気の休まらないイヴの夜
深夜の児童養護施設「□□□園」に、ワゴン車が静かに滑り込んだ。
「えっ……慎くん!? なんで佳山先生を抱えてるんだ!?」
留守番をしていた職員の山岡が、玄関先で文字通り飛び上がって驚愕した。慎が腕の中の麗奈を慎重に女性職員たちに引き渡すと、真田が山岡の肩を叩き、事の経緯をかいつまんで説明した。
「……なるほど。災難でしたね、慎くん」
呆然と立ち尽くす山岡に、慎は短く「いえ」とだけ答え、溜息を吐いた。
「すみません。少し、頭を冷ましてきます。冷たい空気を吸いたいので」
「あ、ああ……」
「さすがに今日は、慎くんでも興奮したみたいね」
「佳山先生みたいな美人に密着されたら、そりゃ気が昂ぶるだろうな」
「無理もないな。お疲れ様、ゆっくりしてきなさい」
「…どうも」
長田や山岡達は「年相応の動揺」と解釈して苦笑いしながら送り出した。だが、施設を出た慎の瞳には、熱狂の欠片も残っていなかった。
――――――
その頃、施設の敷地から少し離れた暗がりに、一台のタクシーが停まっていた。
「……クソッ、ふざけやがって!!」
車を降りた進藤は、凍てつく夜の闇の中で、自身の不運と無念を呪っていた。居酒屋から執念深くタクシーで追跡してきた彼は、施設の入り口を確認し、フェンス越しに中の様子を窺っていた。
あと一歩だったのだ。麗奈を自分のモノにし、自分をゴミのように扱う故郷の親戚どもに、極上の勝利を宣言するはずだった。
(あの久遠が……あの生意気なガキさえ現れなければ!!)
慎への憎悪と、麗奈への歪んだ執着。進藤が暗い情念を爆発させようとしたその時、背後の闇から声が響いた。
「タクシーまで使って、ご苦労様です」
「――っ!?」
進藤は心臓が止まるかと思うほど驚き、振り返った。そこには、施設に戻ったはずの久遠慎が、ポケットに手を突っ込んだまま平然と立っていた。
「どうも、進藤さん」
「お前、なんで……。気づいていたのか……?」
「店を出た時から、後を引くような視線を感じていたので。退職前の貴重な時間を、こんな無駄な追跡に費やすなんて、随分と余裕があるんですね」
「う、うるせえ! 佳山先生を返せ!! お前みたいなガキが……彼女を独り占めしていいはずがねえんだよ!!」
進藤は逆上し、目に見えて震える拳を振り上げた。だが、一歩踏み出そうとした瞬間、彼の全身を「何か」が貫いた。
「…………」
慎が放ったのは、言葉ではなく純粋な殺気だった。戦場での「掃除屋」が纏っていた、死を呼吸する者の重圧。
「お、お前……一体、何なんだよ……!? その目は、なんだ!!」
進藤は恐怖を振り払うように慎に殴りかかった。しかし…
「おっと」
「うっ!?」
拳はあっさりと慎の手に止められてしまった。そんなに力を入れている様には見えないのに、止められた拳はびくともしない。大きな力の差があるのは明らかだった。進藤の足がガクガクと震え、一歩も動けなくなる。「この少年は危険だ」と、本能が警鐘を鳴らしていた。
「何だよこの力は…!お前、本当に何なんだ……!?」
「俺のことなんて、どうでもいいでしょう。それより進藤さん、何であんな卑劣な手を使って佳山先生を?」
「し……親戚が、あいつらが全部悪いんだ……! 俺を都合のいい駒としか思ってない。田舎に戻れば、また死ぬまで搾取される。だから、佳山先生を連れていけば、あいつらを見返せると思ったんだ……!」
地面に膝をつき、進藤は絞り出すように吐露した。慎はその姿を、憐れむでもなく、ただ冷たく見下ろしていた。
「……そういうことですか。俺には親戚なんてものが存在しないので、あなたの抱えるその手の苦悩や気持ちは、理解できないかもしれない…。でもね。佳山先生に強引に手を出して、それで『何もかもが上手くいく』なんてのは、思考がおかしいですよ。彼女を連れて行けば親戚が黙る? 逆でしょう。余計に面倒なことになる。あなたはただ、一番身近にいた『自分より弱そうなもの』に八つ当たりしようとしただけだ」
「あ、う……」
「彼女は、あなたの不遇を埋めるためのトロフィーじゃない」
慎はそう言うと、拳を止めていた手を離した。感情的に喚き散らしたかった進藤だったが、もはや言葉が出てこなかった。目の前の高校生は、理屈でも、力でも、そして魂の格でも、自分とは比べ物にならない場所にいた。
「俺は…俺は、ただ……ちくしょう……!」
残っていた歪んだプライドが、粉々に砕け散る。進藤は冷たいコンクリートの上で、力なく顔を覆い、子供のように泣きじゃくりながら、這うようにしてその場から去っていった。
「折れたか。小説の情報よりは同情できる部分があったが、それでも身勝手なのは変わらなかったな」
慎は、追い掛けたりはせず、夜の闇に消えていく進藤の背中を、見えなくなるまで確認した。
「まぁ…あれなら、もう二度と彼女に手を出そうなんて思わないだろう」
進藤はこの数日後、誰にも別れを告げずに退職し、故郷へと帰っていった。それ以降、彼がどのような人生を歩んだのかを、慎も麗奈も知る由はなかった。ただ一つ確かなのは、物語の「悪」がまた一つ、完全に清掃されたということだけだ。
慎はゆっくりと施設の門をくぐり、夜空を見上げた。
「全く、気の休まらないイヴの夜だよ」
吐き出した吐息が白く消える。施設の窓から漏れる温かな光を見つめ、慎は騒がしい「日常」へと足を向けた。




