拉致
「う……」
久遠慎は、意識の底に澱のように沈んでいた深い闇から、ゆっくりと這い上がった。
視界はない。
頭をすっぽりと覆う麻袋の、ささくれだった感触と埃っぽい匂いが鼻を突く。手首は背後で無慈悲に拘束され、硬いパイプ椅子の冷たさが臀部から伝わってきた。さらに、足首も椅子の脚に固定されており、自由は完全に奪われている。
「……?」
慎は即座に状況を分析する。既にスマホは取り上げられているらしいが、呼吸は安定しているし、心拍数も正常だ。痛みは無いし、身体は特にどうも無いようだ。だが、鼻腔に残る微かな刺激臭――。
(クロロホルム……。袋に仕込んであったか)
思考が、数時間前の出来事を鮮明に手繰り寄せる。それは、夏休みのある日、麗奈のアパートに夕食の差し入れを届けた帰り道だった。ポケットの中のスマートフォンが、冷淡な電子音を鳴らした。画面に表示されたのは、見覚えのない番号からのメッセージ。
『久遠慎。●●●丁目の▼▼▼公園に来い。さもないと□□□園に――』
そこに添付されていたのは、施設の窓際で小皿を並べる長田や近くにいる茜、真田達の盗撮写真。画角からして隣のビルか電柱の影。撮影者はプロではないが、確実に彼らの命を射程に捉えているという意思表示だった。
慎は迷わなかった。逃げれば皆が危ない。その場で戦うにもリスクがある。ならば、まずは相手の懐に入るのが定石だ。彼は指定された公園へと足を運び、待ち構えていたトラックの荷台へ自らの意志で乗り込んだ。そして、甘い臭いのする袋を被せられ、今に至る。
突然、頭から袋が剥ぎ取られた。
眩い蛍光灯の光が網膜を焼き、慎はわずかに目を細める。
「ようやくお目覚めかよ。この糞ガキ」
人相の悪い男たちの顔が、ずらりと並んでいた。場違いなほど清潔な、それでいて窓一つない密室。そこには、暴力の匂いと、さらにその上層にある冷徹な「システム」の気配が漂っている。
「けっ、こんなガキに松尾の奴はしくじったのかよ。情けねぇ話だ。あれか? 油断して金的でも食らったか?」
「ああ。しかし、面構えだけは一丁前だな」
慎を嘲笑する男たち。松尾を知っている所から見て、恐らく彼らは松尾を動かしていた組織の連中だだろう。松尾が引き起こした「回収失敗」という損失と、今川秀朗という集金システムを破壊された怒り。それを何らかの形で埋め合わせようとしているのかもしれないと、慎は考えた
「……俺をどうする気だ?」
慎が声を出す。その響きには、恐怖も、焦燥も、懇願の欠片もなかった。静まり返った水面のような声。それが、かえって男たちの神経を逆なでした。
「……馬鹿な奴だったとは言え、松尾を潰しただけの事はあるな。ガキにしちゃあ肝が据わってやがる。気に入らねぇな、その目。まるでこっちが品定めされてる気分だぜ」
リーダー格らしき男が一歩前に出た。男は慎の胸ぐらを掴み、その顔を覗き込む。慎の瞳は、目の前の暴力を反射する鏡のように、ただ無感情だった。
「質問に答えろよ。俺をここに連れてきた目的は何だ?」
「黙れ!!」
男の拳が、慎の頬を強く殴りつけた。
肉と骨がぶつかる鈍い音。衝撃で慎の頭が横に流れる。椅子がガタリと音を立てて傾き、慎の口内が切れて鉄の味が広がった。
だが。
(……ふん。この程度は痒いだけだ)
慎はゆっくりと首を戻し、殴った男の目を真っ直ぐに見据えた。口角から一筋の血が流れるが、その表情には一片の揺らぎもない。むしろ、その瞳に宿る暗く深い光は不気味な圧を放っていた。
「……っ!? てめぇ……なんだその目は。痛くねぇのかよ」
男たちの間に、動揺が走る。この反応は彼らが知る「ガキ」の反応ではない。通常なら、一撃で泣き叫び、許しを乞うはずだ。目の前の少年は、それがまるで無い上にこちらを睨んでいる。
「ちっ、気味の悪いガキだな……可愛げがまるでねぇ。機械でも殴った気分だぜ」
「おい、どうやらこいつは簡単に折れるタマじゃ無いな、ガキにしては異常だ」
「ああ、そうだな。もういい、時間の無駄だ。上の『予定』には間に合うだろう。ちょうど『変わり種』が欲しいって言われてたところだ」
リーダーの合図で、数人の男たちが慎を椅子から引き摺り下ろした。慎は抗うことなく、泥のような重さでその動きに従う。暴れれば動けなくなるまで痛めつけられるか、薬で眠らされるか、さもなくば始末されるかのいずれかだろう。それよりは、拘束されたまま目的地へ運ばれる方が、反撃の機会を伺いやすい。
「質問には、あっちで答えてもらうことになる。精々、お前のその『丈夫な身体』がどこまで保つか、見世物として客を楽しませてくれや。お前を売れば、松尾が失った金の倍は回収できるんでな」
「…………」(『客』だと…?)
引き摺られる慎の視界が、再び暗い通路へと吸い込まれていく。
背後で閉まる重厚な鉄扉の音。慎は暗闇の中で、静かに、そして深く息を吐いた。
(施設の皆は無事か。……こいつらの標的が俺に移ったのなら、まずはそれでいい…下手をすれば麗奈さんにも危害が及ぶかもしれないからな)
彼は暗闇の先を見据えた。




