今度こそニュンペーを堪能出来たらいい
「彼女たちには、悪いことをしました。私から引き離されて、時間はかかったそうですが少しづつ、回復しているようです」
「……ルーンケン卿が私を求めてくださるのは、私があなたの近くにいても……いえ。竜体を見てなお、狂わなかったからですか?」
引っ掛かりを覚えた私は、躊躇うことなく、彼に尋ねた。
彼の真意が知りたい、という気持ちもあったし、このタイミングを逃せば、もう聞くことはできないと直感したから。
そして、それは正しかったのだと思う。
ルーンケン卿は、袖を戻し、カフスボタンを留める手を、ぴたりと止めた。
だけど手を止めたのはほんの一瞬で、彼はまた、何事も無かったかのようにボタンを留めていく。
「きっかけには、なったかもしれません」
「それは──」
「私は、あなたを想っていますが、あなたを狂わせることは本意ではない。だから、あなたに何事もないと知った時……心から安堵しました。これで、あなたを求めていいのだと、赦しを得られたように感じましたから」
「っ……」
吹っ切れたのか、開き直ったのか、それとも元々隠していなかったのか。
ルーンケン卿は直截に言った。
そのはっきりとした物言いに、まだ私は慣れない。彼がその手の言葉を口にする度、面食らってしまうのだ。
ルーンケン卿は、カフスボタンを全て留め終えると顔を上げた。
そして、なぜ、それを私に見せたかを語った。
「これは、契約です」
「え?」
「あなたを裏切らない、という、ね。ですが、一口に言っても、あくまでそれは口約束に過ぎない。だから、強制力を持たせるために私の秘密を開示しました」
こちら、それはつまり、ルーンケン卿の鱗、のことである。
私が瞬いていると、彼が困ったように苦笑した。
「これを見せれば、誰もが認めるでしょう。ルカ・ルーンケンは、竜なのだと。あなたもご存知の通り、この事実が表沙汰になれば、大きな騒動──それこそ、国の在り方を変えてしまうほどの騒ぎになることは想像に容易い。ですから、あなたは、私があなたを裏切った時。この秘密を貴族院に報告すればよろしい」
「そんなことしたら……。大変な騒動になりますわ」
「でしょうね。承知の上です」
それからルーンケン卿は付け加えるように言った。
「このことは、亡き父と母、そして妹のルシアしか知りません」
「……そんな重大な秘密を、私に教えて良かったのですか?」
悪用される可能性を、考えなかったのだろうか。
そう思って尋ねると、ルーンケン卿は首を傾げ、微笑んだ。
「だから、言ったでしょう。私の共犯者になってください、と」
──そういうこと。
納得すると同時に、やはり彼は食えない、と思った。
抜け目ないというか……布石をしっかり置いて、逃れられないように手を打ってくる。
「では、また明日。ニュンペーの件は、こちらで対応を取りまとめ、明日あなたに報告します。早朝、侍女を向かわせますので」
そして彼は、私が気にしていたニュンペーの件をさらりと口にした。
その切り替えの速さは彼らしい、というか何というか。
私は頷いて答えた。
「分かりました。……ルーンケン卿」
「何でしょう」
「先程の言葉は、プロポーズ、ということでよろしいのかしら」
彼は、話を終えたつもりらしいけれど。
私の方はまだ終わっていなかった。
言うだけ言って、はいさよなら、なんてちょっとずるいじゃない、と思ったのだ。
こっちは、こんなに動揺しているというのに。
そう思った私は、動揺を悟られないようにしながらルーンケン卿を見上げた。彼は、私の言葉に驚いたようで、わずかに目を見開いたものの──素直に頷いた。
「はい」
「では、指輪は無いのかしら?プロポーズに指輪は、必要不可欠だと聞いたことがあるのだけど」
そして、私は無理難題をふっかけた。
左手を差し出して、彼に挑むように笑みを見せる。
意地悪だと自覚している。
今さっきの話だ。用意がないに決まっているのに。それでも、私だけこんなに動揺して、混乱しているのに、彼は至って平然としているのが──納得いかなかった。彼も少しくらい、困ればいいと思ったのだ。
「…………」
私の言葉に、予想通りルーンケン卿は沈黙した。
「…………」
「…………」
その長い、といってもたかが数秒程度だけれど。
それに、気まずさを感じたのは私が先だった。
(というか、私は何をしているのかしら……)
私だけ動揺しているのが悔しいからって、こんな、子供みたいな真似を。
「ごめんなさい、意地悪を──」
反省した私は、差し出した左手を取り戻そうとした、その時。
「失礼します」
ルーンケン卿が、私の左手を取った。
「え……」
「今は」
彼と、私の言葉が重なる。
ルーンケン卿は、私の前に膝をつくと、私の指を見つめ、言葉を続ける。
「持ち合わせがありませんので、これで」
伏し目がちになっている彼のはちみつ色の瞳に、銀のまつ毛が扇のように広がった。
まつ毛、長いのね、なんてどうでもいい感想を抱いたその時。
彼の手が、私の左手を取り、ちゅ、と左手の指先──具体的に言うと、薬指にちゅ、っと柔らかな感触を感じた。
それはまるで、くちびる、のような──。
「なっ」
悲鳴のような声がこぼれた。
今のは、一体。
ううん、そんなの決まってる。
だって、いえ、でも。
やはり頭の中は大混乱である。
その柔らかな感触の理由を察した私は、もはや言葉も出なかった。
絶句する私を見て、ルーンケン卿が静かに立ち上がる。
そこに、照れや羞恥の類は見られない。
やはり、動揺しているのは私だけのようだ。
「今はこれで、お許しいただけませんか?」
「っ……~~~~!!」
もはや、何をいえばいいのか分からなかった。
ルーンケン卿が、彼がこんなことを──差し出した左手の薬指に、口付けを落とすなんて、思いもしなかった。
それは恭しく、さながら神聖な口付けを思わせた。
ほんの一瞬の、触れるだけのキス。
それに、私は自身の手を胸元に抱きながら、動揺と混乱のまま、彼に言った。
「じ、冗談です!!な、ななななんてことをするんですか!?ゆ、指に今、口、口付けを……!?」
混乱のあまり吃る私に、ルーンケン卿は少し思案したように沈黙した、後──笑った。
彼はふ、と堪えきれない、とでも言いたげに笑みを零すと、そのままクスクスと笑い──
「失礼しました。あなたが可愛らしかったので、つい」
そしてまたしても、ドストレートにそんなことを言ってきたのだ。
☆
「まさか、思わないじゃない……」
ルーンケン卿が、あんなに甘い──としか言いようの無い言葉を口にするなんて。
「どうかなさいましたか、クレメンティーナ様?」
私の言葉に答えたのは、対面に座るサラサだった。
それに、私は首を横に振って答える。
「いいえ、今度こそ猫ちゃ……ニュンペーを堪能出来たらいいなと思ったのよ」
今、私はふたたび馬車の中にいた。




