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虚空に咲く樹  作者: ヒンドゥー


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6/6

「無意識が意識化されない限り、それはあなたの人生を支配し、 あなたはそれを運命と呼ぶだろう」

初夏の熱をはらんだ風が、廃校の廊下を通り抜けていく。

瑠衣那は、研究室の古びた扉を前に立ち止まっていた。

湿気を吸って歪んだ木製の扉は、時の重みに耐えかねたように、開けるのにも一苦労を強いる。力を込めて押し開けると、錆びついた蝶番が悲鳴のような音を立てた。

今日は、研究チームにとって二度目の集いである。

各々が持ち寄った「沈黙症状群」に関する知識を共有し、これからの暗い夜道を歩むための計画を立てる場だ。

私はパソコンを開き、昨夜遅くまで練り上げたスライドを最終確認する。内容に不備はない。

ふと時計に目をやると、集合時間の一時間前だった。張り切りすぎたか、少々早く着きすぎたようだ。

静まり返った部屋に一人でいると、強烈な眠気が波のように押し寄せてきた。

資料作りと情報収集に没頭した報いだろう。最近の平均睡眠時間は四時間を切っている。

(少しだけ……目を閉じよう)

アラームを三十分後にセットし、スマートフォンの画面を伏せる。私は瞼の重みに身を任せた。




暗闇と、静寂。

瑠衣那の夢の中は、底知れない闇が支配する虚空だった。

ギイ……ギイ……。

麻縄が擦れる、乾いた音が鼓膜を叩く。

その空虚な世界にあるのは、井戸と二人の子供、そして巨大な樹。

一人の子供が井戸の底で水を掬い、もう一人の子供が桶で樹に水をかけている。

いつから見始めたのかも覚えていないほど、この夢は幾度となく繰り返されてきた。

最初の頃はか細い芽に過ぎなかった樹は、今や視界を覆い尽くすほどの大樹へと成長している。

この樹はどこまで大きくなるのだろう。いつか実を成す日は来るのだろうか。

私は幾度となく子供たちに問いかけた。けれど、返ってくる言葉はない。ただ、深淵のような瞳で睨みつけられるだけ。

いつしか私は、遠くから見守るだけの観客になっていた。

出口のない夢。私は永遠に、この虚空を見つめ続けるのだろうか。






「……起きろ。時間だ」

慧悟の低い声に弾かれたように飛び起きると、そこにはすでに全員が集まっていた。

スマホの画面は、予定の時間を数分過ぎている。アラームには気づかなかったようだ。


「喋っていても起きないとは、随分お疲れのようですね。無理はいけませんよ」


律人が眼鏡の奥で、心底心配そうに目を細める。


「律の言う通りだよ! 無理は絶対ダメだからね!」


早矢が身を乗り出して元気に付け加える。

誰かに気遣われることなど、いつ以来だろう。

沈黙症状群という亡霊を追いかける日々に忙殺され、自分を省みることなど忘れていた。私は小さく溜息をつき、反省を胸に刻む。


「そうだね。これからはちゃんと休むようにするよ」


ゴトッ、と私の前にカップが置かれた。

立ち上る湯気と共に、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。


「疲れた時にはコーヒーが一番だ。砂糖か牛乳は入れるかい?」


柊一が、その場に不釣り合いなほど優雅な所作で微笑んでいた。


「じゃあ……両方を少しだけいただこうかな」


ほんのりとした甘みが、目覚めたばかりの脳にじわりと染み渡る。


普段コーヒーを飲まない私でも、これが一級品であることはわかった。


(流石は柊一さん。“天界”の住人は、嗜好品にかける桁が違うな……)


「コーヒーを楽しんでいるところ悪いが、さっさと本題に入らないか」


玲火が鞄から無造作に資料を取り出し、苛立ち混じりに告げる。


「玲火、今日は本題の前に決めておきたいことがあるの」


私の言葉に、室内の視線が一斉にこちらへ向く。好奇心と、わずかな緊張が混ざり合う。


「それは……研究チームの名前を決めることよ」


「……名前か」


慧悟が、そんなものは記号に過ぎないとでも言いたげな、冷めた溜息をつく。

「名前いいね! ぜひ決めようよ!」

「そうですね。名称があることで団結力も高まります。併せて、ここでの『ルール』も策定しておきたいところです」

早矢と律人が早速、思考を巡らせ始める。

「決めるのは構わんが、急に言われても案なんてないぞ」

玲火が不満げに肩をすくめ、数人がそれに頷く。

「私はね、今ここでみんなと一緒に考えたいの。それぞれの価値観を知ることが、仲を深める一番の近道だと思うから」

「僕も同感だ。"Walk a mile in someone's shoes."って言うだろ。」


柊一がコーヒーをすすりながら口を開く。周囲が怪訝な顔をする中、口を閉ざしていた結珠が反応を見せた。


「蒼斗、良いことを言うではないか。貴様はただの贅沢に耽るお坊ちゃまかと思っていたが、なかなか筋が良い。外の彩りは仮の姿、真は胸の奥に宿るものだな。……さて、

"Walk a mile in someone's shoes."――それは『相手の靴を履いて一マイル歩いてみよ』という意味だ。他者の立場に立ち、その痛みを知ること。共感の本質を表した言葉だよ。」


結珠の射抜くような視線に、柊一が身を硬くする。蛇に睨まれた蛙、という言葉がこれほど似合う光景も珍しい。


「どうしてお前らみたいな手合いは、そうやって回りくどい言葉を好むのか、理解できんな」


玲火が吐き捨てる。一触即発の気配に、私は慌てて仲裁に入ろうとする。


「ごめんね、知らないとは思わなかった。幼少期に家庭教師や先生から教わるものだと思っていたから……」


柊一の言葉に、悪意は感じられない。けれど、その純粋すぎる選民意識は、どこまでも鼻につくものだった。

("天界"に住む人は、受けてきた教育の前提からして違うかしら?……)


「煽ってんのかお前。それくらい知ってる、300年前に存在したアメリカという国で使われる慣用句だろ。」


予想通り、玲火の導火線に火がついた。


「はいはい、喧嘩はそこまで。チーム名を決めるのは異論ないわね? だったら早く候補を出しなさい」


麻耶が冷ややかに介入し、私に視線を促す。


「……シンプルに『沈黙症状群解析チーム』でいい」


最初に手を挙げた慧悟の案に、維真と律人が事務的に頷く。


「つまんない。却下でーす」


私は即座に断じた。

慧悟たちは納得いってないようだが、最初から平凡な名前を付ける気は毛頭ない。

私達の研究は世間では認められてない。研究費も出してくれる所も少ない。学術会にだって出れるかも分からない。だったら自分達が愛着が湧くような名前をつけたいんだ。この研究をメンバーを好きになってほしい。家族のように、親友のように思えるように。

突然扉が開いた。


「すんません。遅れました」


匡輔だ。寝坊していた私は、彼が欠席していることに今の今まで気づかなかった。

ボサボサの頭に、隠しきれない酒の臭い。相変わらずのだらしなさだ。


「きょーちゃん、もう始まってるよ。また夜遅くまで作業してたの?」


実は、匡輔とは高校の頃からの付き合いだが、時間を守れることはなかなかないし、生活習慣も悪いいわゆるズボラだ。高校生の頃からほとんど変わらない雰囲気に安心すら覚える。


「芦屋くん。体臭のケアをしてきてって、前回言わなかったかしら?」


麻耶が顔をしかめると、慧悟と律人が鞄から取り出した除菌スプレーを、無言で、かつ容赦なく匡輔に浴びせ始めた。


「……芦屋さん。次回は持ってきませんので、自力で解決してください」


律人がゴミを見るような目で言い放つ。


「はいはい、わかったよ。……で、今は何を決めてんだ?」


匡輔が頭をかきながら席に着く。


「チーム名とルールよ。きょーちゃん、何かいい案ある?」


「俺に聞くのか? そうだな……『永遠の門の前』なんてどうだ」


「それゴッホの晩年の作品でしょ。思いつきで言わないで」


麻耶のツッコミに、匡輔はばつが悪そうに私へ視線を投げてきた。

正直なところ、私の中にもこれといった決定打はなかった。

私は一度、円卓を囲むメンバーを見渡した。

早矢のしなやかな好奇心、律人の凛々しい律儀さ、志保の繊細な震え、匡輔の泥臭い執着、麻耶の冷徹な美、玲火の燃え盛る怒り、柊一の余裕、結珠の底知れぬ狂気、維真の泰然自若とした構え。そして、すべてを俯瞰する慧悟の知性。


「……私はね、こう思うの」


私が声を発した瞬間、室内の空気の粒子が、スッと整列したように感じられた。


「私たちは“沈黙”という、誰も手をつけたがらない未踏の領域に挑もうとしている。医学でも心理学でも、まだ名もなき場所を歩いているのよ」


私は机に置かれた資料を、指先で静かに叩く。


「だったら、ただの『解析チーム』じゃ物足りない。私たち自身が、外界の理不尽から真実を守る“無名の学者たちの城”になりたい。沈黙の荒野に、反逆の旗を立てる。――そんな名前がいい」


一瞬の沈黙。

その静寂を、柊一の感心したような笑い声が破った。


「なるほど、“学者の城”か。響きは悪くないね」


「城、か……。閉鎖的な砦ではなく、外に向けて真理を叫ぶための拠点なら、悪くはない」


維真が深く頷く。


「かっこいいです! 賛成!」


「俺もそれでいいんじゃねーかな」


賛成の声が次々と上がる。部屋を包む空気が、穏やかな肯定へと塗り替えられていった。

だが、結珠だけは私をじっと見据えたまま、唇を動かした。


「言葉は力を持つ。名を定めるなら、その重みも理解せよ。外に向かう“城”とするなら、相応の攻撃も受けるだろうよ」

私は瞬きの間に思考を研ぎ澄まし、結珠の警告を受け止めた。

「もちろん、責任は理解している。でも、名前が必要なのよ。無名なままでは、誰もここを“居場所”だとは思えない。私たちが闘う決意を固めるための旗が、今、必要なの」


「名は象徴だ。誇りが宿る。だが、それをお飾りにすれば嘲笑の的に変わるぞ」


玲火が釘を刺すように付け加えた。結珠は満足したのか、かすかに口角を上げて目を閉じた。


「なんなんだコイツは、蒼斗といいやかまし奴ばかりで腹が立つな。」



「……長いな。そろそろ本題に入ろう」


「ええ、そうね。啀み合いはここまでよ」


慧悟と麻耶の声が重なり、会議は次のフェーズへと進む。

スクリーンの画面が切り替わった。


【ー沈黙症状群(仮称)の概要ー】

その文字が表示された瞬間、冗談の入り込む余地は完全に消滅した。


「今日の本題に入ります。私の見解では、沈黙症状群は単なる『失語』ではありません。感情の平坦化、対人応答の鈍麻、自己の喪失感……それらが絡み合い、語る主体そのものが曖昧になる状態ではないかと考えています」


スライドには、私が全国の大学病院を回り、拒絶されながらも集めた統計データが表示される。

全精神病患者のうち、沈黙症状群に該当する可能性がある者は三割から四割。


「この数値は氷山の一角です。スラム街であり治安の悪い“冥下めいか”や、診察を受けていない潜在的な患者を含めれば、被害はさらに甚大でしょう」


私は一度言葉を切り、席に座った。


「……患者の数を把握できない限り、この病の危険性を証明するのは難しい。支援のない現状では限界があるな」


維真が淡々と、しかし残酷な現実を突きつける。


「倫理審査、統計的妥当性……どれをとっても、今の体制では“論文以前”の話です」


律人の言葉が、ナイフのように胸に刺さる。否定ではない、ただの事実だからこそ痛かった。


「だったら辞めんのか?」


玲火が低く吐き捨てた。



「テメーら何となくでこの研究に参加したわけじゃないだろ?各々沈黙症状群に思う事があったんだろ。瑠衣那の演説に魅入られたのもあるんだろうが、覚悟持ってここに来てんなら、そんな腑抜けたこと言ってる暇あんのか?」


玲火の言葉は、感情というより刃物だった。

鋭く、容赦なく、場の空気を切り裂く。

私は、玲火のその言葉に宿る強い炎を感じた。玲火の心の中にある怒りの炎は強く矛先を間違えれば星すら焼き尽くしてしまいそうに思えた。思い出した。災いのような炎の心を持つ人を。私は、玲火と昔会ったことがあるのだ。


まだ、大学生の頃だった。私はこの頃から沈黙症状群について人々に訴えかけてきた。もちろん、聞く耳を持ってくれる人などおらず、鼻で笑われるばかりだった。私は普段"地上"で演説をしていたが、成果のない毎日に自暴自棄になっていた。ある時、気分転換に"冥下"で演説をしてみようと考えた。身の危険など分かっていた。だけど、私は行ってしまった。結果など分かっていた。演説どころではなく、金目のものを奪おうと悪党に襲われた。死を覚悟し、目の前が真っ暗になった。


「"地上"の人間が"冥下"に来るなんて、バカなのか?」


一瞬の出来事だった。数十人はいた悪党は全員気絶していた。


「死に急ぐ真似なんてすんな、どれほどの大義があろうと死んだらそれで終わりだ。生きてなきゃダメなんだ。理解したか?」


その声は、荒くて、低くて、しかし不思議なほど真っ直ぐだった。

あの時の私は、地面に倒れ、視界も定まらず、ただ必死に呼吸をしていた。

目の前に立つその人物の顔は、逆光でよく見えなかった。

ただ――

燃えるような熱だけが、そこにあった。


「……理解、したか?」


その問いに、私はただ何度も頷くことしかできなかった。

恐怖ではない。

あれほど近くで“生”を叩きつけられたことが、なかったからだ。

気づいた時には、その人物はもういなかった。

"冥下"の路地には、倒れ伏す悪党たちと、静寂だけが残っていた。

――あれから、私は生き延びた。

沈黙症状群を追い続けている。

そして今。

目の前にいる玲火と、あの時の“炎”が、重なって見えた。


「……」


「感情論で語っても、研究は進まないよ。玲火…」


静寂を切り開いたのは、意外にも柊一だった。

低く圧を感じたが、優しく慈悲のある声だった。玲火の怒りの炎とは対を成す慈悲の氷のようだった。


「資料を配る。みんな目を通してほしい。」


配られた資料は、沈黙症状群に該当するであろう患者の事が書かれていた。その中には、私の知らない情報も多々書かれていた。


「天理家初代当主である天理赫天てんりかくてんが300年前に起きた第三次世界大戦ーー通称ーー世界統一戦争で各国を降伏させてから今に至るまで様々な手記で沈黙症状群に近しい精神病について記述されている。明確な症状については書かれていないが、僕の情報が正しければ、"沈黙症状群"は存在する。」


「僕も、それなりに歴史関する知識を持ってはいますが、そのような手記や記述に関する事を聞いたことないです。」


維真が疑心を持って問う。


「それはそうさ、これは"天界"の図書館に保存されていた情報だからね。天理家やそれを囲う権力者達、すなわちこの国を支配する者たちである"天界"しか閲覧できないものだ。だから知らなくて当然さ。」


「"地上"の人達では見れない資料ということは、"天界"が何か隠したいという事でしょうか」


律人が問いかける。


「そうだ、それこそが"沈黙症状群"が存在するという証拠だ。存在しないなら隠蔽する必要はないからな。」


一瞬、誰も言葉を発さなかった。

論理としては、あまりにも端的で、そして鋭い。

最初に反応したのは、慧悟だった。


「……短絡的だな。」


腕を組んだまま、視線も上げずに言う。


「存在しないから隠す必要がないとは限らない。存在しなくとも、存在すると誤認されること自体が危険な場合もある。だが、それは誤認される可能性があると判断した主体がいる、という事実を示す。つまり、“沈黙”が社会的影響を及ぼしうると、"天界"は理解しているということだ。“触れてはならない”と判断された時点で、それはすでに現実的な力を持つ概念だ。」


「待ってそれなら、沈黙症状群の研究をするのは"天界"にとって都合が悪いのよね?このまま、研究を続けて大丈夫なのかしら。」



「…最もな疑問だ。しかし、案ずる必要はない。」


麻耶の疑問に対して慧吾は淡々返答する。


「俺が"理"に留学した時に"天界"が所要する研究所に行ったことがある。俺はそこで"天界"が"地上"や"冥下"を監視するプロトコルAIがあることに気づいた。興味本位で、ハッキングをしてみた。当然だが、ハッキングは失敗した。たがAIの法則性について情報を得る事ができた。」


突然の事に皆驚愕していた。


「そんな事して大丈夫なの?逆ハッキングとかされてバレたらヤバいんじゃ?AIの法則性?」


私は驚きのあまり質問責めをしそうになった。


「…安心しろ逆ハッキングされるような失敗はしない。」


慧悟は少しだけ視線を落とし、思考を整理するように間を置いた。


「まず前提を訂正しておく。“天界”の監視システムは、誰かが直接こちらを覗いている仕組みじゃない」

彼は指先で机をなぞりながら続けた。


「人間が張り付いて監視する方式は、規模が大きくなるほど破綻する。だからあれは構造そのものが監視になるよう設計されている」


誰も口を挟まない。慧悟はそれを確認してから話を進めた。


「全体は大きく三層に分かれている。

第一層、収集。

第二層、整形。

第三層、判断だ」


彼は空中に、見えない箱を三つ積み上げる仕草をした。


「第一層では、とにかくデータを集める。映像、音声、通信記録、金の流れ、位置の履歴、文章、投稿、会話の断片。重要なのは単体では意味を持たないデータも、全部残すという点だ」


「盗聴とか監視カメラみたいな話?」


と、誰かが恐る恐る尋ねる。

慧悟は首を振った。


「それは氷山の一角だ。むしろ行動の“副産物”が主役になる。何時に動いたか、どこに滞在したか、どんな語彙を使ったか、誰と同時期に似た発言をしたか。本人が意識しない部分ほど価値が高い」

空気が少し冷える。


「第二層では、それらをそのまま扱わない。映像は数値に、文章は特徴量に、行動は時系列のパターンに分解される。

要するに、“人”を一度バラして、比較可能な情報の集合体に作り替える」


「……人じゃなくなるってことか」


匡輔の呟きに、慧悟は否定も肯定もしなかった。


「ここで個人名は消える。代わりに匿名化された識別子が付く。表向きはプライバシーに配慮しているように見えるが、行動の連続性は保たれる。

名前を忘れても、癖は忘れない」

誰かが小さく息を吸った。


「そして第三層。ここが監視システムの本体だ」


慧悟の声が、わずかに低くなる。


「過去の膨大なデータから、“平常”が定義される。

どんな行動が、どの頻度で、どの順序で起きるのか。

それを確率分布として学習する」


「……で?」


「そこから外れたものを、異常として数値化する」


慧悟は淡々と言った。


「一つの行動だけでは引っかからない。だが、言葉の変化、接触関係、行動速度、拡散の仕方――それらが同時にズレると、スコアが跳ね上がる」

律人が眉をひそめる。


「それはつまり……」


「ああ」


慧悟は頷いた。


「新しい思想、未知の結びつき、社会的な動員の芽。そういったものを、人が理解する前に“異常”として検出するための仕組みだ」


沈黙が落ちた。


「じゃあさ」


匡輔が半ば投げやりに言った。


「俺たちが今ここで話してることも、論文も、全部チェックされてるってこと?」


慧悟は少し考え、正確な言葉を選ぶ。


「見られているわけじゃない。

ただ、平均との差分として保存されている」


「最悪じゃん……」


慧悟は最後に、静かに付け加えた。


「さらに厄介なのは、監視が行動を変え、変わった行動をまた学習する点だ。

人が萎縮すれば、それが新しい平常になる。

すると次の変化は、より目立つ」


「じゃあ詰んでるってことか?」


玲火は腕を組み、この苦しい状況に苛ついている。


しばらく沈黙が続いたあと、慧悟が口を開いた。


「……対策がないわけじゃない」


その一言に、全員の視線が集まる。


「ただし、完全に逃げる発想は捨てろ。あの監視システムは網じゃない。空気みたいなものだ。避けるんじゃなく、同化しながらズラす。」


「もう意味がわからん」


匡輔が即座に白旗を上げる。

慧悟は気にせず続けた。


「第一に、情報の集中を避ける。

一つの論文、一つの議論、一人の発信者に“新規性”が集まると、異常として目立つ。だから分ける」


「分ける?」


「概念を分割する。仮説、用語、問題提起を別々の場所、別々の人間、別々の時間に出す。

監視システムは“まとまった変化”に強いが、“点在した微差”には弱い」

律人がゆっくり頷いた。


「全体像を、誰にも一度に見せない……」


「そうだ」


慧悟は指を一本立てた。


「第二に、速度を制御する。

急激な拡散は異常値を跳ね上げる。だから段階的に広げる。反応が落ち着いたのを確認してから次へ進む」


「バズらせない、ってこと?」


「近いが違う。バズる前に止める。予測可能な範囲で成長させる。監視システムは“予測できる変化”には警戒しない」


誰かが小さく舌打ちした。


「面倒くさ……」


「面倒だから有効なんだ」


慧悟は淡々と言った。


「第三に、意味の揺らぎを残す」


「それは?」


「一つの言葉に、一つの定義を与えない。

文脈ごとに少しずつ意味を変える。

監視システムは“安定した対応関係”を学習する。揺らぎが大きいと、モデルが収束しない」


「わざと曖昧にするってことか」


「正確には、人間には伝わるが、機械には確定できない状態を維持する」


場の空気が、さらに張り詰める。


「最後に」


慧悟は一拍置いた。


「監視されている前提で、ノイズを含める」


「ノイズ?」

「無意味な議論、失敗した仮説、途中で捨てた考え。

それらを意図的に残す。成功例だけを積み上げると、学習が速くなる」


匡輔が目を丸くした。


「わざと遠回りするってこと?」


「そうだ。効率を落とす。監視システムの学習効率を、こちらから下げる」


しばらく誰も話さなかった。


やがて律人が、静かにまとめる。


「つまり……

・一気にやらない

・一人でやらない

・はっきり言い切らない

・無駄を残す

そういうことですね」


慧悟はわずかに口角を上げた。


「理解としては、それで十分だ」


「……し、質問いいですか…?」


志保が小さく手を挙げている。


「…ぁあの、ぃ今の話は時間稼ぎをするって事らしいですけど、、ど、どれくらい時間を稼げるんですか?

研究によっては結構時間かかるかもしれないし大丈夫なのかなと、、 急に変な事言ってごめんなさい、。」


私たちが、考えていた。純粋な疑問を投げかけた。


「…………」


「…………」


慧悟は答えない。恐らく、そこまで分析できなかった所に図星を刺され苦しんでいる。


「志保、大事な事を良く聞いてくれたありがとう。じゃあ"天界"に住んでる奴に聞けばいいじゃないか。」


玲火は笑顔で志保にお礼を言いながら顎で柊一を指した。 柊一は慌てて答える。


「いやー申し訳ないけど、本当に知らないんだよ。僕を含めて"天界"の人達も知ってる人はほとんどいないはず。そもそも、そんなものがあるなんて噂程度でしか聞いたことなかったんだ。」


「あ?役に立たないな腰抜けが。」


私も柊一の答えに期待したため、ガッカリしてしまったが、玲火は少し怒りすぎだと思う。


「…………2年から3年というところか…

憶測だが他にリソースを割かないといけない事案が多ければより時間を稼ぐ事ができるはずだ…」


"黎明の星"の異名を持つ慧悟が曖昧な回答をしたことにより場は不安に駆られた。


「あーもう!そんな事気にしても仕方ないでしょ。それに2年くらいは持つんだからそれまでに新しい対策を立てれば解決じゃない。」


麻耶の言葉に一瞬、空気がふっと和らいだ。


「そうだよみんな!!クヨクヨしてても仕方ないよ!目標達成のために前進だー!!」


ポジティブで元気をくれるような早矢の声が響き場がより良い雰囲気へと流れた。

その声に引きずられるように、重く沈んでいた空気が少しだけ上向いた。

誰かが小さく笑い、椅子の軋む音がして、会議室にようやく「呼吸」が戻る。

慧悟はその様子を一歩引いたところから眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……早矢の言う通りだ。恐怖に最適化された行動は、監視システムにとっても最も扱いやすい。過剰に怯えれば、それ自体が“特徴量”になる」


「うわ、また難しい言い方」


匡輔が肩をすくめる。


「要するに、ビビりすぎるなってことだよな?」


「そうだ」


慧悟は即答した。私はふと腕時計を見た。開始から2時間近く経っており、予定よりもずっと長く討論にしていた。


「みんな、そろそろいい時間だし、切り上げない?」


皆一度時計を確認するなり頷いた。

私は一度深く息を吐き、ホワイトボードの前に立った。

そこには、先ほどまでの激論の跡が、乱雑な図形や数式、そして「学者の城」という力強い文字と共に残されている。


「よし。今日の議論をまとめるね」


私はマジックを手に取り、全員の顔を見渡した。


「私たちは今日、ただ名前を決めただけじゃない。この世界を覆う“監視の目”の正体を知り、それに対してどう抗うかの術を共有した。これから私たちが進む道は、普通の研究じゃない。いわば、『情報のゲリラ戦』よ。

各自、自分の専門領域で“沈黙症状群”の証拠を集めて。ただし、それをこの部屋以外で『研究』と呼ばないこと。慧悟が言った通り、日常のノイズに溶け込ませる感じでね」


「……了解だ。俺は、“天界”の監視システムに対抗する術をもう少し模索する。維真、本来は俺が担当すべき医学に関する状況を、お前に頼みたい」


「承知しました。天城先生」


維真は慧悟に一礼し、静かに告げた。


「あたしは、古本屋の買い取りリストに偽装して、歴史的な記述を洗ってみるよ!」


早矢がノートを閉じながら意気揚々と語る。


「瑠衣那。“冥下”での情報収集は私に任せてくれないか? 少し伝がある」


「ええ、お願い。玲火だから頼めることだわ。」


私は彼女をまっすぐに見つめて答えた。

各々が、自分の日常という戦場で何をすべきかを理解したようだった。


「今日の会議はこれで終了! 次回はまた一週間後、この場所で。それぞれ頑張ろう」


瑠衣那の言葉に、椅子を引く音が重なる。

窓の外は、いつの間にか初夏の宵闇に包まれていた。山奥の廃校を包む静寂は、以前よりもずっと深く、そして意味を帯びているように感じられた。

一人、また一人と「城」を去っていく。

最後に残った瑠衣那は、誰もいなくなった円卓を見つめた。

目の前の風景がかすむ。瞬きをすると、先ほどまで会議室にいたはずなのに、目に映る景色は何十年も前の小学校の教室だった。


「るいなちゃ〜ん、こんなとこでなにしてるの? もうみんなかえっちゃったよ」


私に話しかけて来たのは、かつての親友だった女の子だった。声も雰囲気も、私の意識は「親友だ」と確信している。なのに何故か、顔も名前も靄がかかっているように思い出せない。

(あれ? 小学校を卒業した後、この子はどうなったんだっけ?)

私が人を助けると、この子はいつも褒めてくれた。それが何より嬉しかった。

私は両親に褒められたことなど、一度もなかったのだ。


「お前なんて産む気なんてなかった。いらないから早く死んでくれ」


それが母の口癖だった。父の財産と名字を手に入れることで、“天界”へ上がるための踏み台にする。母は私をそのための道具としか見ていなかった。

父も母の狙いが分かって以降は、私に日常的に暴力を振るっていた。

けれど、私はそれを「嫌だ」とは思わなかった。むしろ「可哀想だ」と思った。

二人とも、無色透明で何もない、空っぽな心を持っていたからだ。

二人には笑って欲しかった。だから、私は必死に努力をした。家事もすべてこなし、面白い話もたくさん用意した。

けれど、二人の不仲は日に日に増し、最期にはお互いを殺し合ってしまった。

悔しかった。悲しい心を持つ二人を、結局救えなかったことが。

それ以降、私はひたすら人を助けることに執着した。

けれど、人を助けることは簡単ではなかった。過剰な善意は「鬱陶しい」と疎まれ、人助けをしているはずなのに嫌味を言われてばかりだった。

そんな中、この女の子だけは、私の善意を受け入れてくれた。私の行う「人助け」に、本当の意味を与えてくれた。

まさに恩人。私の運命を大きく変えてくれた人。

……なのに、思い出せない。


「おそいから、先かえるよ〜」


女の子が教室を出ようとする。


「待って!」


私は咄嗟に引き留めようと手を伸ばす。

けれど、そこにはもう女の子はおらず、教室も会議室に戻っていた。

ふと床を見てみると、額から流れた大量の汗が滴っていた。悪寒が凄まじく、手足の震えが止まらない。

さっきの光景は、私の中で封印しておきたい過去のものだと、何となく感じた。

それと同時に、私は「知らなければいけない」とも確信していた。

窓の外に目をやる。

夜の帳が下りた世界には、激しい豪雨が降り注いでいた。

それはまるで、私の心象を表すようであり、これからの過酷な運命を指し示しているようでもあった。

私たちは「運命」という言葉で、説明のつかない選択や繰り返しを片づけてしまいがちである。

なぜ同じ人間関係でつまずくのか、なぜ同じ失敗を選んでしまうのか。

そこに目を向けずにいる限り、人生は自分の手を離れ、何かに動かされている感覚だけが残る。

だが、無意識に光を当てた瞬間から状況は変わる。

恐れ、怒り、劣等感、過去の記憶——それらを「なかったこと」にするのではなく、「自分の一部」として認識したとき、人は初めて選択できるようになる。

運命だと思っていたものは、実は気づかれないまま働いていた自分自身だったのだと知る。

人生を変える第一歩は、環境を変えることでも、他人を変えることでもない。

自分の内側で何が起きているのかを、正直に見つめること。

そこから先は、もはや運命ではなく、あなた自身の意志になる。

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