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閑話・健次郎の小説…その②

佳山家を巡る「見合い騒動」という激動が一段落し、慎はようやく施設の自室で一息ついていた。


そんな折、スマートフォンに一通のメールが届いた。送り主は桜田健次郎だ。


『慎、新作が書き上がった。前にお前に話した「俺たちの疑念」を、ある種の思考実験として形にしてみたんだ。感想を聞かせてくれ』


慎は苦笑した。健次郎の書く小説は、常に毒が強く、現実の裏側を抉るような鋭さがある。彼はベッドに横たわり、添付されたファイルを展開した。


――――――


小説:偽史の皇帝と空疎な記憶


テラール王立学院。その瑞々しい新緑が眩い陽光に照らされ、世界は祝福に満ちているように見えた。しかし、その穏やかな景色とは裏腹に、校舎の裏庭では、神経を逆なでするような冷たい視線が交錯していた。


「ああもう! また失敗したじゃないの!!」


セリア・シルフィは、可憐な唇を噛み切りそうなほど強く噛みしめた。ピンクブロンドの髪を揺らし、聖女のような微笑みを絶やさない彼女の正体は、この乙女ゲーム『クリスタルの迷宮で…』の世界にヒロインとして転生した現代人――そのはずだった。


彼女は知っていた。この世界の「攻略対象」である貴公子たちが、どれほど甘く、自分を愛してくれるはずだったかを。だが、現実は残酷だった。


「どうして……どうして誰も私を向かないの!? 完璧なはずよ、イベントも、選択肢も!!」


彼女の憎悪の先には、この世界の「悪役令嬢」であるレイア・フォン・ラナードがいた。本来ならヒロインを虐め抜き、最後には無様に破滅するはずの女。しかし、今のレイアは冷徹なまでに隙がなく、セリアの付け入る隙を一切与えない。


実は、レイアもまた「転生者」だった。彼女は自らの破滅フラグを回避するため、学問と社交に心血を注ぎ、攻略対象たちとはあえて適切な距離を保つことで、自身の安全圏を築き上げていたのだ。


「セリア様」


レイアが低く、冷ややかな声で呼びかけた。周囲に人がいないことを確認し、彼女は警戒を剥き出しにする。


「貴女、さっきの茶会で私のカップに何を混ぜようとしたの? 騎士団の詰め所に報告してもいいのですよ」


「……あらら、何のことかしら?」


セリアは白々しく微笑む。だが、その瞳の奥には昏い殺意が宿っていた。

これまでに何度も暗殺を試みた。階段からの突き落とし、馬の暴走、毒。しかし、その全てがレイアの異常なまでの「察しの良さ」によって未然に防がれている。


(やっぱりレイアも中身が入れ替わった転生者だわ…!このままじゃ、私の『ハッピーエンド』が手に入らない。あの悪役令嬢さえシナリオ通りに動けば、全てが上手く行くはずなのに!!)


一方、レイアは内心で戦慄していた。


(この女、執念深すぎるわ…ゲームのセリアとはかけ離れすぎてるし、やはり私と同類と見るべきね。しかも知識を利用して私を消そうとしている……。このままでは、彼女がこの世界そのものを壊しかねない。どうにかして彼女を抑え込まないと、私も世界も大変な事になるわ……!)


二人の転生者による、静かな、しかし命懸けの冷戦。

だが、その均衡は、ある日唐突に訪れた「世界の基底の崩壊」によって粉々に打ち砕かれることとなった。


一通の親書が、王国を激震させた。

送り主は、大陸北方にある軍事大国・トーガ帝国。物語における「ラスボス」であり、本来のシナリオ通りなら数年後には聖女セリアを狙って侵攻を開始するはずの不倶戴天の敵国だ。


だが、その内容は「宣戦布告」ではなく、「永劫の友好と通商条約の締結」という、信じがたい平和の打診だった。


「……ありえない、どういう事なの!?」


学院のサロンでその報を聞いたレイアは、手に持っていた扇を落としそうになった。

隣で同じく報を聞いたセリアは、顔を真っ青にさせて震えている。


「そんなはずないわ! 帝国の王は残虐非道な暴君で、戦争が起きるのがこの世界の『正史』でしょう!? どうして……!」


報告によれば、帝国内部で大規模な政変が発生したという。

首謀者は、第一皇子・ラルバ。

彼は本来、物語が始まる数年前に「流行病で死んでいる」はずのキャラクターだった。その彼が病魔を克服して軍を掌握し、暴君であった父王を幽閉。自らが皇帝に即位したのだという。


戦いは起こらなかった。

物語は、二人の関係の無い場所で、一人の「死人」の手によって完全に破綻したのだ。


「終わった……。私の、私のシナリオが……」


セリアは半狂乱になり、部屋の調度品をなぎ倒した。

一方のレイアは驚愕しながらも、心のどこかで深い安堵を覚えていた。これで、あの凄惨な戦争で命を落とす人はいなくなる。自分も処刑台に送られる心配はない。


(でも、どうして? 死ぬはずの皇子が、どうやって歴史を変えたの?)


それから半年後。

両国の友好を記念する晩餐会が開かれることとなった。

テラール王国へ親善訪問に訪れた若き皇帝ラルバ。セリアとレイアは、それぞれの立場から、強引な手段を用いて彼との「個別面会」を勝ち取った。


二人は、同じ疑問を抱いていた。

「彼も、私たちと同じ『転生者』なのではないか」と。


王城の奥深く、限られた者しか入ることを許されない「琥珀の間」。

豪奢な椅子に深く腰掛けたラルバ皇帝は、謁見に訪れたセリアとレイアを、どこか退屈そうに、しかし深く見つめていた。

セリアは必死に媚びを売るような視線を送り、レイアは神経を研ぎ澄ませて彼の挙動を観察する。


「……よう、待っていたよ。二人とも。やっぱり俺の所へ来たか」


ラルバの口から漏れたのは、帝王としての威厳ある公用語ではなく、ひどく現代的な、そして勝ち誇ったような響きの「日本語」だった。


セリアが目を見開き、一歩前に出る。


「貴方……やっぱり、そうなのね!? 貴方も私と同じ、日本から来た転生者なのね! どうして勝手なことをしたのよ! 私のヒロインとしての役目が、イベントが全部台無しじゃない!」


レイアもまた、声を震わせて問いかけた。


「貴方は……誰なのですか? この世界の運命を、本来の因果を書き換えてまで、何を企んでいるの?」


ラルバは、くつくつと喉を鳴らして笑った。その笑いは、二人を嘲笑うような、冷ややかな慈愛に満ちていた。


「『転生者』か」


彼はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる王都の夜景を指差した。


「セリア、そしてレイア。お前たちは、自分たちが『乙女ゲーの世界に転生した特別な存在』だと思い込んでいるようだが……そもそも、その前提がズレているんだよ」


「……なんですって?」


「この世界はな、『乙女ゲー世界の悪役令嬢として転生したヒロインが、主人公として転生した悪役と戦う物語』という内容の、とあるネット小説が基になっているんだよ。お前たち二人は、その小説の中で『転生者という設定』を与えられた、純然たる物語のキャラクターに過ぎないんだ」


「えっ?」


「題名は『乙女ゲームの悪役令嬢に転生したらしいので、破滅を回避します』だ」


「なっ!?」


二人は揃って絶句した。

セリアの顔から血の気が引き、レイアは息をすることさえ忘れたように硬直する。


「何を……言っているの? 私には前世の記憶があるわ!! 21世紀の日本で生きていた、確かな記憶が!!」


「ああ、それも『設定』だ」


ラルバは淡々と、しかし残酷に言葉を紡ぐ。


「セリア、お前は前世で女子大生だった。就活に失敗し、自暴自棄になって道路に飛び出し、トラックに轢かれた……という記述が、設定資料にある。そしてレイア、お前は病弱なOLで、病院のベッドでゲームをやり込みながら息を引き取った……という背景設定だ。どうだ? その『前世の記憶』の中に、親のフルネームや、通っていた小学校の校歌、具体的な友人との何気ない会話は思い出せるか? 靄がかかったように、肝心な『生活の質感』が抜けていないか?」


二人は言葉を失った。

言われてみれば、そうだ。断片的な「設定」としての記憶はある。だが、そこには生活の匂いが、痛みが、実感が、決定的に欠落していた。自分たちが「日本」だと思い込んでいた場所は、情報の断片に過ぎなかったのだ。


「お前たちは、『自分は転生者だ』という強い自認を持つようにプログラムされた、この物語の登場人物なんだよ。そしてこのメタ構造の物語の本来のあらすじは、転生ヒロインの皮を被った醜悪なセリアが暴走し、それに対抗する転生悪役令嬢のレイアが最後には彼女を討つ……という、読者のカタルシスを誘う勧善懲悪ものだ」


ラルバはセリアを冷たく見下ろした。


「つまりセリア。お前は『主人公』じゃない。この入れ子細工のような物語における、救いようのない『悪役』なんだよ。お前がハッピーエンドを求めて足掻けば足掻くほど、読者は喜び、お前の破滅は加速する。そういう仕組みだったんだ」


「嘘……嘘よ……!」


セリアの膝がガクガクと震え始める。

自分が愛されるために、輝くために用意された世界だと思っていた。だが事実は、自分が「悪役」として無様に敗北する様を読者に提供するための、精巧な悪意の舞台に過ぎなかった。


「……と言う事は、もしかして貴方は?」


自分こそが「主人公」という皮肉な役割を与えられていたと知ったレイアが、掠れた声で問う。


「お前たちの言う『現実世界』。俺はそこで、このクソみたいなネット小説を読んでいた読者だったんだが、持病で早死にしてな。気付いたら、物語の開始前に死ぬはずだった『死に役のモブ皇子』に転生していたわけだ」


ラルバは肩をすくめた。


「俺は、お前たちが繰り広げる泥沼のキャットファイトの煽りで、罪のない領民や兵士が死ぬのが嫌だった。何より、作者の掌の上で踊らされるお前たちの不毛な争いを見るのが苦痛だったんだ。だから、物語の展開そのものを物理的に破壊することにした。父王を退け、戦争の火種を消し、お前たちの『因縁の舞台』を更地にしたんだ。結果は知っての通りだ」


彼は窓の縁に腰掛け、月を見上げた。


「俺こそが、本当の意味で『外側』から紛れ込んだ異物……真の『転生者』なんだよ」


「ああ……あああああああ!」


セリアが絶叫した。

アイデンティティが、砂の城のように崩れていく。自分は特別なヒロインではない。自分は、誰かが書いた物語の中で「自分をヒロインだと思い込んで暴れる滑稽なピエロ」に過ぎなかったのだ。


その衝撃に耐えきれず、彼女の意識は暗転した。糸が切れた人形のように、セリアはその場に卒倒し、豪華な絨毯に伏した。


レイアは、倒れたセリアと、冷徹な皇帝を交互に見た。

愕然としながらも、彼女はどこかで納得していた。この世界に感じていた違和感、自分の行動がどこか「見えない手」に縛られていたような感覚。その正体が、これだったのだ。


「……私たちは、これからどうすれば……」


「好きにすればいいさ。シナリオはもう、俺が食い尽くした。お前達もこれからは、ただの人間として、この世界で生きていけば良い。俺達にとって、ここは間違い無く『現実』だからな」


ラルバは、何とも言えない表情のレイアを置いて、部屋を出て行った。


独り、夜の回廊を歩く彼の足取りは静かだった。

彼は内心で、誰にも明かさない――明かすことのできない独白を繰り返す。


(……俺の記憶が、すべて真実だという保証もないんだよなぁ。転生してからずっと、この疑念が消えない)


彼は自分の手を見つめる。

先程、二人に語った「真実」。だが、彼自身もまた、自分が本当に「読者」だったのか、それとも「読者だったという設定を与えられた、さらなる上位の物語の登場人物」ではないのか、それを証明する術を持っていない。


(俺も……そして俺の前世だと思い込んでいるあの世界も、どこかの世界の誰かが書いた創作かもしれない。この世界の空が本物なのか、それとも誰かの脳内にあるイメージに過ぎないのか……それを知る術は、永遠にない)


彼は、ふっと自嘲気味に笑った。

世界が何重の虚構に包まれていようとも、今、喉が乾き、風が肌をなでるこの感覚だけは、彼にとっての唯一の真実だ。


「せいぜい、足掻かせてもらうさ。この碌でもない『物語』の先でな」


背後で、意識を取り戻したセリアの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

それは、台本を失った役者の、あまりにも無様な、しかし初めて「人間らしい」産声のようにも聞こえた。


――――――


慎は読み終えたスマートフォンをサイドテーブルに置き、深い溜息を吐いた。

すぐさま健次郎に電話をかける。数コールの後、相変わらず飄々とした声が返ってきた。


『よう慎。読み終わったか?』


「ああ。……お前、メタにメタを重ねすぎだろ。これ、最後の方は読んでるこっちの足場まで怪しくなってくるぞ。皇帝の独白、ありゃお前の本音か?」


健次郎は電話の向こうで、クスクスと楽しげに笑った。


『そうさ。俺たちの今の状況……「前世の知識で世界を変えている」という事実自体が、実は大きなシナリオの一部かもしれない。もしこの世界そのものが、誰かの創作物だとしたら? 俺たちの記憶さえ、後付けの設定だったら?……そんな疑念を書いたのさ。仮に全てが虚構でも、知った事ではない、という宣言を含めてな』


「皇帝に『好きにしろ』と言わせたのは、お前なりの開き直りか」


『そう言うこと。慎、お前はどう思う? 自分が実は『前世で掃除屋だったという設定』のキャラクターに過ぎないかもしれない、と言われたら』


慎は窓の外を見上げた。

夜の帳が下りた施設の庭。遠くからは、麗奈と茜が楽しそうに話している微かな声が聞こえてくる。


「……どっちでもいいさ、そんなことは」


慎の口角が、自然と上がった。


「前世がどうだろうが、設定がどうだろうが、今俺が感じているこの安堵感と、これまで出会ってきた人達の体温は本物だ。ここが今の俺たちの現実なんだよ。たとえ誰かが書いた物語の上だとしても、俺は俺のやりたいようにやるだけだ」


『ははっ、やっぱりお前はそう言うと思ったよ』


健次郎の声も晴れやかだった。


『俺も同感だ。皇帝の台詞通り、シナリオはもう潰れた筈だ。あとは好き勝手に、最高にハッピーな結末まで書き換えてやろうぜ。……じゃあ、またな』


「ああ、またな」


通話を切り、慎は再びベッドに沈み込んだ。

自分が何者で、この世界が何であるか。そんな哲学的な問いに、もはや意味はない。


「さて……もう寝るか」


慎は目を閉じ、穏やかな眠りへと落ちていった。

それが誰かの夢の中であろうと、冷徹な筆の先であろうと、彼の抱く「愛」だけは、この世界で最も強固な現実だった。

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