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佳山夫妻の後悔

三月の末。


今川秀朗が警察署の門を潜り、自ら真実を吐露したことで、事態は刑事事件として急速に動き出した。彼が問われたのは、詐欺罪。そして、佳山家から引き出そうとした資金を犯罪組織への返済に充てようとした行為は、「犯罪収益等隠匿」の疑いとして、検察による徹底的な精査の対象となった。


秀朗にとって、警察の取調室は地獄であると同時に、唯一の「避難所」でもあった。自首により組織との接点は公的機関によって遮断され、皮肉にも彼は逮捕されることで、物理的な殺害の脅威から逃れることができたのだ。しかし、その代償はあまりにも重かった。


資産家として名を馳せた今川家は、この醜聞によって社会的信用を完全に失墜させた。秀朗は即座に親族から勘当され、一族の籍を追われた。両親は、本来なら自分たちが恩を売るはずだった取引先や有力者たちに対し、深夜まで頭を下げて回る屈辱的な日々に追われることとなった。


「……秀朗。お前という奴は、我が家の名を泥に塗れさせただけでは飽き足らず、警察にまで……」


父の信孝が吐き捨てた言葉には、もはや親としての情愛はなく、ただ一族の資産価値を著しく損ねた「不良債権」への憎悪しかなかった。


一方、秀朗を追い詰めていた「裏の組織」との金銭問題については、日本の法律が壁となった。


民法第708条、いわゆる「不法原因給付」の原則である。ギャンブルの負債や、違法薬物の取引から生じた「借金」は、公序良俗に反する不法な原因に基づくものであるため、法的には返済の義務が認められない。警察の介入を恐れる組織側も、当局が秀朗の供述を基に本格的な捜査に乗り出した今、下手に「取立て」を行えば自分たちの首を絞めることになる。


組織にとって、秀朗はもはや搾り取る価値のない存在へと変わっていた。彼らは当局の目を逸らすため、トカゲの尻尾を切り落とすように秀朗との一切の関わりを遮断した。秀朗は命こそ助かったが、それは「社会的な死」と引き換えに得た、あまりに冷たい生存だった。


――――――


そして、麗奈の故郷。重厚な門構えを誇る佳山邸の内部は、かつての威厳が嘘のような、死に絶えたような静寂に支配されていた。


家長である茂と、その妻・淳子のアイデンティティは、あの日、完膚なきまでに破壊された。自分たちが何よりも重んじてきた「家の格」や「伝統」は、ただの詐欺師に食い物にされる程度の、脆弱なメッキに過ぎなかったのだ。


茂は居間のソファに沈み込み、震える手で茶を啜った。味などしなかった。


「……あなた。あの久遠って子、麗奈に……」


淳子が、蚊の鳴くような声で切り出した。夫婦が今、最も恐れ、そして困惑しているのは、自分たちを救った「事実」の皮肉さであった。


自分たちが「良縁までの腰掛け」と蔑んでいた麗奈の教師としての人生。その教職の縁によって出会った一人の教え子が、自分たちの無能さを暴き出し、なおかつ、佳山家を完全な破滅から救い出した。

しかし、落ち着いて冷静に考えてみるとそれはあまりに不可解だ。


「久遠慎……といったか。あの生徒。……もしかして、麗奈と、あの少年は……」


茂はその言葉を口にすることさえ、生理的な恐怖を覚えた。あの日、玄関先で対峙した久遠慎という学生。彼は丁寧な挨拶の裏に、熟練の猟師が獲物を追い詰めるような、底知れぬ胆力と冷徹な知性を隠し持っていた。


「普通ではない。ただの高校生が、一介の探偵を使いこなし、暴力団上がりの男を返り討ちにし、警察さえも動かすなど……」


ようやく、茂も気付いたのだ。

単なる男子生徒が、担任教師の家の見合いをこれほど徹底的に、かつ冷酷に破壊した理由。それが単なる「担任の先生を助ける」という正義感だけで説明できるはずがない。


(……麗奈は、あの少年に心身ともに委ねているのではないか?)


そう考えると、茂の背筋に身震いが走った。もしそうなら、自分たちは麗奈を禁断の関係に走らせる切っ掛けを作ってしまったのでは無いかと。


「連絡を……麗奈に連絡をして、確認しないと……」


淳子がスマートフォンを手に取るが、その指は激しく震えていた。

無理だ。今、自分たちが麗奈に何を言えるというのか。

「あの少年との関係は?」と問えば、返ってくるのは「自分たちを守れなかった親に、口出しする権利があるのか」という、耳に痛い正論だろう。


あの時、慎から突きつけられた言葉が、呪いのように耳に響く。


『親なら、娘の婿になるかもしれない相手をとことん調べてから話を持ってきてくださいよ』


その言葉の通り、自分たちは親としての最も基本的な義務を怠った。名士としての見栄に溺れ、娘の人生を賭けのチップのように扱った自分たちには、もはや娘を案じる資格さえ残されていないのだ。


「私たちは……一体、どこで間違えてしまったんだ……?」


茂の問いに答える者はいない。

ただ一つ、確かなことは、麗奈がもはや自分たちの手の届かない、あの少年の保護下へと去ってしまったという事実だけだった。


高校生である慎の「暗躍」は、警察の配慮や、山川による巧妙な調整によって表沙汰にはなっていない。世間的には「警察の執念の捜査が、投資詐欺と薬物組織の犯罪を暴いた」という美談として処理されている。慎の存在は、佳山夫妻の壊れたプライドの中にだけ、消えない火傷の痕のように刻まれていた。


一年後に慎が高校を卒業し、法的な制約が外れた時、麗奈がどんな選択をするのか……


「……私たちは、もう、結果を待つことしかできないのか」


茂はその時を想像するだけで、深い絶望と敗北感に苛まれた。

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