茜の質問
深夜、施設の自室で慎はスマートフォンを耳に当てていた。画面の向こうからは、健次郎の呆れたような、それでいてどこか楽しげな声が聞こえてくる。
『……ほほう、なるほど。見合い相手を自首に追い込んで、そのまま親の馬鹿さ加減を論破して、担任の美人教師をかっさらってきたわけだ』
「そういじめてくれるな。成り行きだ、成り行き。ただ……これでもう、引き返せないところまで来た気がしてな」
慎の言葉に、健次郎は鼻で笑った。
『違いない。そこまで行っちまったら、もう選択肢なんて一つしかねえだろ。迷う必要なんてあんのか?』
「いや、別に迷っているわけじゃない……」
『ん?』
「どうやら、誰かに話を聞いて欲しかっただけみたいだ。人生2度目の癖して、我ながらヘタレだよ。すまんな、夜遅くに」
『そういう事か。何、良いってことよ。ところでさ、前から気になってたんだけど、お前は前世じゃ独身だったのか?』
「……ああ、独身だったよ。硝煙と泥にまみれた生活に、家族を連れ込む度胸はなかったからな」
慎の淡々とした告白に、健次郎は少しだけ真面目なトーンで返した。
『なら、今度は臆病にならずに済むな。……おめでとう、って言うのは、卒業まで取っておいてやるよ。じゃあ、またな』
「おう、おやすみ」
通話が切れた後、慎はベッドに横になり天井を見上げた。前世では得られなかった「誰かと共に歩む未来」。それが、今はっきりと見え始めていた。
「まあ、悪くはないよな……」
――――――
その頃、施設の寝室では、布団の中で茜と麗奈が一つのベッドで体を寄せ合っていた。
茜はいつものように、麗奈の豊かな胸に顔を埋め、その柔らかな感触と甘い香りに安心しきっていた。麗奈もまた、腕の中に収まる小さな命を愛おしそうに抱きしめ、その体温を確かめている。
「…ねぇ、麗奈おねえちゃん」
「どうしたの、茜ちゃん?」
不意に、茜が麗奈を見上げ、鈴を転がすような声で尋ねた。
「おねえちゃん、慎兄ちゃんのおよめさんになるの?」
「……っ、なっ!?」
麗奈の肩が激しく跳ねた。あまりに唐突で、核心を突いた問い。動揺のあまり顔が熱くなる。
「あ、茜ちゃん、ど、どうしてそんなことを聞くの?」
「だって、みんながいってたよ?」
「えっ!?『みんな』って……」
施設での「慎が麗奈を救った」という劇的な幕切れは、職員たちの間でも瞬く間に共有されていた。慎の行動はもはや一介の生徒の範疇を超えており、周囲の大人たちも、二人が今後「単なる教師と生徒」として振る舞うことは無理だと察していたのだ。
「あんな事をしでかした以上、もう教師と生徒の関係には戻れないだろ」
「と言うか、法的な問題のクリアもただ待てば良いだけだしな」
「いや、それまで待てるのかな?」
「さあ?」
…そんな会話を茜は聞いていた。子供の耳は、大人が思っている以上に鋭い。
麗奈は苦笑し、茜の頭を優しく撫でた。
「そうね……。でもね、茜ちゃん。今はまだ、慎お兄ちゃんとお姉ちゃんは結婚できないのよ」
「……どうして?」
「日本の法律ではね、結婚できる年齢が決まっているの。それに、慎お兄ちゃんはまだ高校生でしょう? 学校に通っている間は、先生と生徒という形を守らなきゃいけない約束があるのよ」
麗奈は自分に言い聞かせるように、淡々と事実を並べた。たとえ慎が法的な問題をクリアしても、教育現場における倫理や社会的な批判は免れないかもしれない。特に、今回のような騒動の直後に短絡的な行動に出れば、慎の将来に傷をつけることになりかねないだろう。
自分を救うために、彼は法に触れるギリギリの境界線で戦ってくれた。ならば、今度は自分が大人として、そして一人の女性として、彼が正当な報いを受けられる場所まで、この関係を正しく導かなければならないと思った。
「お兄ちゃんが学校を卒業して、もっと大人になってからじゃないと駄目なの」
「ふーん……よくわかんない。でも、おねえちゃんが『にこにこ』してるから、いいことなんだね?」
「え?私、『にこにこ』してる?」
「うん」
「そう…」
自分では自覚が無かったが、どうやら自然と顔がにやけていたらしい。
「……ええ茜ちゃん、いいことなのよ。本当に」
茜は不思議そうに小首を傾げたが、麗奈の抱擁に満足したのか、やがて規則正しい寝息を立て始めた。
一人、闇の中で目を冴えさせている麗奈の脳裏には、今日の出来事が鮮明に焼き付いていた。
自分を「道具」としか見ていなかった両親の歪んだ顔。その両親をも欺き、犯罪に利用しようとした卑劣な見合い相手。それらが、慎のたった数言の論理と、静かな怒りの前では、驚くほど脆く崩れ去った。
彼は、麗奈が長年かけても断ち切れなかった呪縛を、一瞬で断ち切ってくれた。
(本当に、何であんなに強いのかしら?)
問題は山積みだ。明日になれば、学校への報告や警察からの連絡に追われる日々が始まるだろう。だが、慎が一緒にいてくれると思うと、不思議と恐怖はなかった。




