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見合いの話

三学期が始まって二週間が経った、一月の放課後。 窓の外には冬の夕暮れが広がっていた。


麗奈はデスクの引き出しに忍ばせている、手のひらサイズの「携帯用防犯警報器」にそっと指を触れた。去年の誕生日に、慎が無愛想に、しかし真剣な眼差しで贈ってくれたものだ。早いもので、あれからもうすぐ一年経つ。


(あと少しで、私も二十五歳か……)


ふと、この二年間を振り返る。人生で最も濃密で、そして劇的な日々だった。進学校での平穏な教師生活を想像していたはずが、気づけば数々のトラブルの渦中に立たされていた。


(久遠くんと出会ってから、私の周りは……。いえ、彼が悪いわけじゃない。むしろ、彼に助けられてばかりで)


慎は今や校内の一部で、彼女を陰から守る「ナイト」とまで呼ばれている。昨年末の忘年会での醜態――彼の膝で眠り、あまつさえお姫様抱っこまでされたという噂――を思い出し、麗奈は今更ながらに顔を赤らめた。


(確かに、距離を詰めすぎちゃったわね……。私、教師なのに。彼を頼りすぎている気がするわ)


自分を律しなければ。そう思い直し、明日の授業の準備に取り掛かろうとしたその時、スマートフォンのバイブレーションが、静かな室内で不気味な震動を上げた。


画面に表示されたのは「実家」の文字。 麗奈の表情が一瞬で曇る。重い指先で通話ボタンを押し、耳に当てた。


「……はい、お父さん?」


『麗奈。正月も帰ってこんとは、一体何を考えている?』


「それは……」


『まあいい、本題だ。以前から話していた例の件、いよいよ正式に決まったぞ』


「例の件って……お見合いのこと?」


『そうだ。相手は地元でも名の知れた資産家の一族だ。先方の御子息も乗り気でな。お前のような行き遅れに近い年齢の女には、願ってもない良縁だ。三月の半ばには式に向けた結納の場を設ける』


「え……? ちょっと、嘘でしょ……」


麗奈は絶句した。自分の意思など塵ほども考慮されていない、あまりに一方的な決定。


「待って、お父さん……! いくらなんでも一方的すぎるわよ!!」


『黙れ! 誰のおかげでここまで育ったと思っている。いいか、話はもうついているんだ。相手の方はな、事業の拡大で多額の資金を動かしている。お前が嫁ぐことで、我が家との絆を深めることこそが、家としての責務だ』


「何で……お金の話を……。私を、家の道具だと思っているの?」


『口を慎め。これでもお前の仕事の都合も考えて三月半ばまで待ってやるようにしたんだ。三学期の仕事が終わったら、荷物をまとめて帰ってこい。いいな』


「お父さん! 待って、まだ――」


通話は強制的に断たれた。麗奈は力なくスマートフォンをデスクに置いた。 父、佳山茂の言葉には、抗いようのない威圧感と、どこか焦燥に近い響きが混じっていた。


静まり返った職員室で、麗奈は震える肩を抱きしめることしかできなかった。


――――――


進学校である○○○高校において、二年生のこの時期は「三年生のゼロ学期」とも呼ばれる。周囲の生徒たちが受験という見えない怪物に怯え、血眼になって参考書を捲る中、久遠慎の成績は相変わらず、他の追随を許さない高みで安定していた。模試の結果が張り出されるたび、教師たちは感心し、生徒たちは諦めにも似た溜息を吐く。それが今の日常だった。


慎は窓の外を眺めながら、手元の手帳に目を落とした。 1月23日。もうすぐ、佳山麗奈の二十五歳の誕生日がやってくる。


去年、織田川芳子が慎の「過去」に勝手に触れたことで尻尾を巻いて逃げ出し、それから一息ついた頃。慎は都内のデパートで、偶然にも麗奈と会った。あの時、誕生日と知った慎はプレゼントとして、実用性のみを重視した「携帯用防犯警報器」を贈った。


それから一年。二人の信頼関係は、教師と生徒という枠組みを維持しながらも、より強固なものへと変質していた。


(今は、金が有り余っているからな……。あのお中元の時みたいに、何かまともな物でも贈るか。また防犯グッズだと、さすがに色気がないと言われるだろうし)


慎は、自分の手元にある十億円という資産の使い道をぼんやりと考えていた。世間一般の高校生とは乖離しすぎた、ある種「呑気」とも言える悩みだ。だが、その思考は休み時間中に廊下で妙な表情をしている麗奈を見た瞬間に霧散した。


「……先生。どうかしましたか?」


慎の問いかけに、麗奈は手に持っていた資料を机に置いた。その表情は、明らかに浮かない。


「えっ? ……あ、何でもないのよ、久遠くん。ちょっと、寝不足なだけだから」


「………」


「う………」


「『寝不足』?本当ですか?」


「あ、いや、その……」


麗奈は無理に口角を上げようとしたが、引き攣ったような笑みはすぐに消えた。慎は黙って麗奈の瞳を見つめる。彼の目をごまかすことは、今の彼女には不可能だった。二人の間には、もはや小手先の嘘が通用しないほど、濃密な時間が積み重なっている。


麗奈は、慎の射抜くような視線に根負けしたように、小さく溜息を吐いて肩を落とした。


「……やっぱり、貴方には隠し事は無駄みたいね。ごめんなさい、変な顔を見せて」


麗奈は組んだ指に力を込め、ぽつりぽつりと話し始めた。


「実家の両親が……ね。前に…2017年のお盆に帰省して、そこで一悶着起こしてから、ずっと避けていたんだけど、今回ばかりはもう勝手は許さないって言われてしまって」


「実家、ですか」


「ええ。三学期が終わるまでは待ってあげるから、必ず荷物をまとめて帰ってきなさいって。要するに、もう教師はやめて、親が決めた相手とお見合いをしなさいということなのよ……まだあなた達の時間が一年残っているのに……」


麗奈の声は、重苦しい湿り気を帯びていた。強引に、顔も性格も知らない相手と引き合わされ、そのまま家の駒として結婚させられる。彼女にとってそれは、死刑宣告に等しかった。


慎は無言で話を聞きながら、脳内で健次郎との会話を反芻していた。


――――――


『陵辱系の官能小説じゃ、ヒロインの家族なんてのは、まず出てこないのがテンプレだ。出たとしても、ヒロイン同様に美しい外見の母親や姉妹がサブヒロイン扱いで餌食にされるか、父親は出てきても娘を救う力もない、情けない小物の設定がほとんどなんだよ』


健次郎は以前、そう言って鼻で笑っていた。


『ふん、呆れるほどの負のご都合主義だな。理解に苦しむ』


『まあな。でも、不自然なほど家族が出てこないのは、裏設定があるからかもしれん。例えば、実家とは不仲で絶縁状態だとか……まあ、作者がそこまで考えてたかは知らねーけどな』


――――――


……現実のこの世界では、小説に一切出番のなかった佳山家が、不気味なほどの存在感を持って麗奈を縛り付けている。慎は以前から、この「空白の設定」が現実化した際の立ち位置に、拭い去れない違和感を覚えていた。


(どうもな……。そのお見合い相手とやらが、本当に善良な人間ならまだしも……。今までのパターンを考えれば、嫌な予感しかしない)


これは、麗奈への情が移りつつあることによる嫉妬などではない。慎は冷静に現状を分析していた。去年の進藤の件といい、麗奈の周囲には不穏な要素が多すぎる。一つ歯車が狂えば、即座に大事件へと発展しかねない危うさが、常に彼女に付き纏っていた。


本来の運命(小説)では、芳子の悪意を起点として、麗奈は辱めの日々に堕ちていった。進藤のような卑劣な輩も、その流れに乗じて彼女を傷つけるはずだった。だが、慎の手によって芳子も進藤も消え、そして他の「役者」たちも、切っ掛けがなくなったことで普通に平穏な日々を過ごしている。


(物語のプロットを破壊したことで、歪みが生じているのか? 本来出番のなかった佳山家が、形を変えて彼女を不幸へ引きずり込もうとしているのだとしたら………ん?)


「………」


ふと気づくと、麗奈が縋るような、今にも泣き出しそうな視線を慎に向けていた。彼女は無意識のうちに、自分を何度も窮地から救い出してくれた「教え子」に、言葉にできない救いを求めているようだった。


「……先生?」


「あ……ごめんなさい、その……つい……。こんな事を話しても困るだけよね…」


麗奈は慌てて視線を逸らし、立ち上がった。ちょうど、廊下から終業を告げるチャイムの音が響き渡る。


「あ、時間だわ。行きましょう、久遠くん」


「……ええ」


麗奈は努めて明るく振る舞いながら、足早に指導室を後にした。その背中は、以前よりもずっと細く、頼りなげに見える。


「…動くか」


慎はそう呟いた。

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