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遭遇

夏季休暇に入り、佳山麗奈は地元の実家へと帰省していた。しかし、この時期の帰省は、教師としての多忙とはまた質の異なる、重苦しい精神的疲労を彼女にもたらすものだった。


佳山家はこの地方で代々続く地主の家系であり、父・(しげる)は地域の顔役として一定の権威を持っていた。しかし、保守的で世間体を何より重んじる茂にとって、娘の麗奈は家名の価値を高めるための「所有物」に近い存在だった。


帰省初日、先祖の墓参りを済ませた後の夕食会は、麗奈にとって苦痛そのものだった。親戚一同が集まる座敷で、父・茂が当然のような顔をして話を切り出した。


「麗奈、実はな、お前に非常に良い縁談が来ている。相手は隣町の旧家の跡取りだ。家柄も申し分ない」


「そうよ、麗奈。あなたももう二十三なんだから。いつまでも独り身で、あんな遠方で独り暮らしなんて。お父様のご友人方も、あなたの将来を心配してくださっているのよ」


母・淳子(じゅんこ)が、茂の言葉を補強するように畳みかける。淳子もまた、厳格な良妻賢母を演じながら、その実態は娘の個性を一切認めない支配的な母親だった。麗奈の端麗な容姿を「佳山家の財産」としてしか見ておらず、娘が抱く教師としての矜持や、内面的な葛藤には理解が無い。


「お父さん、お母さん。何度も言っているけれど、私は今の仕事にやりがいを感じているの。結婚は、私の意志で決めさせてもらいたいわ」


「意志だと? 佳山家の娘が、親の持ってきた良縁を無碍にするというのか。お前が今の職を得られたのだって、少なからず私の人脈が影響していることを忘れるな」


茂が声を荒げる。実際には麗奈の努力による採用だったが、茂の中では「すべては自分の庇護下にある」という傲慢な理屈が成立していた。


「理想ばかり並べていないで現実を見なさい。女の若さと美しさは永遠じゃないのよ。私たちがどれだけあなたのことを思って……」


淳子の言葉には、一見愛情が籠っているように聞こえるが、その実、娘の人生を自分のコントロール下に置きたいという歪んだ執着が透けて見えた。


口論は一気に激化した。麗奈は自分の人生を親の価値観に押し込めようとする支配的な態度に反発し、両親はそれを「親不孝」だと責め立てた。見かねた叔父(淳子の弟)が慌てて「まあまあ、せっかくの盆なんだから!」と割って入り、宴は重苦しい空気のままお開きとなった。


麗奈はこのまま実家に留まれば、自分の心が疲弊してしまうと思った。彼女は深夜、引き止める両親の声を背に、逃げるようにして故郷から退散した。


帰りの電車内、窓の外を流れる景色を見つめながら、麗奈は座席で深く溜息をついた。


(実家に戻っても、結局疲れるだけだわ……。父も母も、どうしてあんなに私の話を聞いてくれないのかしら)


ふと、教え子の久遠慎の姿が脳裏を過る。親の庇護もなく、孤立無援の環境を自分の知力だけで生き抜こうとする彼の強さが、今の麗奈には眩しく感じられた。しかし…。


(久遠くんが言っていた「慣れてる」という言葉……。彼も、あんな風に誰かの都合で人生を決めつけられそうになったことがあるのかしら)


思索に沈みかけた、その時だった。


「キャッ! やめて!」


車両の端から上がった悲鳴が、車内の空気を一瞬で凍りつかせた。


「何だ、どうしたんだ?」


「痴漢か?」


麗奈が顔を上げると、そこには制服姿の女子高生が涙目で立ち尽くしており、その向かいでは顔を蒼白にした中年男性が狼狽していた。


「この人が、私のお尻を触ったんです!」


「冗談じゃないよ!私はやっていない、人違いだ!!」


男性は必死に潔白を主張したが、周囲の乗客の視線は冷淡だった。女子高生の訴えがあまりに真に迫っていたからだ。次の駅に停車した瞬間、騒ぎを聞きつけた駅員が駆けつけてきた。


麗奈が不安げにその様子を見ていたその時、人波を割って一人の少年が中心に立った。


「あー……ちょっといいですか。落ち着いてください」


(えっ?な、何で!?)


麗奈は驚いた…そこに来たのは私服姿の久遠慎だった。その声は、喧騒の中でも驚くほど冷静に響いた。彼は駅員と周囲の乗客を見渡し、極めて合理的な提案を口にする。


「この男性が痴漢かどうか、感情的に言い争うより確実な方法があります。この女子高生の服に、男性の指紋や繊維が付着しているか警察で調べればいい。そうすれば、冤罪か真実かは数時間で判明します。その方が話が早い」


慎の提案は、法的な物証の重要性を説くロジカルなものだった。男性はこれを救いの手と捉えて叫んだ。


「そ、そうだ! 警察に調べてもらう!!そうすれば私の無実は証明される筈だ!!」


すると、被害を訴えていたはずの女子高生が、途端に狼狽し始めた。


「な、何よそれ! そんな必要ないでしょう! 私が被害者なんだから、この人が犯人に決まってるじゃない!」


「…ん?」


「おい、何か怪しいぞ…」


指紋鑑定を頑なに拒否する不自然な態度に、周囲の、そして慎の視線が鋭く細められた。


「おやおや。どうして拒むんだい? 被害に遭ったのなら、証拠を揃えることは君の正当性を証明する盾になる。……それとも、何か困る理由でもあるのか?」


逃げ場を失い、論理的に追い詰められた女子高生は、一気に逆上した。彼女は手に持っていた傘を振り回し、慎に向かって襲いかかった。


「うるさい! 何なのよあんた!」


傘の先端が慎を捉える寸前、彼は驚異的な反応速度でその傘の柄を掴み取った。


「うっ、な、何……?」


傘はピクリとも動かない。慎はそのまま、流れるような動作で女子高生の腕を制し、関節を極めるようにして身動きを封じた。


「う、嘘!?やだ、離して!!」


「……やっぱり嘘だったか。何を企んでいたのかは知らないが、虚偽告訴罪というものがどれほど重い罪か、警察でじっくり教えてもらうといい」


慎の口調には、怒りよりも淡々とした呆れが含まれていた。


電車は駅に到着。間もなく駆けつけた警察官に対し、慎は状況を簡潔に、かつ客観的に説明した。女子高生による冤罪工作の可能性を淡々と指摘する彼の姿は、到底高校一年生の少年には見えなかった。


その一連の出来事を、麗奈はただ呆然と見守っていたが、やがて我に返った。


「久遠くん!」


慎は麗奈の声に気づき、足を止めた。


「え? ……佳山先生?同じ電車だったんですか……と言うか、もしかしてさっきの…」


「ええ…見てたわ。あなた、大丈夫?怪我は…」


「平気ですよ。ご心配なく」


安堵した麗奈はすぐさま警察官に向き直った。


「失礼します。私は彼の担任をしております、佳山麗奈と申します。未成年の生徒ですので、事情聴取には私が同伴いたします」


慎は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに「お願いします」と短く応じた。

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