C たまには嵐も越えないと
「結婚しても、ただいま帰りました」
或る日、自宅のエトワール六〇五号室へ帰ると智樹が居なかった。
「智樹さーん?」
不安が白蓮を覆い尽くし始めた。
「智樹さーん? どこにいらっしゃるの?」
留守電を聞いてみる。
「ピー。メッセージはありません」
何とも無機質な声だった。
声優さんの事務所はどこ。
「あ! メールに残してありますわね」
スマホを見ても、ダイレクトメールすら入っていなかった。
寂しい。
背中から冷蔵庫を背負っているようだった。
「おかしいですわね。私から送ってみますわ」
[件名]
愛妻より
[メッセージ]
今はどうしているのかしら?
お仕事で遅くなるのかしら?
聞いていなかったから、ご飯を先に食べちゃいますわよ。
☆白蓮
「ちょっと意地悪でもおしおきなのです」
てへって一人で笑ってみた。
白いフリルのエプロンを取り出す。
これはやる気を出すマストアイテムだ。
「さてと、本当にご飯作りますわよ」
白蓮の胸の中は毎日智樹のことで一杯だった。
でも、今まではこんなに不安な思いをしたことがなかった。
信じよう信じようと考えれば考える程、自分が却って犯罪者のような気分に陥った。
「私……。智樹さんを愛していると思っていたけれど、それはまだ、私が子供だからだったのかなあ。モデルとカメラマンとしての相性は良いよ。被写体は白蓮だけに決めたって、写真集の『コム・ダビトゥードゥ』を作りながら決めたじゃない。恋の先、愛って難しい……」
残したニンジンをぼんやりと眺めていたら、シチューが噴いてしまった。
「あちちっ」
◇◇◇
智樹は六本木の「スタジオえるむ」に居た。
「ピルルルル……」
スマホの着メロがメールを知らせた。
「うっわ! 白蓮の怖いんだよ……。もう勘弁して」
スタジオの隅に行ってメールを開いた。
「返信しないと、ぼこぼこにされるんじゃないか?」
[件名]
ごめんなさい
[メッセージ]
仕事でした――!
これからダッシュで帰りたいけど、今は帰れないんです。
ごめんなさい。
後で埋め合わせするから勘弁してください。
ぺこり。
★智樹より
「ちょっと、こっちは裸で寒いんだからね! 早くしてよ!」
遠くで下品な声がした。
智樹は、白蓮以外をモデルとしいたセミヌード写真を撮らないかと言うオファーを受けていた。
本当は愛妻以外撮りたくなかったのだが、彼女の結婚式への願望を考えると引き受けざるを得なかった。
◇◇◇
白蓮は帰ってくるなり、クッションを三つ投げつけた。
智樹が避けないものだから、オール・ストライクだ。
「何時だと思ってますの――! 電話もメールだって……。くすん」
智樹も流石に夫婦の危機を感じた。
本当は疾しいことはないのだが。
「メールしたよ? 仕事だからって」
智樹が不思議に思って素直に訊いてみた。
「あ・り・ま・せ・ん!」
美貌のおでこもマジでお怒りだった。
「もう一度スマホ見てみてよ」
智樹は落ち着かなくてはと冷静に対処した。
「ないよ……。いまや宣伝ばっかりですわ」
ピピッとスマホをいじく弄りながら、髪まで乱して半狂乱である。
「あ……。う、うん、仕事だって書いてありましたわ」
「白蓮は家事とかしてなかった?」
「――シチューが噴いたんだった! やだ、やだわ。白蓮のおドジ踏みました」
後悔が胸を貫いた。
「気にしない、気にしない。ご飯にしようよ」
智樹は白蓮の頭をコツンと叩いてシチューに牛乳を足してあたため直した。
「んー。いつも美味しいですよ! デリシャスです」
「レパートリーが少ないですからね」
泣いた瞼を腫らして、白蓮が卑屈になっている。
「サラダもオリジナルヘルシードレッシングがいいね! 俺、レタスとプチトマト大好きだし、最高の組み合わせだよ」
「う、そんなに褒めたって何も出ないんだから」
智樹が白蓮にあーんと自分のプチトマトを差し出す。
頬をつつかれて、思わずお口を開けてしまった。
「はい、仲直りしよう」
「プチトマトでー。えー。安いわ、私って。ねえ?」
ツン要素を残したままデレて、難しいお年頃だ。
笑いたいけど笑えないよと智樹の顔に書いてあった。
「俺は後悔していない。一直線に全力疾走だよ」
白蓮は、下を向いたまま、涙は苦いと感じていた。