最悪の見合い話
二月の半ば。凍てつくような北風が窓を叩く午後。学校を終えた慎は、人混みに紛れるようにして都心の一角にある雑居ビルを訪ねた。
山川の事務所は、換気扇の回る乾いた音と、古びた紙の匂いが充満していた。デスクの上に無造作に放り出された数枚の資料。慎はそれを手に取り、記された「ある男」の履歴と、その背後に蠢く不透明な影に低く唸った。
「は……?ある程度の予想はしてましたけど、これマジですか?」
「ああ、マジだよ。俺も呆れた」
慎の疑問を肯定した山川は、苦い顔でタバコを灰皿に押し付けた。資料には、麗奈の見合い相手である今川家の嫡男・今川秀朗が、煌びやかな経歴の裏でどれほど深く「奈落」に足を突っ込んでいるかが克明に記されていた。
今川秀朗は、海外での事業拡大を謳いながら、実際には投資目的で違法薬物の取引に手を出していた。実態の掴めない「裏の組織」との間に金銭トラブルを抱えている。その借金は、一個人が背負える額を遥かに超越していた。
日本の法律において、違法な薬物の譲り受けや所持は、覚醒剤取締法や大麻取締法といった厳格な法規範によって厳しく禁じられている。しかし、彼が関わっていたのは単なる使用ではない。背後の組織が絡む大規模な流通網の一端だった。そこでの失敗は、損害賠償という名の命の取り立てを意味した。
「この組織が厄介でな。実績のある情報屋を使っても、実態が掴めない」
山川が指し示した写真。深夜の繁華街で青ざめた顔をして歩く秀朗の姿があった。
「秀朗は追い詰められ、家族に知られる前にこの負債を清算しようとしている。そこで目をつけたのが、佳山家との縁談だ。佳山家との間に動くはずの多額の結納金や資産。奴はそれをそのまま返済に充てるつもりなんだろう」
いわゆる結婚詐欺の変形に近い。だがその目的は生活のためではなく、犯罪組織への上納金の工面だった。佳山家は何も知らず、娘の麗奈をその餌食として差し出そうとしていた。
「……最低最悪の見合い話だ。佳山家はまんまと騙されている上に、犯罪収益の洗浄に加担させられようとしている」
日本の刑法では、他人の財物を詐取する行為は詐欺罪として処罰の対象となる。また、詐取した金をそのまま犯罪組織への返済に充てる行為は、組織的犯罪処罰法が禁ずる「犯罪収益の収受や隠匿」に該当し、組織の資金洗浄に加担する重大な違法行為であった。
――――――
翌日の放課後。慎は駅前の喧騒から離れた場所にある静かな喫茶店で、麗奈と向かい合った。
「何よ、それ……!!」
慎から差し出された資料。それを読み終えた麗奈は、手にしたティーカップを激しく震わせた。カチャカチャという陶器の音が、彼女の動揺を物語っていた。
「父も母も、あれだけ散々私に無理難題を言ってきたくせに、その挙句がこれ!? 犯罪者に騙されて私を売ろうとしていたっていうの!?」
「先生……」
「人を馬鹿にするにも程があるわ!! 自分の親がここまで愚かで盲目だったなんて、思いもしなかった!!」
堪えていた感情が、怒りと共に涙となって溢れ出した。麗奈は両手で顔を覆い、その場に突っ伏して泣き崩れた。厳格な家風を誇り、娘の人生を「家の道具」として支配してきた両親。それが実際には詐欺師の口車に乗せられ、取り返しのつかない泥沼に家族を沈めようとしている。その滑稽さと情けなさに、彼女の心は完全に折れた。
慎は無言で立ち上がると、麗奈の隣に腰を下ろし、彼女の震える肩を引き寄せた。麗奈は慎の胸に顔を埋め、絞り出すような声で「ごめんなさい……」と繰り返した。
喫茶店の他の客たちは、この不可解な光景にざわめいたが慎はそれらを一顧だにしなかった。彼はただ、泣き続ける麗奈に寄り添った。
やがて、慎からの連絡を受けた真田たちが車で迎えに来た。施設に到着し、暖かいお茶を飲んでようやく人心地ついた麗奈の元へ、心配そうに茜がやって来た。
「麗奈お姉ちゃん、大丈夫?」
小さな手が麗奈の膝に置かれる。麗奈は茜を優しく抱き上げ、その小さな体温を確かめるように強く抱きしめた。
「ごめんね、茜ちゃん……。しばらく、こうさせて」
「うん、いいよ」
茜は麗奈の頬を撫でた。幼いながらに彼女の痛みを分かち合おうとしていた。
リビングに集まった真田、山岡、長田ら職員たちは、慎から語られた今川家の内情に、言葉を失って硬直していた。
「……まさか、そんな、とんでもない真っ黒な話が出てくるなんて。想定外にも程がある」
真田が呻くように言った。長田や他の女性職員たちは、今川秀朗という男、そして無責任な佳山夫妻に対する憤りを隠そうとしなかった。
「信じられない。自分の娘を、そんな危険な場所へ放り込もうとするなんて」
「佳山先生が可哀想すぎる。慎くん、これはもう……」
慎は一同の視線を受け止め、静かに、しかし断固とした口調で断言した。
「ええ。警察へ相談します。逃げ道を塞いで、相手の男を逮捕させる。そうすれば佳山家も縁談を白紙にするしかない」
真田たちは、慎の冷徹なまでの実行力に一瞬の戦慄を覚えた。かつて、慎が探偵を雇ってまで介入すると言い出した際、彼らはその執念を危惧していた。だが、麗奈の憔悴ぶりと見合い相手の今川秀朗の背後にある犯罪の影を知った今、そんな躊躇は吹き飛んでいた。
「……ああ、それしかないな」
真田が重々しく頷いた。慎は窓の外の闇を見つめ、毒づいた。
「全く、とんだ茶番だ。本当に碌でもない事態しか起きないな」




