逝ってしまったあなた
「おい、おまえは何が不満と言うんだ」
わたしの目前の男が語気を荒げて言う。嘗て夫と呼んでいた人の顔・・・
「話かけても返事しないし、変なことするし・・・」
わたしは呆然と男の顔を見る。変なこと・・・わたしが何をしたというの。変なのはこの人だ。はじまりは・・・1ヶ月前の残業と言っていた日か・・・いやそれ以前かも知れない。もう記憶にもない。
「同僚に変な電話をするのはいい加減にやめてくれないか」
電話・・・そう、何度もした。この人の同僚に。或る日わたしは気付いてしまったから。突然にわたしは夫が浮気していることに気付いたのだ。まるで天啓を受けたように知ってしまったのだ。でも・・・
「俺が電話口に出てもあなたはあの人じゃないって叫ぶわ、会社での立場も考えてくれ」
確かに声はこの人のようだった。でも違うのだ。わたしには分かる。違うのだ。だからこの人と女が何を言っているのかも分かる。
「どうせ証拠も掴めないのにあの馬鹿が。」
「分かるわけないのにねぇ。」
ベッドで淫らな行為の後にせせら笑っている声が聞こえる。
「部屋は滅茶苦茶にするし、何か探し物でもあるのか」
証拠を探した。それこそ隈なく、隅々探した。そして決定的なものを見つけた。背広のポケットの奥にあったそれは、埃のようにしか見えなかったけど、あれはきっと覚醒剤だ。あの人がこんなことまで手に染めていると知った時には涙した・・・
「ご近所の人が何と噂しているのか知っているか? もう目を覚ましてくれ」
あの人が帰ってくれば、泣いたり喚いたりしない。でももうあれ程優しかったご近所の人達もあの人の仲間。覚醒剤で魂を売ったんだ。わたしには分かっているの。みんなみんなわたしの敵だって。
「どこか具合でも悪いのか?」
頭痛はすっとしている。これもあの人のせい。変な声も聞こえてくる。わたしが眠っている間に、あの人がわたしの中に受信機を埋め込んだせいだ。四六時中わたしを監視し、嘲笑うためにしたこと・・・あの人の同僚も、ご近所の人達も、わたしの様子をこれで監視して、何をしているかゲラゲラ笑いながら見ているんだ。
電波が毎日わたしの頭の中に入ってくる。
「靖男も心配しているぞ」
ああっ・・・やっちゃん・・・・わたしとあの人の愛の結晶。以前は楽しくお話していたのに、ちっともお話しなくなった。やっちゃんがわたしを避けるようになったのもあの人が変なことを吹き込んだためだ。どうしてこんなことになっちゃったの?
わたしの頬に涙が流れる。
「・・・もういい・・・君は疲れているんだ・・・」
目前の男の顔が緩む。
それはわたしが愛していた夫の顔。
でももう優しかったあの人は何処にもいない。
どこに行っちゃったのかしら?
この人は誰?
男はわたしに手を伸ばす。そして肩を抱き、唇がゆっくりと・・・
あの人はどこへ行っちゃったのかしら?
あの人はどこへ行っちゃったのかしら?
あの人はどこへ行っちゃったのかしら?
そう! あの人は逝ってしまったのだ!!
そう! あの人は逝ってしまったのだ!!
そう! あの人は逝ってしまったのだ!!
ゆっくり近付く男の首に、両手の指をそっと這わせる。
そして徐々に力を加えていく。
首に食い込むわたしの細い指を見ながら、わたしは泣きながら呟く。
さよなら・・・・
さよなら・・・・
さようなら。




