今川秀朗
三月半ば。佳山麗奈と今川秀朗の見合い予定日の前日。
△△△警察署、取調室。鉄格子越しに差し込む西日は、今川秀朗の青ざめた横顔を無情に照らし出していた。
――――――
今川秀朗。地元でも名の通った資産家の長男として生まれ、名門私立大学を卒業後、若くして親族が経営する投資会社の役員に名を連ねていた。華やかな人脈と、甘いマスク。周囲からは「非の打ち所がないエリート」と称賛され、彼自身もまた、自分が特別な人間であることを信じて疑わなかった。
だが、その内実は空疎だった。承認欲求と、家業を凌駕する功績を上げたいという焦燥。それが彼を「海外事業の拡大」という名の、実態のない危うい投資へと駆り立てた。数年前、知人を介して手を出したのは、高利回りを謳う国際的な薬物流通ルートの資金洗浄を隠れ蓑にした投資話だった。
彼は裏社会という底知れぬ深淵を、あまりに軽んじていたのだ。当初は順調に利益が出ていたが、一度取引が暗礁に乗り上げると、そこは法も常識も通じない地獄へと一変した。失敗の責任として押し付けられたのは、数億円規模の「損害賠償」という名の負債。
(なぜ、こんなことに……)
複利で膨れ上がる負債。気が付けば、個人の資産では到底抗いきれない額に達していた。深夜の路上で、松尾のような末端の回収屋に囲まれるたび、秀朗は背筋が凍るような命の危機を感じ続けていた。
(佳山家との縁談……。あれを利用すれば、まだやり直せるかもしれない……)
そんな身勝手な論理が、彼にとって唯一の綱渡りだった。地方の地主として強固な資産を持つ佳山家。格調高いその家門から引き出す結納金、そして相手の麗奈という女性が持参するはずの資産や不動産。それをそのまま犯罪組織への上納金に充て、自らの命を繋ごうとしたのだ。しかし——。
「松尾が……逮捕された、だと……!?」
秀朗は絶望した。綱はあまりに脆かったのだ。松尾が別件で逮捕されたという一報が入った瞬間、秀朗の頭の中は真っ白になった。組織の回収屋が捕まった。それは、芋づる式に己の不祥事が公になることを意味する。
「どうすればいい……どうすれば助かるんだ!?」
必死に手を打とうと奔走したが、既に警察の捜査は、執拗に彼の「負債」と「金の流れ」を追い始めていた。どこへ逃げても監視されているような被害妄想と恐怖に苛まれ、もはや精神は限界だった。そして——。
「自首だ……自首すれば、まだ、マシだ。外にいて、連中に殺されるよりは……」
ようやくその結論に至った彼は、見合いの前日、震える足で警察署の門を潜ったのだった。
――――――
「……で、ここへ出頭したのか」
「…………はい」
「……今川秀朗。君の言い分はわかった。だが……随分とふざけた話だな?」
「う……」
目の前で、刑事の杉山が深くパイプ椅子に腰掛け、冷淡な視線を投げかけていた。机の上には、秀朗が自白した供述調書の山ができている。
「自分の命が惜しかった。だから、何の罪もない佳山麗奈さんを利用して、犯罪組織への『供物』を捧げようとしたわけだ。ところが松尾が逮捕されて、露見するのが時間の問題となった。それで今更こうして、殊勝に自首することにした……。反省して悔い改めたわけではなく、結局、自分の命惜しさからな。これをふざけた話と言わず、何と言うんだ?」
「……っ。それは、でも、僕だって必死で……!」
「黙れ。何が必死だ」
杉山の低い声が、取調室の空気を引き締める。
「人を欺いて財物を交付させるという行為は詐欺罪に当たる。さらに君がやろうとしたことは、組織的犯罪処罰法が定める『犯罪収益等隠匿』……。自らの保身のために、見合い相手の家を騙して犯罪の片棒に担がせようとした。その結果、佳山家の人々に及ぶ被害を、一度でも考えたのか?」
「…………」
「自業自得だ。松尾が逮捕されて逃げ場を失い、ようやくの自首か。倫理観も正義感も欠片もないが……ある意味、悪運だけは強い男だ。組織に口封じをされる前に、ここへ転がり込めたんだからな。命だけは助かるように、君が知っていることを全て、残さず正直に話すんだ。いいな?」
「は、はい……」
秀朗に呆れるしかない杉山は吐き捨てると、調書をまとめ、乱暴に席を立った。秀朗は己の愚かさに落胆し、両手で顔を覆った。
取調室を出た杉山は溜息を吐くと、廊下の窓から夕暮れの街を見下ろした。
脳裏には、松尾が逮捕された日にこの部屋で淡々と「正当防衛」を主張した、あの異質な少年の姿が浮かんでいた。
もし、あの久遠が松尾を叩きのめし、その背後にある今川の愚行を警察に知らせていなければ。
(恐らく、この愚かな御曹司は組織に消されていたか、あるいは…あの女教師を連れて地獄へ心中していたか、いずれにせよ碌な結果にならなかっただろう。ある意味、久遠は結果として今川の命も救ったことになるのか。皮肉な話だな)
苦笑しながら杉山は小さく首を振り、再び喧騒の戻った刑事課へと歩き出した。




