麗奈の落胆
「□□□園」で、麗奈は窓の外の寒々しい冬空を眺めていた。かつての自分は、親の敷いたレールを歩むことに疑問を抱かない、所謂「物分かりの良い子」だった。だが、自我が芽生えるにつれ、その息苦しさに胸の奥が軋んだ。
支配的な父と、それに追従するだけの母。そんな冷え切った大人になりたくなくて、麗奈はあえて人と深く関わる教師の道を選んだ。そこで出会ったのは、自分勝手な悪意を振りかざす織田川芳子のような生徒や、規格外の知性と力を持つ慎。想定外の波乱ばかりだが、それでも麗奈は自分の意志で歩むことを、一度たりとも諦めたくはなかったのだ。
(幼い頃は、両親の言うことが、この世の絶対だと思っていた。でも……)
――――――
今日の放課後、背後から声をかけられた。 振り返ると、そこには苦虫を噛み潰したような、険しい表情の慎が立っていた。
「……先生。結果が出ました。学校では話せないので、場所を変えましょう」
彼の底冷えするような声に、麗奈の背筋に冷たいものが走った。
案内されたのは、駅前から少し離れた喫茶店の片隅。慎が差し出した資料の一節を読み進めるうち、麗奈の視界は怒りで赤く染まっていった。文字を追う指が、怒りのあまりにガタガタと震え出す。
「何よ、それ……!!」
耐えきれず、麗奈は資料を机に叩きつけた。そこに記されていたのは、麗奈を「犠牲」にするどころか、佳山家そのものを犯罪の泥沼に引きずり込む、詐欺同然の縁談の裏側だった。
(信じられない……。母さんも、父さんも、私にさんざん犠牲を強いて、家の格だの伝統だの説教してきたくせに、この有様は何なのよ……!?)
麗奈の瞳には、激しい憤りと、足元が崩れ落ちるような失望が混ざり合っていた。厳格な佳山家という看板は、内実を知らぬ「無知」と「慢心」という名のメッキに過ぎなかったのだ。それを、自分の教え子であり、今や誰よりも信頼する慎に暴かれるという事実は、情けなさと悲しさが綯い交ぜになって麗奈の心を叩き割った。
「人を馬鹿にするにも程があるわ!! 自分の親がここまで愚かで盲目だったなんて、思いもしなかった!!」
絶叫に近い声が漏れ、麗奈は周囲の視線も忘れ、その場に突っ伏して泣き崩れた。大人として、教師として保ってきた最後の理性が、音を立てて崩壊していく。 慎が麗奈の隣に腰を下ろし、彼女の震える肩を引き寄せる。麗奈は自分を気遣う慎に、絞り出すような声で「ごめんなさい……」と繰り返した。
――――――
そうして一頻り泣いた後、慎の配慮で再び連れてこられた「□□□園」のリビング。 麗奈は温かいお茶の湯気をぼんやりと眺めながら、深々と頭を下げた。
「すみません……また、こんな形でご迷惑をおかけしてしまって。大人として、教師として、本当に情けないです。自分の親のことすら、まともに見えていなかったなんて……」
その言葉を遮るように、長田三和が麗奈の隣に座り、優しく背中をさすった。
「いいんですよ、佳山先生。迷惑だなんて誰も思ってません。むしろ、そんなとんでもない話を一人で背負わなくてよかった。私たちがついているから、今はゆっくり休んでください。あなたは、一人じゃないんですから」
他の女性職員たちも、憤りと同情の入り混じった表情で頷いている。 やがて夜が深まる頃、茜が麗奈の服の裾をぎゅっと握りしめて離さなかった。
「麗奈お姉ちゃん、いっしょにねんねしよ?」
「……ええ。いいわよ、茜ちゃん。ありがとう」
案内された寝室で、茜と横になる。小さな体温が密着してくる心地よさに、麗奈の荒んでいた心は、少しずつ凪いでいった。ふと、茜が麗奈の顔を覗き込み、小さな手で彼女の頬を撫でた。
「お姉ちゃん、どこも痛くない?」
「……っ。ううん、どこも痛くないわ。茜ちゃんがいてくれるから、もう大丈夫よ。本当に……」
麗奈は込み上げる愛おしさから、茜を離すまいと強い意志を持ちつつも、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
――――――
数十分後、寝室のドアが僅かに開き、廊下の明かりが細く差し込んだ。長田がそっと中の様子を伺っていると、背後から音もなく慎が近づいてきた。
「……先生の様子は?」
慎の低い問いかけに、長田は人差し指を口に当てて、廊下へ出るよう促した。
「ぐっすり眠っているわよ。茜ちゃんが上手になだめてくれたみたい。やっぱり、子供の純粋さには勝てないわね」
慎がそのまま中を覗こうとすると、長田はそれを手で制した。
「ちょっと、慎くん。ここは大丈夫だから。これ以上、女性の寝顔をじろじろ見るのはセクハラになるからやめておきなさい。……今は、静かな時間が必要なの」
「……セクハラ、ですか。手厳しいですね」
慎は少し肩をすくめ、茶目っ気を含ませた口調で小声で尋ねた。
「そこに、尊い光景はありますか?」
長田はその問いの意図を察し、慈愛に満ちた表情で深く頷いた。
「ええ。この世で一番尊い光景が、あそこにはあるわよ。でも、もう一度言うけど見るのは駄目よ?これは女性たちの聖域なんだから」
「…それならよかった。それを聞けただけで、こっちはやる気が出ますよ。……尊いものは、守らないとね」
そう言って、慎は少し名残惜しそうな様子を見せつつも部屋へと戻っていった。




