圧力
走行するタクシーの車内。
先ほどまでの嵐のような激情は凪ぎ、今はただ、ひどく静かな、そしてどうもこそばゆいような沈黙が二人を包んでいた。時間が経って冷静になった麗奈は慎の肩に預けていた頭をそっと離し、膝の上で組んだ自分の手をじっと見つめる。
(とうとう、ここまで彼に世話になってしまったわ……)
両親との訣別。それは長年、自分を縛り付けてきた呪縛からの解放だった。しかし、その過程で露呈したのは、目を覆いたくなるような親の醜態と、家の恥そのものだ。それをすべて、教え子である慎に晒してしまった。
本来なら、教師として彼を導く立場にあるはずなのに。
それなのに、自分を、そして自分の家族を奈落の淵から救い上げたのは、紛れもなく隣に座るこの少年だった。
(どうしよう……これで彼に教師として振る舞うなんて、もうできないわ)
「教師」と「生徒」。その呼称が、今の二人の間ではあまりにも形骸化した、虚しい記号になってしまった。しかし、だからと言って、このまま一気に「女」として一線を越える勇気があるかと言われれば、それもまた違うと思った。
まずは学校へ事の顛末を報告しなければならない。やる事は多いが、それでも麗奈の心は、不思議と晴れやかだった。最悪の結末を回避できたという安堵が、彼女を前向きにさせていた。
一方、慎は窓の外を見つめながら、思考を研ぎ澄ませていた。
麗奈を救い出した。その目的は達成されたが、副産物として発生した「責任」という名の重力に、彼は改めて向き合っていた。
(さてと、どうするかなぁ?)
ふと横を盗み見れば、麗奈は耳まで赤くして何事かを真剣に悩んでいる。その思考回路は、慎の洞察力をもってすれば、手に取るように分かった。
(俺、一応はまだ十代の高校生で、彼女の生徒なんだよな……。行動している時はどうも忘れちまうが、ここまで来るともう、元の関係には戻れないよな。『明日からまた教師と生徒に戻りましょう』なんて言える訳も無い)
前世の記憶と能力のせいで、自分でも自覚のないうちに「大人の立ち回り」をしてしまう。その結果、一人の女性の人生を丸ごと背負い込む形になった。彼女を妻として娶るという選択肢。それは慎にとって、決して忌避すべきものではなかった。この女性を、一生守り抜く覚悟があるかと問われれば、「ある」と答えられる。
だが……。
(……とりあえず、健次郎に相談するか)
冷静に戦略を練ろうとしても、最後は結局「悪友に聞く」という、年齢相応のヘタレな着地点に落ち着いてしまう。慎はそんな自分に、内心で苦笑を禁じ得なかった。
(……本当にやれやれだ。だが、不幸にはすまい)
心の中で、そう自分に誓った。
――――――
□□□園に到着すると、玄関では既に連絡で事の顛末を報された真田や長田ら職員たちが、固唾を呑んで待っていた。
「おかえり、二人とも。無事だったか」
真田の声に、麗奈は深く頷く。その瞬間、小さな影が麗奈の足元に飛び込んできた。
「麗奈おねえちゃん!」
茜だった。不安そうに大きな瞳を揺らし、麗奈のコートの裾をぎゅっと握りしめる。
「だいじょうぶ? こわいこと、なかった?」
幼い子供が、自分のために夜更けまで起きて心配してくれていた。その純粋な温もりに、麗奈の張り詰めていた心が完全に決壊した。
「……ええ、大丈夫よ。ありがとう、茜ちゃん」
麗奈は感極まったまま茜を強く抱きしめた。冷え切った体が、小さな体温でゆっくりと解けていく。茜は麗奈の背中を小さな手でポンポンと叩きながら、上目遣いで尋ねた。
「あのね、今日もおとまりして、いっしょにねる?」
麗奈が戸惑ったように真田を見ると、施設長は深く、慈愛に満ちた表情で頷いた。
「構いませんよ、佳山先生。今夜はゆっくり休んでください」
案内され、麗奈はまず茜と共に浴室へ向かうことになった。湯気に包まれながら茜と過ごす時間は、彼女にとって何よりの浄化になるだろう。
慎は、浴室へ消えていく二人の背中を少し離れた場所から眺めていた。その表情には、一仕事を終えた安堵が浮かんでいたが、背後から忍び寄る「圧」にすぐさま気づいた。
「……さて、慎くん。早速話があるわ」
長田をはじめとする女性職員たちが、一列に並んで慎を囲んでいた。ニヤニヤと笑ってはいるが、その目は微塵も笑っていない。いわゆる「逃がさない」という意思表示だ。
「とうとうやっちゃったわね。もう言い逃れはできないわよ」
「……何がですか」
「とぼけないの。犯罪が絡んでいたとは言え、他人の家の見合いを完膚無きまでにぶち壊したんだからね」
「…………」
「おまけに、彼女…ご両親と訣別したんでしょ?」
「慎くん、責任取らないと」
「『卒業した後』に、だけどね」
「まだ一年あるからって、絶対に逃げよう、なんて考えないこと。いいわね?」
凄まじい包囲網に、慎は降参するように両手を軽く上げた。
「わかってます……努力しますよ。もう、逃げ場なんかありませんからね」
その返事に、女性陣は満足げに顔を見合わせた。「言質は取ったわよ」という無言の合致。
少し離れた場所では、真田と山岡ら男性陣が、苦笑いを浮かべながら茶をすすっていた。
「遂にこうなったか。少し前まで、教師と生徒が一線を超える事態をあんなに恐れていたはずなのにな」
「ええ…」
「別に慎くんが悪いわけじゃないのが、また質が悪いというか……」
「介入しなかったら、今頃あの先生も実家も地獄に堕ちてただろうからな。救世主が夫になるのは、ある種ハッピーエンドだろ」
施設のリビングには、穏やかな、しかし決定的な空気が流れていた。
事ここに至っては、職員も、そして本人たちも、一つの未来しか見えていなかった。
疲れた様子の慎は溜息を吐きつつも、これから始まる「一年間の猶予」と、その先にある未来について、静かに思いを馳せた。




