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虚空に咲く樹  作者: シンドゥー


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9/9

「決断しないことは、ときとして間違った行動よりたちが悪い。」

翌朝

早矢は大学向かっていた。いつもは律が迎えに来てくれるが、今日は一人でいる。

普段と少し違うだけ世界の彩りはだいぶ変わるように感じた。


大学の廊下は、いつも通りだった。学生が友達と歩き話し、そして笑う。何気ない風景。


早矢は講義室に向かいながら、ポケットの中のカードを握っていた。

昨夜のことが、まだ体の中に滞っている。早矢もきっとそうだろう。冷たい空気。月光。「俺」から「私」に変わっていった文字。

——その世界は、正しいか。


「桐生くんおはようございます。」


景彰先生が廊下の端から声をかけられ、早矢が振り返る。

先生はいつもの柔らかい顔をしていた。でも目が、少し違う。早矢を見るその瞳は鋭い光か宿っていた。その光が照らすは絶望か希望か。


「少し、いいですか?」


先生と向かったのは人気のない階段の踊り場だった。差し込む陽光が私達を照らす。先生が窓の外を見ながら口を開く。


「昨夜、研究棟の電源が落ちたそうです。」


早矢は黙っていた。


「監視カメラの記録は残っていないそうです。」


「……先生」


「禁書庫に、何かありましたか」


早矢は答えなかった。その顔はもう笑っていなかった。

早矢が俯いていると先生は静かに続けた。


「日記を読みましたか?」


「……読みました」


先生は少しだけ目を細める。


「そうですか。」


それだけ言って、また窓の外を見る。しばらく、2人とも黙っていた。


「実は私も、昔読んだことがあります。あなたと同じように、好奇心に負けて」


早矢が息を飲んだ。こちらから見てもわかりやすく喉を動かして。


「だから分かる。あなたが何を感じたか」


「先生は、どうして——

止めなかったのか、ですか」


先生が静かに笑う。その笑みは普段の仏のようなものではなく、背スリをゾクリとさせるものだった。それと同時に何が始まる合図であった。


「カードを渡したのは私です。止める気があったなら、渡さなかった。

それに私はあなたに希望感じました。貴方の内に宿る好奇心はかつての私を彷彿とさせるものがあります。だから私は託したのですよ。

カードをそして私の夢を、」


「夢…?」


「ええそうです。夢です。小さい頃から追い求めてい夢。

この世界に隠された真実を解き明かし、その全てを日の下出すということ。

私は生涯に渡り歴史を研究し続けました。禁書庫を覗いた罪を咎められ記憶消されたりもしました。でも人間は不思議なものです。消されても、何かが残り夢に出てくる、体が覚えている。…だから諦められなかった。しかし一人で成し遂げるには限界がありました。」


先生が腕を捲り上げる。服の下から出てきたのは痛々しほど痩せ細った腕だった。


「老いとは恐ろしもので体力だけでなく、思いまで奪われた。そして私は癌を発症し、もう先が短く、ここまでかと思いました。

ですが、桐生さん貴方が居てくれた。」


早矢は先生の腕から目が離せなかった。いつもジャケットを羽織っていた。袖をまくるところを一度も見たことがなかった。気にしたことすらなかった。

理解が、少しずつ追いついてくる。先生がカードを渡した理由。このタイミングで渡した理由。好奇心の持つ狂気に、早矢は今更触れた気がした。

人とは愚かなもので、気づいた時にはもう手遅れになっている。しかし先生はそんなことお構いなしに続ける。


「桐生くん。あなたはこの後、"天界"によって記憶を消されるでしょう。ですが運命が再び、あなたの記憶を呼び覚ましてくれる。その時は——図書館にいる木梅という女性に声をかけなさい。"際は投げられた"と。そして物語は再び動き出したのだと。」


あたしの記憶に空白がある理由が、その瞬間に分かった。"天界"によって消されていたからだ。ずっとばらばらだった点が、一本の線になっていく。


「景彰先生!何を言ってるか全然分かんないよ!」


「落ち着いてください桐生くん。」


穏やかな声だった。


「全部理解しなくていい。今は、覚えていることだけで十分です」


「でも——先生、あたし——」


「桐生くん」


先生の目が、早矢を捉えた。柔らかさの奥にある、揺るぎない静けさで。


「あなたはもう、知ってしまった。天理赫天が何者だったか。この世界がどうやって作られたか。それが極一部の事であったとしても知ったという事実は消えない。人は忘れても、体は覚えている。夢に出てくる。胸の奥に引っかかる。理由も分からないのに、なぜか涙が出る。私がそうでした。何年もずっと、そうだった。だからあなたも必ず——ここに戻ってくる」


「……怖くないんですか」


掠れた声で、早矢は聞いた。

先生はしばらく窓の外を見ている。


「後悔はない。知りたいと思った。知った。誰かに托せた。それで十分です。」



廊下の奥から、足音が来た。

複数の、規則正しい足音。白い制服。胸元に金の紋章。表情のない顔。

"天界"の権威たる"十柱"その秩序を司る"保安社"。

"保安社"は人々の治安と秩序を守る組織だ。そしてその目の前にいるのが"保安社"の実働機関"大天使"。その強さと恐ろしさは教科書に載っているほど知らない人はいない。

そんな存在が今目の前にいる。

禁書庫の立ち入った早矢を裁定するために。

だけど先生は微動だにしなかった。まるで最初から、この瞬間を知っていたように。


「桐生早矢さん、ですね。昨夜の件について、ご同行いただきたい」


早矢が後退りし壁に背中が当たった。その瞬間、先生が前に出た。


「昨夜、禁書庫に入ったのは私です。この学生は関係ない」


「先生——」


「私が一人で研究棟にいた。学生ではありません」


大天使の一人が先生を一秒だけ見た。


「九条景彰准教授、ですね」


「そうです」


「……ご同行いただけますか」


先生が頷いた。早矢が先生腕を掴んだ。細かった。見ていたあたしも心配になるくらい弱々しく細い。


「待って。先生は関係ない。あたしが——あたしが行きます」


先生が、早矢の手を静かに外した。その所作は丁寧で優しかった。


「桐生さん。あなたには、続きが。未来があります。」


「先生にだってあるはずです。癌だって、治療すれば——」


「歴史は、語られなければ存在しないのですよ。」


優しく、でも揺るがない声で先生は遮った。


「天理赫天のことを。彼が知ってほしかった世界の本当のことを——語ってください。あなたが」


「あたしには無理です、先生みたいに——」


「無理じゃない。あなたには好奇心がある。私が一生かけて守ろうとしたものが、あなたには最初からある。それだけで十分です。それにあなたには律人くんもいる。きっと大丈夫です。」


早矢は何か言おうとしていた。しかし言葉が、出なかった。動けなかった。

ただ先生の背中を見ているしかなかった。大天使に挟まれながらも、それでも背筋は真っ直ぐで。痩せ細った体は、一度も揺れていなかった。この人はずっと、この日のために生きてきたのかもしれない。記憶を消されても、残ったものを手繰り寄せながら、ただこの日のために。

その時。先生が振り返った。

早矢ではなく——もう少し後ろを見た。あたしの方を、見たのだ。

見えるはずがない。あたしはここにいない。過去に触れることは誰にもできない。

それでも先生の目は、確かにあたしを捉えた。

軽く笑っていた。怖くも後悔もなさそうだった。ただ——大丈夫だったでしょ、とでも言うように。

その笑顔の意味が、あたしには分からなかった。

廊下の角を曲がり、先生の影が消えた。



そこで、夢が終わった。まるで果てしなく長い夢を見ていたような気分になりながら目を開けると本棚の間から、図書館の天井が見えた。


「桐生さん、もう閉館の時間ですよ。起きてください」


木梅さんの声だった。机の上に開いたままの資料。頬に残る本の跡。胸の奥に、重くて温かくて、どう扱えばいいか分からないものが沈んでいた。ただ自分が何をするべきなのは明白だ。


「すみません、寝てました。」


「顔色が悪いけど、大丈夫?」


木梅さんの声はいつもと変わらない。それがいつもの日常に帰って来た事を知らせる。でもこれからはいつもの日常なんて言えなくなるんだろうそう思う。


「木梅さん。景彰先生の人生は後悔の無いものだったと思いますか?本当に託す相手はあたしで良かったと思いますか?」


「……桐生さん何を思い出したの?」


「あの日記の事と、景彰先生の最期を。そして"際は投げられた"とあなたに伝えてくださいと。」


「ああそう… 本当にこの時が来るなんてね。」


木梅さんは普段は目を細めているがこの時は大きく開け驚愕していた。


あたしの隣の椅子を引き木梅さんが座る。先ほどの雰囲気とは違う。司書としての木梅さんじゃなく、景彰先生の友としての木梅さんになったのだろう。夢の中のように緊張感が戻ってくる。


「桐生さんそう緊張しないで大丈夫よ。」


「木梅さん…」


「たまには昔話でもしましょう。楽な姿勢で聞いてね。

あいつとは…九条とは大学の時の同級生よ。友達がいなくて困っていた私と友達になってくれた良い奴で勉強を色々と教えてくれた賢い奴だった。同じサークルに入り馬鹿な事を沢山して遊んだし、笑った。普通の大学生だったよ。途中まではね、2年生になって新しい教授の授業を受けた時だった。その教授は世界には隠された真実があると、今紡がれている歴史は偽りだと言った。ほとんどの学生はヤバい授業取っちゃったなとしか思っていなかったよ、勿論私も。でも九条は違った。あいつは元々世界への不信感を抱いていた。そんな九条にとってその授業は疑問が確信に変わる衝撃的なものだった。変に賢いと面倒なもんだね。」


沢山話して少し疲れたのか木梅さんはふぅと軽く息を整えていた。

あたしも脳が破裂しそうほどの情報量に押しつぶされないように一呼吸を整える。


「九条はその後、禁書庫を開き日記を見た。無論"天界"が黙っているわけもない。あいつは"天界"によって記憶を消された。その後は平穏な日々が続いた。少ししか続かなかったけどね。ある時だよ、突然何かを思い出したように世界の真実を漁り始めた。あれは亡者だよ。それ以降は桐生さんの知るように大学教授になったわけだ。大学教授になったのも少しでも情報得るためと後継ぎを探してたのかもしれないね。」


遠い過去の記憶を探るように木梅さんは何かに耽っている。その表情が夢の中で律があたしに向けたものに似ている気がしてならなかった。きっと木梅さんにとって景彰先生は大切な友達だったんだ。


「ねぇ桐生さん。九条の託した使命とか忘れて普通に生きない?あいつの使命って自分を大切に思ってくれる人を置いてまですることなのかな?白峯くんもあなたの事を大切に思ってるんだよ。桐生さん覚えてないと思うけど"天界"で記憶を消された時、白峯くん泣くくらい心配してたんだよ。そうご家族もきっと…。」


言葉にものすごい多くの感情が籠もっている。ずっと思っていたことなんだろう。使命や夢、そんなものに命や大切な人たちの思いを無碍にしてまで追い求めるものなのか。そんなの人によって考え方が違うから何でもいいのかもしれない。それでも置いていかれた人たちの気持ちはいつも同じなんだ。


「それでもまだやるの?」


あたしは迷っていた。わからない。どうすればいいのか。律も家族も大切で大好き。期待を裏切りたくなんかない。

でも…それでも景彰先生が最期にあたしを見ていた目を忘れられる気がしない。先生は命をかけてあたしを庇い、そして夢を託してくれた。先生の期待も裏切りたくない。

どうすればいいの…


「そう…迷ってるのね。ここで直ぐ辞める決断が出来ないなら、もう諦められない。」


木梅さんの言う通りだと思う。ここで辞めても最期には戻ってしまうそんな気がする。呪いのようにいつまでも。


「一応約束だから渡しておくね。」


渡されたのは1つの鍵だった。錆びついてはいないものの古い物だと一目で分かった。なんだか鍵があの時拾ったカードに重なる気がした。


「これは九条の研究室の金庫の鍵よ。あいつが生涯をかけて探求したその全てがそこにある。勿論強制はしない。でも…もしまだ追い求めるならそこに行くと色々得られるはず。ただ1つ忘れないでね。私を含めて桐生さんを大切に思っている人は沢山居るってこと。」


あたしは鍵を強く握りしめた。景彰先生の生涯をかけた全て。この鍵の重さは1人の命の重さなのだ。手放さないように、落としてしまわないように、より強く握りしめる。物理的には非常に軽いのに心に係る重さはあたしが持ってきたどんなものよりも重い。これが命の重さなのか。


「ありがとうございます。ゆっくり考えてみます。」


あたしは荷物を持ち図書室を出る。木梅さんはあたしが見えなくなるまでずっと見守っていてくれた。その視線は非常に暖かったが、あたしにはそれが痛くて仕方なかった。


正門まで着いた所で考える。一度帰宅するか、景彰先生の研究室に行くか。


足が震える。寒いからじゃない、ここで研究室に行ったらもう引き返せない。あたしの人生の方向性が確定してしまう。そんな事は行ってみないと分からないはず。だけど嫌な予感がする。


深呼吸をし今も鳴り続けている激しい心臓の鼓動を抑える。少し落ち着いたところで律の言葉を思い出した。


「早矢、何か悩み事があったら言ってください。いつでも助けますよ。」


そうだよ。律のためにもここは無理をする必要はない。

なんなら鍵がある限りいつでも物語を続けられるじゃないか。


帰ろうとした。その時誰かに肩を叩かれた感じがした。ホラー映画やゲームならこういう時、振り返ってはいけない。でもここは現実だ。あたしは反射的に振り返ってしまった。

誰もいなかった物理的には。だけど何かがいるのだ、見えない何か心が作り出した幻影かもしれない。

幻影はあたしに問いかけてくる。


「知りたくないのですか?ああ、分かりますよ、怖いのでしょ。ここで帰れば楽になれる、怖い思いをしなくて済む。ですが本当にそれでいいのでしょうか?貴方は世界の真実にまた一歩近づく術を手に入れた。なのになぜここで引き下がろうとしているのか。貴方の好奇心はそんなもの何ですか?

…はぁ、ガッカリです。私は無駄死にでしたね。」


景彰先生の幻影なのか、いやそれはない。たとえあたしが先生の夢を諦めても先生はそんな事言わない。


あたしは鍵をより強く握りしめる。強く握れば握るほど幻影がより濃く存在している気がする。先生は後悔のない顔をしていた。でも、本当はもっと生きていたかったかもしれない、自分自身の手で真実を知りたかったかもしれない。


あたしはただ立ち尽くしていた。罪悪感が鎖のように体に絡みつき動けない。


決断が出来ない。もうどうすればいいのか分からず空を見上げる。宙にはあたしを導く星はなく、永遠にも続きそうな暗黒しかなかった。








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