執念
放課後の職員室から退勤した麗奈は、冬の冷たい風に吹かれながら、自分の不甲斐なさに唇を噛んでいた。
「……私、何をしてるのかしら」
教え子である慎の前で、今にも泣き出しそうな顔を見せ、あまつさえ「実家に見合いを強要されている」などという重い身の上話を零してしまった。教師として、大人として、彼を導かなければならない立場なのに。
(生徒に縋ろうとするなんて……本当に、弱い女だわ)
心細さが募るほど、脳裏に浮かぶのはあの落ち着いた慎の瞳と、クリスマスの朝に自分を慕って何度も抱きついてきた、幼い茜の柔らかな温もりだった。今は彼らが酷く恋しく思えた。
「あら…?」
スマホに着信が来た。表示を見ると…
「久遠くん?」
麗奈は慌てて電話に出た。
「久遠くん、どうしたの……?」
『先生、実は……』
「えっ!!」
――――――
その夜、「□□□園」の一角で、慎は人目を避けるようにスマートフォンを耳に当てていた。 電話の相手は、かつて宏美の父親の不倫を暴き、家庭内問題を一掃する手伝いをした探偵の山川だ。
「……そうです、佳山家の周辺と、その向こう側にいる見合い相手の一族。とことん調べて何も出なければ、それで構いません。期限は〇〇〇高校で三月の春休みが始まる直前まで。……え? 出なかったら俺が困るんじゃないかって? 下衆の勘繰りですよ、それ。俺だって別に彼女の両親と本心から事を構えたい訳じゃないんです。円満に解決するなら、それに越したことはない」
慎は淡々と告げる。
「そもそも、俺が彼女を誰かに渡すとか渡さないとか、そういう話じゃない。もし相手が潔白な聖人君子なら、俺の出る幕はない。……ですが、どうも怪しく思えてしかたない」
慎はそう言い残して通話を切った。
深いため息を一つ吐き、慎は夕食の準備のために台所へと向かった。 しかし、野菜を刻む包丁の音がいつもより僅かに乱れていた。その様子を隣で見ていた長田三和が、訝しげに声をかける。
「慎くん、珍しいわね。何やら心ここにあらずって感じじゃない?……もしかして、佳山先生と喧嘩でもした?」
「いえ、先生の見合いの件で少し考えていただけです」
「えっ?」
「は!?」
「ふえっ!?」
慎は思考に没入していたせいか、ごく自然に、そして不用意に事実を口に滑らせた。 その瞬間、台所にいた長田の手が止まり、近くにいた山岡や、通りかかった真田施設長らが奇声を上げて硬直した。
「……あ」
慎は自分のうっかりに気づき、内心で舌打ちをした。
(失敗したか。我ながら抜けてるな……前世なら致命傷だぞ)
だが、今更取り繕うのも無駄だ。慎は包丁を置き、観念したように正直に話し始めた。
「……失礼しました。先生から相談というか、少し話を聞きまして。ご実家が相当に古風な考えの方らしく、三月に退職して戻り、見合いをするように言われているそうです」
「ええっ、佳山先生、そんな大変なことに……!?」
「今時、そんな無理矢理な話があるのかい……法律違反じゃないの?」
山岡や長田が同情の声を上げる中、真田だけは慎の冷めた表情の裏にある「毒」を敏感に察知した。
「慎……まさかとは思うが、お前、さっきの電話……探偵でも雇って、その見合い相手の弱みを探ろうなんて考えてるんじゃないだろうな?」
真田の問いに、台所の空気が一気に凍りついた。慎は視線を逸らさず、無機質なトーンで応じる。
「弱み、ですか。……まあ、無い方が良いんでしょうけどね、普通は。まだ解りませんよ…ただ、先生が嫌がっているのは事実なので」
その物言いに、大人たちは絶句した。 慎は口には出さなかったが、確信に近い疑念を抱いている。これまでの織田川芳子、進藤、それらの「悪意」の連鎖を考えれば、その見合い相手が善良な人間である可能性は、限りなくゼロに近い。 もし相手方に何か「黒いもの」が見つかれば、慎は躊躇なくそれを暴くつもりだ。
「おいおい……慎くん。君って本当、あの先生に入れ込んでるんだな」
山岡が、呆れたような、それでいて戦慄を隠しきれない声で漏らす。
「はい? 入れ込んでいる……とは?」
「とぼけるなよ、その有様で単なるお節介だとか言うのは滑稽を通り越して怖いぞ。探偵を雇って担任教師の見合い相手を調べるなんて真似、普通の高校生はしないんだよ」
「……でしょうね。ただ、自分じゃお節介のつもりですが」
慎は再び包丁を握り、大根の桂むきを始めた。薄く、向こう側が透けるほどに均一な皮が、さらさらと流れるように剥がれていく。
(まあ、情があるのは事実だが。今の所はお節介の域を超えてないよ。俺にとってはな)
慎は内心で独白した。 だが、その背中を見つめる長田は、堪らずといった様子で鋭い突っ込みを入れた。
「いや、重すぎるでしょ!? 高校生の恋なんてそんな生易しいレベルじゃないし!! 先生が他の男のものになるのが嫌で、探偵使って全力で破談させようとするなんて……情熱的を通り越して執念よ、執念!」
「いやぁ、そんな暑苦しい話では……」
慎は長田の叫びを受け流しつつ、静かに思考を沈めた。 そもそも、彼が麗奈と深く関わることを決めたのは、健次郎の情報でこの世界の真実――『女教師・奈落へ落ちる』という碌でもない官能小説のプロット――を知ったことによる、純粋な好奇心とお節介からだった。 本来なら、卑劣な人間たちの玩具にされ、尊厳をズタズタにされるはずだった一人の女性の運命。それに嫌悪感を抱き、変えてやろうと動いた。
そうして関わった結果、今は麗奈にすっかり絆されており、自分の中の熱量も確かに高まっていた。
(ふん、俺も随分と好色な男になったもんだな……)
慎は自嘲気味に口角を上げた。 今はまだ、山川からの報告を待つしかない。もし見合い相手の正体が、危惧しているような「碌でもない相手」であったなら……その時、慎は「高校生の久遠慎」としての皮を脱ぎ捨てることになるかもしれない。
「……とりあえず、三月までは静観です。何事もなければ、俺が騒ぐ必要もありませんから」
慎のその言葉は、職員たちにとっては何の安心材料にもならなかった。 何事も「ある」ことを前提にしているような、不気味なほどの落ち着き。 少年の恋というには重く、大人の情愛というには冷徹なその執着は、冬の夜空よりも深く思えた。
慎は再び無言になり、パーティーの料理でも作るかのような熱量で、夕食の準備に没頭していった。
――――――
慎が夕食の準備に戻った後も、職員たちの間に漂う奇妙な高揚感と戦慄は収まらなかった。
真田、長田、山岡の三人は、慎が去った談話室の隅で、声を潜めて顔を突き合わせていた。彼らが慎という少年を見守ってきて十年。六歳のあの日、自ら警察へ駆け込み、地獄のような実母との生活を法的に断ち切った時から、彼は常に「普通」の枠を飛び越えていた。
中学時代には親友のためにいじめを隠蔽しようとした学校の腐敗を暴き、高校へ入れば麗奈という担任教師をその守護下に置いた。慎が放つ冷徹な合理性は、時として周囲の常識を容易く粉砕するが、その根底にある「守るべきもの」に対する熱量は、恐ろしく凄まじい。
「……六歳の時から大概だと思っていたけど、あの子、本当にどこまで行くのかしらね」
長田が溜息をつきながら、ポットからお茶を注いだ。
「中学の小杉くんの時も、相手を社会的に再起不能にするまで徹底的に追い詰めたわ。でも今回は相手が違う。佳山先生の両親だっていうのに」
「慎くんにしてみれば、守るべき対象が親友から女……それも、憧れの担任教師に変わっただけなのかもしれませんが…」
山岡が腕を組み、渋い顔で頷く。
「今度の相手は、古臭い家風や親の勝手な言い分だ。慎がどうするつもりなのか……不幸な結末にならないことを祈るばかりだよ」
職員たちの記憶には、以前慎が麗奈をこの施設へ連れてきた日の光景が鮮明に残っている。あの時、慎は教師とは思えぬ美貌の麗奈に驚いた職員たちの「本当に普通の生徒と教師の関係なのか」という冷やかしに対し、一応は否定の立場を取っていた。しかし、今の彼の行動――自費で探偵を雇い、他人の家庭事情に土足で踏み込んでまで縁談を壊そうとする執念――は、もはや「単なる教師と生徒」という言い訳を完全に無力化していた。
その時、何かに気づいたように長田が「あ」と声を上げた。
「……今気づいたんだけど。もし慎くんが、その見合いを壊すことに成功したとして……そこから、慎くんと佳山先生の関係って、一体どうなるのかしら?」
その問いは、鋭い針のようにその場の空気を射抜いた。 今度は真田と山岡が、ほぼ同時にハッとした顔で「あ」と声を漏らした。
慎は今、麗奈が直面している「見合い」という火の粉を払うことに全ての思考を割いている。だが、もしその障害を力尽くで取り除いてしまったら、麗奈には慎以外に縋る術がなくなり、二人の間には後戻りのできない、共依存に近い濃密な関係性だけが残されることになるのでは?
「……慎の性格だ。見合いを壊した後で、しれっと『はい、これで解決しました。さようなら』なんて、淡白な幕引きをするとは思えないな」
「ですよね……」
わずかに震えた真田の言葉に、山岡も同意した。
「あの子がそこまでして守り抜いた獲物を……」
「おいおい…」
「あ、ごめんなさい。先生を、そのまま野に放つはずがないわよね。外堀から内堀まで、気がついたら逃げられないように埋め尽くされたりして……」
長田の想像に、真田が深く溜息を吐きながら、こめかみを押さえた。
「本来なら止めるべき立場だが、あの慎が動いている以上、我々にできることは……見守ることだけだろう。本当に不幸な結果にならないよう願うしかないな」
(でも、騒ぎになるのだけは確実かも…?)
長田はそう思って溜息を吐いた。
教師としての麗奈の困惑、そして慎の静かなる独行。 三月のデッドラインに向けたカウントダウンは、「決着のその先」をも含みながら、着実に進み始めていた。




