命乞い
「□□□園」で慎の耳に当てたスマートフォンから、山川の乾いた声が響く。
『やはりこれ以上は無理そうだ。危険もそうだが、相手の実態が不透明すぎて、とても尻尾を掴めるとは思えん。ここが限界だ』
山川の報告だと、今川秀朗が負債を抱えている背後の組織。それは幾重にも遮断壁が設けられたプロの犯罪集団であり、一介の探偵が簡単に辿り着けるほど甘い存在ではないらしい。
警察へ通報する準備を進めていた慎は壁を見つめ、静かに答えた。
「解りました。……ですが、見合いを潰すための『最短ルート』ならまだ残っているはずです」
『どうするつもりだ?』
「今川秀朗に直接圧力をかけている奴の居場所を教えてください。別に組織の全貌を知る必要はありません。秀朗が犯罪に手を染め、違法な連中と繋がっているという『確かな証拠』さえ引きずり出せれば、それでいいんです」
慎の声には、一分の揺らぎもなかった。山川は受話器の向こうで溜息を吐き、抗いきれない熱意に屈するように、ある廃ビル裏の住所を告げた。
――――――
「……えっと、ここだな」
そして、日曜日の昼下がりに慎はわざわざ他の県に来ていた。山川に頼ってばかりでは無く、こうして自分の手で尻尾をつかもうと思い、直接足を運んだのだ。
街は休日を楽しむ家族連れやカップルで賑わっていたが、目的地である路地裏の一角だけは、腐った澱みのような空気が停滞していた。
そんな嫌な場所へやって来た慎だが、さすがにいきなり突っ込もうとは考えていなかった。
(無茶をしないで、まずは下調べだ。後、それから……)
しかし…
「って、あいつは……もしかして?」
こういう時、運命の悪戯というものは起きるもので……。
「おい、何で真っ昼間から酔っ払ってるんだ……?」
慎は路地の陰からターゲットの男を見つけたが、そいつはだらしない有様になっていた。名は松尾。かつて暴力団に籍を置いていたが、あまりの素行の悪さに放り出された人間だ。
松尾は真っ昼間から酒の瓶を煽り、千鳥足で歩いていた。今川秀朗から金を搾り取る策が上手くいき、前祝いにたらふく飲んだ酒で悪酔いしていたのだ。その視線の先には、運悪く通りかかった一人の少女がいた。中学生だろうか。道に迷ったらしく、震える手でスマートフォンを操作している。
「おい、姉ちゃん……いいもん持ってるじゃねえか。ちょっと貸せよ、なあ?」
松尾の卑屈な笑い声が路地に反響する。少女が恐怖に顔を強張らせて逃げようとした瞬間、松尾の太い腕がその髪を掴んだ。
「逃げんじゃねえよ! 礼儀ってもんを教えてやる。おい、こっち来い!」
「いや!! やめて、離して!! 誰か……」
無機質なコンクリートの壁に、少女の悲鳴が叩きつけられる。松尾は酔った勢いで少女を突き飛ばし、懐から安物の飛び出しナイフを抜いた。それは威嚇を超えた、理性を失った暴力だ。
「……はぁ。何でこうなるかな?ったく」
到着早々に起きたトラブルに、慎は深々と溜息を吐き、影から踏み出した。
「おい、そこのおっさん。女の子に何してるんだ?手を離せよ」
松尾がギラついた眼を慎に向けた。酒の匂いと共に、どす黒い悪意が漏れ出す。
「あぁん? 何だてめぇ? 見てんじゃねえよガキが。ぶっ殺されたいのか!? それとも泣いて小便を漏らしたいのか!? それとも……」
「……駄目だこりゃ」
松尾はゲラゲラと笑いながら、支離滅裂な言動で慎に詰め寄る。既にナイフを握っていたが、さらに足元に転がっていた錆びた鉄パイプを拾い上げ、両手に凶器を持ったまま狂気じみた形相で振りかざした。
「ガキが正義の味方ごっこか? 死ねよ!」
松尾がナイフを突き出し、鉄パイプを振り下ろす。殺傷能力のある凶器を用いた、明確な殺意を伴う攻撃。だが、慎の瞳は凍りついたように冷静だった。
「正当防衛だ、馬鹿野郎」
短く呟くと同時に、慎の身体が爆発的な速度で動いた。
振り下ろされた鉄パイプ。本来なら頭蓋を叩き割るはずの一撃を、慎は最小限の動きで回避する。
「な!?」
慎はそのまま、松尾が持っていた鉄パイプを両手で掴んだ。信じられないことに、慎が力を込めると、頑丈な金属の筒が飴細工のようにぐにゃりと曲がり、使い物にならなくなった。
続けて、突き出されたナイフ。慎はその刃をあっさりと手で叩き落とした。
「な……んだ、これ……!?ぐぎゃっ!!」
慎は容赦しなかった。困惑する松尾の鳩尾に鋭い一撃を叩き込み、胃液を吐き出させる。地面に這いつくばった松尾は、自分の鼻から溢れ出す鮮血を見て、ようやく現実を理解し始めた。だが、理解は拒絶に変わる。
「ち、ちくしょう!! ふざけんな、何で俺がてめぇみたいなガキに……!!」
吠えながら立ち上がろうとする松尾。その襟元を、慎の右手が掴み上げた。
「な…、ななっ!?」
この細い腕のどこにそんな力があるのか、大柄な松尾の身体が軽々と宙に浮く。地面から足が離れ、壁に押し付けられた男の眼前に、慎の無機質な顔が迫った。
「うるせぇんだよ。いい大人が真っ昼間から酔っ払った上に、未成年に絡んで乱暴した挙句、ぎゃあぎゃあ吠えるなんて恥ずかしいと思わないのか?どっちがガキか解りゃしねぇぞ」
慎の言葉は淡々としていたが、その瞳の奥には、前世で数多の戦場を渡り歩いた「掃除屋」の、剥き出しの殺意が宿っていた。
「そんなだから俺みたいなガキに良いようにされる。まだやる気なら、本当に動けなくなるまでやってやるぞ? この体のあちこち潰して、再起不能にしてやろうかコラ?」
「ひ、ひいいっ!?」
慎の行動は、暴漢の攻撃を制止するための合理的な範囲内に留まっていたが、その実力差があまりにも絶望的すぎた。
「さてと、このまま縛って……」
慎はさっさと通報して、この愚物を警察に突き出すことを考えていたが、命の危機を感じた松尾の心の方が、先に音を立てて砕けた。
「う、うう……た、たすけ、助けてくれ……!!」
先ほどまでの威勢はどこへやら、男の股間からは無残な液体が溢れ出し、路地裏に鼻を突く臭いが漂った。松尾は涙と鼻血でぐちゃぐちゃになった顔で、慎の手の中でガタガタと震え、許しを請うた。
「参った、降参だ!! じ……自首する!! 俺が悪かった、頼むから殺さないでくれ! 警察に、警察に行くから!!」
「ほう? 自首ねぇ……」
命乞いする松尾を見て、慎はその手を離した。松尾は地面に転がり、赤子のように泣きじゃくりながら、自ら這いずるようにして路地の出口へ向かおうとした。
「手間が省けたな」
慎は懐からスマートフォンを取り出し、110番へコールした。一方、助けられた女子中学生は、あまりの事態にさっきまでの恐怖を忘れて呆然と立ち尽くしていた。
――――――
数分後。路地の入り口には数台のパトカーが集結。現場に到着した刑事たちは、その異常な光景に絶句した。そこには、大柄で屈強な男が手錠をかけられてパトカーの座席で震えていた。現場にはナイフと、U字に曲げられた鉄パイプが転がっている。
「……何だ、これは」
一人の警察官が呟く。慎は通報者として、そして「被害を食い止めた当事者」として、冷静に事情を説明した。
警察は、慎と、その後ろでまだ怯えて固まっている被害者の少女を見比べた。そして、パトカーの中で鼻水を垂らしながら「俺を早く連れて行ってくれ!」と泣き叫ぶ男を見た。
松尾の顔は、殴られた痛みよりも、何か底知れない深淵を覗き込んでしまった者の恐怖に満ちていた。
「君、一人であいつに勝ったのか……?」
「はい。武道の経験が少しありまして、それに相手は酔ってましたから」
警察署へ連行される直前、松尾はパトカーの窓越しに慎と目が合った。慎はただ、冷たく静かな視線を投げただけだった。だが、松尾にはそれが「次は命をもらう」という意味に思えたのか、再び狂ったように叫び声を上げ、警察官の腕にすがりついた。
「早く!早く出してください!!お願いだ、助けてください!何でもするから!!」
「は?いや…何言ってるんだ、お前?」
松尾の様子に警察官達が困惑する中、ドアが閉まり、けたたましいサイレンと共にパトカーは去って行った。慎は静かに、返り血がついた手をハンカチで拭いながら溜息を吐いた。
「やれやれ……また叱られそうだ」




