甘酸っぱい記憶も重たい黒歴史に様変わり
翌日。
私は騎士ふたりを伴うと、また法外な入場料を支払い、禁足地へ向かった。
(もし、湖が汚れたことで精霊の怒りを買ったのなら、湖を綺麗にすることでその怒りは解消できる……と思うのよね)
「逆に、それで怒りが解けなかったなら湖の汚れは精霊の怒りと解釈できる……」
ひとりブツブツ呟きながら、私は湖の手前に、膝をついた。
魔法を使用するためだ。本来、魔法行使には魔法陣が必要なのだが私の魔法は完全独学なので、魔法陣は描かない。
地面に手を当てて、目を瞑る。
構成は、水、風、火。
温水で洗うイメージで、私は魔法式を構成していった。
「Ζέστη και νερό」
一語一語、区切るようにしながら慎重に魔法式を組み立てる。私の魔法式は、魔法陣を描いた丁寧なものではなく、完全オリジナルによる独学。感覚頼りなので、その感覚をミスると……まあ、大変な事故が起きる。
この三年、片手で数える程度にしか魔法は使ってこなかった。
なぜなら、陛下が魔法嫌いだからだ。
彼は、魔法が苦手だ。
加えて、苦手意識を持っていることに劣等感を抱いているのか、私が魔法を使おうものなら、小姑かと言わんばかりの嫌味を贈ってくる。彼の機嫌を損ねるのは避けるべきだと考えた私は、魔法という手段を封印することになったのだった。
(今思えば、本当によくやっていたと思うわ、過去の私)
……あんなひとでも、好きだった。
愚かな恋だった。
土を掻く。
この数ヶ月、雨が降らなかったせいだろう。土は軽く、安易に崩壊した。さらりと、私の手中から零れ落ちる。
(この婚約に求められた意味。私が王妃となった理由。それを考えて、在るべき姿を追求してきた)
たとえ、陛下に……彼に嫌われていようとも、私は私のするべきことを果たさなければ、と思っていた。
『僕はきみを信頼してる。きみが妃になったら、この国はますますいい方向に行くだろう。だから、僕の手を取ってくれる?』
真摯に、丁寧に、柔らかく、温かく、真綿を重ねるようにして得た恋心は、ただの見せかけに過ぎなかった……と、気がついたのは結婚式の夜。
あれは偽りで、虚栄だった、と思い知らされた。
(嫌な過去も、魔法で洗い流せてしまえばいいのに)
そんなことを考えながら、私は祈るように魔法を使う。
難しい構成式はすっ飛ばして、要素だけをイメージして、呪文を詠唱した。
「το φως του καθαρισμού」
地面を撫でると、数ヶ月の天候不良が理由だろう。熱かった。
地下にまで魔力を行き渡らせるような感覚──そう、感覚に頼り、最後まで呪文を詠唱しきった。
「Ξεπλύνετε αυτό το μέρος ──」
唱え終わった瞬間、頭上の雲が一瞬、光る。
雷だ。
続けて、ゴロゴロ……と空が唸る音が聞こえた。このまま、大雨が降る──はず、だった。
「…………」
しかし、待てど暮らせど変化は訪れない。
曇天が広がり、今まさに雨が降りそうな気配があったのだが、それは瞬く間に晴れてしまう。
「…………あら?」
私は首を傾げた。
「失敗した?ううん、そんな気配はなかったわ」
呟くようにしながら疑問を口にすると、様子を見ていたルークが近づいてくる。その手には、ハンカチがあった。
「クレメンティーナ様、お使いください」
「……ありがとう」
そこで、土に触れたことで手が汚れていることに気がついた。ルークからハンカチを受け取り、私は彼に尋ねた。
「あなたは今の、どう見る?」
続けて、ケヴィンがルークの後ろから歩いてくる。
私の疑問に、ルークはほんの一瞬、難しそうに眉を寄せた後、答えた。
「……効果が打ち消されたように見えました」
「無効化魔法というやつですね」
ケヴィンが、補足するように言う。
無効化魔法、それは五大属性魔法には含まれていない特殊な魔法で、聖職者にしか使えない。
効果はその名の通り、魔法の効果を打ち消すものだ。
聖職者……といえば、代々聖職者の家系であるルーンケン卿だが。
「ルーンケン卿かしら……。だけど、魔法を行使したような気配はなかったし、そもそも彼がそんなことする理由が思い至らないわ」
昨日、彼とは別れたけれど、私が今日ここに来ることは彼には言っていないし、もっと言うなら、私の魔法を無効化する理由が分からない。
戸惑いながら、私はルークから受け取ったハンカチで手を拭った。
ふと──どうでもいいことを、思い出してしまう。
随分昔、それこそ婚約するよりも前。
陛下にハンカチを拾ってもらったことがあったな、と。
どうして、忘れたい忌むべき記憶に限って、ふとした時に、思い出してしまうのだろう。
人体の欠陥だと思う。
内心、ため息を吐いた私は、自然とその時のことを思い返してしまっていた。
あれは今から六年……ほど前だろうか。
夜会で落としたハンカチを拾ってくれたのが、当時王太子だった陛下だった。
そのハンカチは、私がこっそり市井に遊びに行った時、露天で一目惚れしたものだった。
素材も質も、平民向けで恐らく貴族令嬢が持つに相応しくないものだっただろう。
だけど、私はどうしても、そのハンカチに心を奪われてしまったのだ。
その──真っ白なハンカチと、隅で遊ぶような、猫の刺繍に。
三色を使って彩られた猫の刺繍は、前世で家族だった彼女を思わせた。
一目惚れで、絶対に買わなければ後悔する、と思った。私が初めて、心から欲しいと思った品だ。
それを、私は夜会で落としてしまったようだった。
社交界デビューして直後の夜会。
緊張した私は、夜会用に用意したシルクのハンカチとは別に、お守りとしてとそのハンカチをシャトレーヌに繋げた小物入れにしまっていた。
だけど、何かのタイミングで落としてしまったのだろう。
帰宅途中の馬車の中で、それに気がついたのだ。
(あの時は血の気が引いたというものだわ……)
あのハンカチは令嬢が持つにふさわしくないもののため、主催者に失くしたとも言い難い。どうしよう。どうしたら、と狼狽えていたところで、ハンカチが届けられた。
それは匿名で、一枚のメッセージカードが添えられていた。
『子猫はイタズラ好きですが、あなたの元に戻れてよかった』
「…………」
その時のことを思い出して、甘酸っぱい記憶も重たい黒歴史に様変わりしたことに、呻きたくなった。
(あれが、まさか陛下だったとは思いもしなかったものね……)
あれも演技だったのだろうか。
そうだとしたら、一体いつから彼は、私を傀儡にしようと思っていたのだろう。
苦い記憶に蓋をするように、私は思考を打ち消した。
そして、護衛としてついていてくれたふたりに声をかけようとした、ところで。
ざぁ、と一際強い風がその場に吹いた。




