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穏やかなクリスマス

麗奈は微かな意識の浮上と共に、胸元に感じる重みと温かさに目を向けた。そこには、幼い茜がぴったりと寄り添うように眠っている。 最初は麗奈の様子を見ていたが、いつの間にかまた潜り込んできたのだ。ふと、自分の身体から漂うであろうアルコールの残滓が気になり、麗奈は小声で囁いた。


「茜ちゃん……大丈夫?私、お酒臭くないかしら……?」


微睡んでいた茜は、麗奈の胸にさらに深く顔を埋め、ふにゃりと笑って答えた。


「だいじょーぶ……。ねーちゃん、おひさまの、いいにおいする」


「そう……ありがとう」


その無垢な肯定に、麗奈の心の強張りが解けていく。実家という閉塞的な環境、教師という虚飾の鎧、そして昨夜の失態。それら全てを忘れさせてくれるような子供の体温が心地よく、麗奈は吸い込まれるように再び深い眠りへと落ちていった。


昼過ぎ、ようやく完全に覚醒した麗奈が食堂へ向かうと、そこでは慎たちが昼食の片付けと、夜のパーティーに向けた仕込みの真っ最中だった。


「あ、佳山先生。顔色が良くなりましたね」


山岡が気さくに声をかける。調理台の前では、慎が手際よくナイフを動かし、食材を捌いていた。その背中は、朝に見たあの剥き出しの肉体の躍動を予感させ、麗奈は一瞬だけ視線を泳がせたが、深呼吸をして歩み寄った。


「皆さん、本当にお世話になりました。……久遠くん、色々と、その、本当に……」


「体調が戻ったのなら何よりです。車の手配はできています。アパートまで送りますよ」


――――――


山岡の運転する施設のワゴン車が麗奈の住むアパートの前に到着した。車を降りようとする麗奈に、慎が小さな紙袋と、丁寧にラッピングされた重箱を手渡した。


「これは……?」


「茜が『ねーちゃんに渡して』としつこかったので。それと、これは俺が作ったクリスマスの祝いの料理です。二日酔いの後ですから、胃に優しいものを選んだつもりです……口に合えばいいのですが」


「……ありがとう。大切にいただくわね」


麗奈は慎のどこかぶっきらぼうな、けれど細やかな気遣いに胸を熱くしながら、アパートの自室へと戻っていった。


夜。静まり返った部屋で、麗奈は好きな映画のDVDを再生し、慎から預かった重箱を開けた。


「……えっ?」


蓋を開けた瞬間、麗奈は首を傾げた。慎は「口に合えば」と謙遜していたが、そこに並んでいたのは、およそ一般家庭の、ましてや高校生が手作りしたとは思えないほど豪華な料理の数々だった。 厳選された素材の色鮮やかなテリーヌ、滋味溢れるコンソメで煮込まれた根菜、そして見たこともないほど肉質のきめ細かいローストビーフ。それは、高級レストランのフルコースを一つの箱に凝縮したかのような輝きを放っていた。


「これ、本当に彼が……?」


ひと口運べば、計算され尽くした繊細な味わいが広がる。慎の持つ「億万長者」としての財力と、前世で培われたであろう完璧主義が、一皿の料理にまで投影されているかのようだった。


麗奈は次に、茜からの紙袋を開けた。中には拙い字で書かれたメッセージカードが入っていた。


『ねーちゃん、またあそぼーね。めりーくりすます。あかね』


麗奈の目尻が、自然と熱くなる。 昨夜の醜態は一生の不覚ではあったが、結果として、自分はこの温かな繋がりに救われたのだ。


「穏やかね……。いいクリスマスになったかも」


映画の劇伴が流れる中、麗奈は独り、微笑みながら慎の作った料理を完食した。


――――――


一方、児童養護施設「□□□園」では、恒例のクリスマスパーティーが最高潮を迎えていた。 しかし、大広間のテーブルに並んだ料理を前にして、職員たちの表情には喜びと共に、どこか「引き気味」な困惑が混じっていた。


「……慎くん、流石に気合を入れすぎじゃないかしら?」


長田が、フォアグラのパテが添えられた前菜を眺めて零す。山岡も、たくさんの高級な料理を前に、頬を掻いた。


「まるで高級ホテルだな。まぁ、俺たちは嬉しいけどさ」


「さすが億万長者……。これでも、彼に言わせれば『まだ控えめ』なんでしょうね」


真田が苦笑しながら、慎の背中を見つめた。


「本当は、パーティーに佳山先生を呼びたかったんじゃないかな?」


「でも、無理はいけないよね。彼女も疲れていただろうし」


「……紳士だよね、彼は。距離の取り方が、高校生のそれじゃない」


職員たちのそんな囁きを余所に、慎は特等席にいた。


「にーちゃん、これ、おいしー! ぷりん、もっとたべる!」


「こら、茜。先に野菜を食べろ。プリンは逃げないから」


慎は、膝の上に乗って無邪気に騒ぐ茜を片手で支え、もう片方の手で彼女の口に小さく切った野菜を運んでやる。その顔には、普段の鋭利な殺気や冷徹な鑑定眼は消え、穏やかで柔和な兄の表情が浮かんでいた。


(何はともあれ、これで今年も終わりだな……)


慎は、賑やかな食堂の風景を見つめながら、内心で独りごちた。


本来ならば、原作小説において悲劇の歯車が大きく回り始める時期だった。織田川芳子の支配は強まり、進藤のような端役が麗奈の絶望を加速させ、彼女は救いのない泥沼へと沈んでいくはずだった。 だが、今ここにあるのは、そんな凄惨な運命の跡形もない、ただの騒がしく温かな日常だ。


「……メリークリスマス」


慎は誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。 外は凍てつくような冬の夜気。だが、慎の手の中にある「現在」は、彼が守り抜いた、平和そのものだった。

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