プロポーズで一騒動
三月の末、春の陽光が優しく降り注ぐ午後の公園。慎と話をする為にここへ来た麗奈はベンチに座り、まだ少し冷たい風に吹かれながら、かつて織田川芳子と交わした電話を思い出していた。
あの苛烈な少女が学校を去る際、麗奈に投げつけた呪詛のような言葉。
『……先生。将来あいつの嫁にでもなって、骨の髄までしゃぶり尽くしてもらえばいいわ。あんたのような、お人好しの平和ボケした女にはお似合いよ。せいぜい機嫌を損ねないようにしなさいな。さようなら……もう二度と会うことはないでしょうね』
あの時の麗奈は、ただ困惑することしかできなかった。だが、どうだろうか。今の自分は、その「骨の髄まで――」という言葉を反芻し、どこか熱い心地よさすら感じてしまっている。
(私……あの時よりずっと、浅ましい女になっているわね。生徒のあの子に守られて……それを幸せだなんて思っているんだから)
もし芳子が今の自分を見れば、皮肉を込めて罵倒するか或いは「こんな筈では無かった」と悔しがるだろうか。だが、麗奈の心は不思議なほど穏やかだった。
「お待たせしました、先生」
背後からかけられた、聞き慣れた、しかし今は少し特別な響きを持つ声。振り向くと、そこにはいつもと変わらぬ、淡々とした表情の慎が立っていた。
「……ううん、私も今来たところよ。久遠くん」
二人は並んでベンチに座った。休日の公園は家族連れも少なく、二人だけの静寂が流れる。先日の「見合い騒動」という嵐が過ぎ去り、ようやく訪れた、まともな対話の時間だった。
「……色々、あったわね」
「そうですね。やっと落ち着いて話ができます」
「ええ……本当に」
沈黙が流れる。しかし、それは気まずいものではなく、互いの存在を確認し合うような温かなものだった。慎が先に口を開いた。
「周囲から散々言われましたよ。壊すべき縁談だったとは言え、個人的にここまでやってどうするつもりだ、一年後に卒業したら責任を取れ、と。施設の人たちも、警察の皆さんも……」
麗奈は苦笑した。慎は視線を落とし、少し困ったように眉を下げた。
「篠崎さん達から訊かれましたよ、『担任の先生とそういう関係なのか』と」
「……やっぱり、そっちもなのね。私も同じよ。茜ちゃんにはぐいぐい迫られるし、学校の先生たちも……もう、単なる教師と生徒の関係だとは思っていないみたい」
麗奈は膝の上で手を組み、意を決したように慎を見つめた。
「久遠くん。さすがに……もう、無理よ。私、あなたにここまでしてもらって…普通の教師と生徒の関係なんて戻れないわ」
「まあ、そうでしょうね…」
「……あなたは……どう思っているの?」
「…決まってますよ、回りくどい事は無しで言いますね。麗奈さん」
「…っ!!」
初めて担任教師である彼女を名前で呼んだ慎は、まっすぐ麗奈の瞳を射抜いた。
「初めて会ってから、もう二年ほど経ちましたね。……関わっていく内に気が付いたら、すっかり貴女という女性に心を許していた。俺としても意外です。これほど一人の女性に執着することになるとは思っていませんでした。今の俺にとって、貴女はもう、隣にいてほしい女性です」
「久遠くん……」
「正式な交際も無しで、いきなりこんな事を言うのは何ですが、介入してこの結果を生んだ責任は果たします。一年後に卒業して、立場が整理されたら……正式に迎えに行きたい。それを、自分の人生の目的の一つに据えることにしました」
つまり、「学校を卒業したら、俺と結婚してください」という意味だ。直球な言葉に、麗奈の鼓動が激しく打ち鳴らされる。顔が熱くなり、どうしようもなく視線が泳いだ。
「で、でも……法的な問題をクリアしても、まだ問題があるわ。あなたはまだそんなに若いし、私は……家族ともあんなことになって。経済的なことだって、これから……」
「それについては、心配いりません」
「えっ?心配いらないって…」
慎は平然と言い切った。
てっきり慎が若さと勢いに任せて発言していると思っていた麗奈は、その言葉に困惑する。
「経済的な余裕は十分にあります。実は……宝くじで一等に当選したんです。十億円ほど、手元にあります」
「…………はい?」
麗奈は思考が停止した。十億。耳を疑うような数字だ。
「じゅ、じゅうおく? 宝くじって……あなた」
「ええ。奇跡的に当たったんです。既に運用もしていますし、俺たちが一生、贅沢をしても余りある額です。生活のために無理をする必要もない。だから……」
「受け入れてくれませんか」と言いかけて、麗奈の様子がおかしい事に慎は気付いた。
「……………」
「あの……聞いてます?」
麗奈は言葉を失っていた。
慎は、既に莫大な財力までも手にしている。完璧だ。完璧すぎて、恐ろしい。自分のような平凡な女が、この「少年」…否、この「男」の隣に立っていて良いのだろうか。
パニックが襲ってきた。慎の顔が見られない。恥ずかしさと、畏怖と、そして逃げ出したいような幸福感が混ざり合い、麗奈の脳内は飽和状態に達した。
「……っ。ちょ、ちょっと待ってて!」
「え?どちらへ…」
麗奈は突然ベンチを立ち上がると、脱兎のごとく公園のすぐ外にあるコンビニへ向かって駆け出した。慎は呆然としてその後姿を見送るしかない。
数分後。戻ってきた麗奈の腕には、レジ袋がいっぱいに詰め込まれていた。その中身を見た慎は、思わず絶句した。
「あの、もしかして……それ、全部お酒ですか?」
袋の中には、ストロング系の缶チューハイやビールが所狭しと詰め込まれていた。麗奈は返事もせず、震える手で一缶目をプシュッと開けると、一気に喉に流し込み始めた。
「ちょ、ちょっと! 何をそんな危ない飲み方を……!」
「……こうしないと、言えないの! 言いたいこと、いっぱいあるのに……まともな意識じゃ、怖くて……。弱い私を、許して……!」
「いや、許すも何も……」
麗奈は凄まじい勢いで二缶目、三缶目を開けていく。彼女の酒の弱さは、以前慎が送り届けた時に実証済みだ。案の定、五分もしないうちに麗奈の顔は真っ赤に染まり、焦点が定まらなくなってきた。
「ああ駄目だ、座って…」
「……あ、あのね。しんくん……」
「え?『慎くん』?あ…はい、何ですか麗奈さん?」
「いいのぉ! しんくん、しんくん……。あのね、わ、わたひね……あな、あなたが、しゅきです! だいしゅき……なんですぅ!」
麗奈はふらふらと立ち上がると、慎の首にしがみついた。アルコールの匂いと、彼女自身の甘い香りが慎の鼻腔をくすぐる。
「……っ、もう、教師とか……生徒とか、どうでもいいのぉ! 今すぐ、わたしとけっこんして……っ」
酔っ払ってからの、まさかの逆プロポーズである。
「うおお…!ちょっと落ち着いてください、凄まじいな…」
麗奈はそのまま、赤い顔で慎の唇に自分のそれを重ねようとした。突撃に近い、無茶苦茶なキスだ。
慎は苦笑しつつも、冷静にその肩を掴んで距離を取った。
「どうか本当に落ち着いてください。……気持ちは、十分に伝わりました」
「ふえ? なんで……いやな、の?」
酔った麗奈は言葉もまともに出てこない。
「嫌なわけないでしょう、俺も貴女と結婚したい。ですが、焦ってはいけません。俺が卒業するまで一年ある。それまでは、これまで通り『教師と生徒』という形を保ちましょう。それは守らないといけないルールですから、俺は逃げたりしませんよ」
麗奈は潤んだ瞳で慎を見上げ、どこか残念そうに、でも心から嬉しそうに、彼の胸にコテンと頭を預けた。
「……うん。しんくんが言うなら、そうする……」
麗奈はそのまま、幸福そうな寝息を立て始めた。
「またこうなったか…酒に弱いのに無理をして…」
慎は深い溜息を吐きながら、スマートフォンを取り出してタクシーを呼んだ。
「俺も……今回は焦りすぎたかな?」
――――――
夜の「□□□園」。
玄関先では、慎が麗奈を背負って戻ってくるのを、施設長の真田や長田ら職員たちが、期待と不安の入り混じった表情で迎えた。
「ただいま戻りました」
慎の声に応えて、職員たちが一斉に二人を覗き込む。
「しんくん……むにゃ、だいしゅき……ずっと……一緒よぉ……」
背負われた麗奈は、酔っ払ったまま慎の背中に頬を擦り付け、幸せそうにうわ言を繰り返している。その手には、酒缶が詰まったレジ袋が握られていた。
「「「………」」」
真田も、長田も、山岡も、出迎えた全員が絶句した。ロマンチックな意志の確認が行われたはずの結果が、これである。
「……慎。一体、どうしてこうなった?」
真田が眉間を押さえて尋ねた。
「それが…パニックを起こしまして。自分の弱気を消すために、コンビニで酒を買い込み、暴走した結果です。……一応、互いの意志は確認しました。卒業後に、ということで」
「……何やってんのよ、この先生」
長田が呆れたように笑い出した。
「本当に、隙だらけというか、何と言うか……。慎くん、あなたも苦労するわね」
慎は無言で頷き、背中の麗奈を直した。その時、麗奈がふらふらとレジ袋を差し出し、長田に押し付けた。
「これぇ……みなしゃんで、どうじょ……。わたひの、おこり……ですぅ……えへへ」
「あはは、おごりね。ありがたくもらいます先生」
皆は苦笑しつつ、麗奈を抱えて部屋へ運ぶ慎の背中を見送った。
「……とにかく、前には進んだみたいですね。一応は…」
「一年後か。どんな夫婦になることやら」
山岡と真田が感慨深げに言葉を交わした。
――――――
翌朝。
柔らかな朝日が差し込む部屋で、麗奈は猛烈な頭痛と共に目を覚ました。
「……ううっ、頭が……」
昨夜の記憶が断片的に蘇る。十億。公園。コンビニ。そして……慎への、あまりに無様な泥酔告白。
「また…やっちゃった…………死にたい」
顔から火が出るどころか、全身が燃え上がりそうなほどの羞恥心に襲われ、麗奈は枕に顔を埋めて悶絶した。だが、布団の中に、自分以外の温かな気配があることに気づいた。
ふと横を見ると、そこには茜がいた。
またしても茜は麗奈のベッドに潜り込んでいたらしく、麗奈の豊かな胸に顔を埋め、それを「ふかふか枕」にしてぐっすりと眠っている。
「……茜ちゃん」
麗奈は苦笑し、茜の頭を優しく撫でる。すると、扉がノックされ慎の声が聞こえた。
「もう起きましたか?」
「あ……はい」
扉が開き、慎が穏やかな笑みを見せた。
「おはようございます。麗奈さん」
「おはよう、慎くん」
頭痛は酷いが、心は驚くほど軽い。
(骨の髄まで、か……)
芳子の言葉を思い出し、麗奈は茜を抱きしめたまま、小さく微笑んだ。
麗奈は、これからの未来が怖いくらいに楽しみで仕方がなかった。




