと望みの恩賞を与えることをリムリックの名において誓おう。
貴殿が騎士の証を示し、我が前に姿を現す日を楽しみにしている。
――リムリック公国太守ジェフリー』
手紙を読み終えたクリフォードは、はふ、と肩を落とす。
(……本当に、随分と手の込んだことをするものだ)
腕の立つ騎士を捜すだけならば、こんな勿体ぶった真似をする必要などない。とんだ道楽に付き合わされたものだと、彼は内心、頭を抱えた。
目の前で静かに微笑む美しい女性――エスメラルダが、彼の人物の妻というのも、気に入らない理由のひとつだろう。
「朔……新月の日ということは、五日後ですか」
スレイブニルは、太陽の馬車を引く八つ足の馬。レンスターはここから真っ直ぐ南。つまり、『スレイブニルがレンスターを巡る刻』とは、太陽が南中する時間帯――正午。
(まったく。物言いまで持って回って……公爵というのは、どれだけ嫌味な男なんだ?)
「どうか……なさいましたか?」
エスメラルダの声にはっとして、クリフォードは彼女へと向き直る。ひとつ頷くと、手紙を彼女の手に戻した。
「約束の日まで、ごゆっくり滞在なさってください。
……ではクリフォード様、こちらへ。お食事を用意しております」
言われて、身体が空腹を訴えていることに気づくクリフォード。そういえばこの場所を見つけるまで、森で少し迷っていたのだった。
「かたじけない」
夕食と呼ぶにはやや遅い時間帯。婦人の申し出に、彼は心から感謝した。
クリフォードの前に、色とりどりの料理が並ぶ。果実酒にアイリッシュシチュー、牡蠣の酒蒸し、肉の腸詰め。テーブル一杯にご馳走が並んでいた。
「お口に合えば宜しいのですが」
「恐縮です。
ところで……公爵や、使用人の姿が見えませんが」
先程から、公爵夫人エスメラルダ以外に人の姿を見かけない。まったく人の姿がないというのは、不自然を通り越して奇異ですらある。婦人は口元に手をあて、あら、と表情を崩した。
「今この屋敷にいるのは私と貴方、ふたりだけですわ。クリフォード様」
穏やかに告げるエスメラルダに、青年は、え――と思わずフォークを取り落とす。
――ふたりっきり。
知らず、相手の姿を盗み見て――何かを振り払うようにかぶりを振った。
「で、では、この料理は?……まさか、」
「はい。私がすべて作りました」
クリフォードは驚き、目を丸くする。こんな森に婦人ひとりを残し、使用人のひとりも寄越さないとはどういうことだと見知らぬ城主に怒りを覚える。しかしそれでも、婦人、次いで料理に視線を移し――喜びが胸に湧き上がるのを確かに感じていた。
「遠慮せず、沢山召し上がってくださいましね」
長旅でかれこれ数日、食べ物を口にしていなかったクリフォード。彼女の言葉に甘え、とにかく空腹を満たすことにした。何を喋ってよいものか、計りかねたという理由もある。口下手な彼は、結局ろくに会話もないまま最初の晩餐を終えるのだった。
部屋を宛がわれた青年は、そこに上質なベッドを見つける。
布団に潜り込み、毛布を鼻まで上げると、ぼうっと天井を眺めていた。
「エスメラルダ……さま」
その麗姿を頭に呼び起こす度、陶酔感が胸を熱くする。それはどんな美酒よりも、深く沁み入った。
それにしても、と彼は考える。貴婦人が見知らぬ男と面会するのであれば、肌を隠し、首元まで覆ったドレスを身に纏うのが普通である。しかしエスメラルダの装いは、肩や胸元を大きく開けたドレスだった。
と、軽いノックの音に閉じていた瞼を開く。
クリフォードは飛び起きると、慌てて周囲を見回す。
(……ゆ、幽霊ッ?)
背筋が凍る。ひょっとして、帰って来なかったという自由騎士の亡霊か、いや、まさか。そんなことを考えていると、部屋のドアがからり、と開いた。
「ひっ!」
「きゃ……っ!」
…………『きゃ』?
「え、エスメラルダ様!?」
現れたのは、先程思いを馳せていた公爵夫人その人であった。夕食時に後ろで結っていた豊かな髪をおろしていたため、印象は幾分か異なっていたが。
「し、失礼。既にお寝みかと……な、何かあったのですか?」
気恥ずかしさに早口になる。まさか幽霊かと思って驚いたとも言えず、話題を逸らした。
婦人は気にしたようでもなく、こつ、こつと歩み寄ってくる。思わず一歩、後退るクリフォード。
「ご迷惑……でしたか?」
伏し目がちに、僅か俯くエスメラルダ。髪がさらり、と頬にこぼれる。
「あ、い、いえっ、そういうわけでは……」
「――では、」
いつの間にか、彼女は青年のすぐ隣、ベッドに腰をおろしている。少女のような面差しが、ふわり、ほころんだ。
「すこし、お話をしても構いませんかしら。クリフォードさま……
……その、私、何だか眠れなくって……」
追い返すわけにもいかず、クリフォードは狼狽した。しかし促されるまま、ベッドを椅子代わりにして腰かける。そして、直ぐに後悔した。
エスメラルダの頭が、青年の肩に沈む。彼の心臓は跳ね上がり、思わず声をあげそうになった。甘い花のような香りが鼻孔をくすぐる。
「え、え、え、エスメラルダさ――」
「……ねぇ、クリフォードさま」
耳元で名を囁かれ、金縛りのように動けなくなるクリフォード。大きなふたつの翠玉に、その心はがっしりと捕らえられていた。
「どうか、なさいまして?」
肉刺だらけの手に、そっと白い指がかさなる。
「あ、いえ、その……っ」
――自分は、この婦人にからかわれているのだろうか。混乱する頭の隅で、そんなことを考える。彼女は既にひとのもので、生真面目な騎士にとっては手の届かない存在。ましてや情を交わすなど、思いもよらないことであった。
「その、きょ、距離が……近……」
吐息がかかる程近くに、エスメラルダの美貌があった。顔立ちは十代後半の少女のように伺えるが、それにしてはいやに艶かしい。じり、と身を引くクリフォード。しかし、その言動とは裏腹に、視線は彼女の艶やかな唇に釘付けとなっている。
知らず、ごくりと喉が鳴った。
視線はそのまま、細い首筋を伝って胸元へおちる。白い胸の谷間は、たわわに熟した果実のようで。ドレスの薄い布地からは豊かなふくらみが見てとれ、青年はしまったという顔をした。
――触れたい。どんなにそう思っても、相手は既婚者、それも下手すれば主君の妻になる女性。手を伸ばすことなど、叶うはずもなかった。
「……きゃ、ご、ごめんなさい」
一瞬、何が起こったのか理解できなかっただろう。気がつけば、クリフォードの腕の中に彼女が、いた。
「な、な、な……あ、あのっ」
改めて見れば、彼女が体勢を崩して倒れこんできたのだと理解する。本能がそのまま抱き寄せることを求めたが、それは却下した。
「も、申し訳ありませんっ!その、そんなつもりでは――」
エスメラルダの身体を引き剥がす彼は、酷く動揺していた。頬から耳まで見事に茹だっており、指などは小刻みに震えている。
「……ええ。存じております」
ただ穏やかにそう返す彼女は、外見に反し、とても大人びて見える。
「クリフォード様が誠実な方だということは、よく判りました」
そう告げると、エスメラルダはゆっくりと立ち上がり、扉へと歩き出す。
「え、あ、あの?エスメラルダ様!?」
「ごゆっくり、お寝みなさいませ。クリフォード様」
静かな足音はやがて、扉の向こうへと消える。
ぱたん、と。扉の閉まる音が、いやに遠く届いた。
「……なんだったんだ?俺……何かしたのか?」
心臓はなおもばくばくと早鐘を打ったままである。クリフォードは取り敢えず再び布団へ潜ったが、寝つける自信は皆無だった。
ぼんやりと、天井の模様を目が追う。瞼を閉じても模様が浮かぶくらいになった頃、漸くぽつり、彼は呟いた。
「ひょっとして……俺、試されてたのか?」
物言わぬ扉は、何も答えてはくれない。
――『まことの騎士たる証を示せ』
甲冑の騎士が、手紙の主が発したその言葉が。ぐるぐると彼の頭で反響していた。