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お姫様抱っこ

クリスマスイヴの夜。駅前の居酒屋の一角は、もはや忘年会の喧騒を通り越し、一種のパニックに近い混乱に包まれていた。


「はい~、すみませーん……。でも、もうちょっとだけ……」


武村主任の怒号を受け流し、麗奈はとろけたような笑みを浮かべたまま、慎の首にしがみついて離れない。それどころか、慎の胸元に顔を寄せ、猫のように喉を鳴らして頬擦りまで始める始末だ。


「あの……先生。役得ではありますけど、周囲の目がですね、流石に痛いと言いますか……」


慎は当惑した表情で、救いを求めるように周囲を見渡した。前世で数々の修羅場を潜り抜けてきた「掃除屋」の彼も、酒に酔った美女の無軌道な愛情表現への対処法など解るはずもなかった。


「いや、離れなきゃ意味ないでしょうが、佳山先生!」


武村が再び叫ぶが、麗奈は――。


「ふふ……ふかふか、じゃないけど。なんだか、とっても安心するの……」


「駄目だこりゃ」


慎は溜息を吐いて、身を任せた。やがて宴はお開きの時間が近づいてきたが、麗奈はそのまま慎の膝を枕にして畳の上でスースーと規則正しい寝息を立て始め、熟睡の深淵へと落ちていった。


「いや、あの、先生? 俺みたいなガキの膝枕で、妙齢の女性が眠ってどうするんですか。ちょっと」


慎は苦笑いを浮かべ、自分の膝に乗った麗奈の黒髪を指で軽く避けた。その無防備な寝顔は、学校で見せる凛とした教師の姿とは程遠い。


「あらら……なんて無防備な」


「不謹慎だけどさ……これって普通、逆じゃないのか?」


同席していた男性教師たちが、呆れ半分、羨ましさ半分といった様子で突っ込みを入れる。少年が年上美女の膝で甘えるなら分かるが、目の前の光景は、器の大きな少年に大人の女性が完全に寄りかかっているという、奇妙な逆転現象が起きていた。


そこへ、二階から施設の面々が階段を下りてきた。


「慎くん、そろそろ時間よ……って、ええええっ!? どうしてこうなったの!?」


先頭を歩いていた長田が、慎の膝で幸せそうに眠る麗奈を見て、目玉が飛び出さんばかりに驚愕した。その後ろから続く真田や職員たちも、一様に言葉を失っている。


「……長田さん、見ての通りです。先生、かなり限界だったみたいで」


慎の淡々とした説明に、長田は「限度ってものがあるでしょ!」と頭を抱えた。しかし、周囲に教師たちがいることに気づくと、真田は即座に表情を引き締め、施設長としての顔を作った。


「これは先生方。私は、この久遠慎が暮らしております『□□□園』の施設長、真田と申します。うちの慎が、日頃から大変お世話になっております」


「あ、いえ……こちらこそ。学年主任の武村です」


学校側と施設側。互いに名刺代わりの挨拶を交わすが、その視線の先には常に「教え子の膝で爆睡する担任教師」という無視できないイレギュラーが存在していた。


「……佳山先生、全然起きないわね」


長田が麗奈の肩を揺するが、麗奈は「んぅ……すごいお中元……」などと寝言を漏らすばかりで、一向に覚醒する気配がない。慎は、じっと麗奈の顔を見つめた後、決断を下した。


「真田さん……このまま先生を一人で帰すのは、今の状態ではあまりに危険です。今夜は施設で預かりませんか? 空いている部屋はありますし、長田さんたちがいれば問題ないはずです」


「ん? うーむ……確かに、危ういな」


この提案に、真田は少し考え込み、周囲の教師たちの顔色を窺った。


「そうだな。ご自宅に送るにしても、一人暮らしだと聞いた。この酔い方では、万が一のことがあっても気づけない。施設なら職員が常駐しているし、安心だろう。先生方、それでよろしいでしょうか?」


教師たちの間でも、安堵の空気が広がった。


「そうですね……。正直、私たちも彼女を一人で帰すのは心配でしたの。施設という場所なら、これ以上の安心はありませんわ」


武村も、眉間の皺を少しだけ緩めて同意した。


その流れに、一人だけ血走った目で割り込もうとする男がいた。用務員の進藤だ。彼は、自分の完璧な「戦利品獲得計画」が、指の間から砂のように零れ落ちていく感覚に、気も狂わんばかりの屈辱を感じていた。


「え、えっと……それは、大丈夫なのかい? 施設の規約とか、そういうのは……」


進藤は必死に言葉を絞り出すが、その声は上擦り、周囲には「心配性の用務員」という程度にしか映らない。慎は、そんな進藤の焦燥を見透かしたように、わずかに冷ややかな視線を向けた。


「規約なら真田さんが今、許可を出しました。……進藤さんも、もうお帰りになっては? 退職前の準備で、お忙しいのでしょう?」


「あ、ああ……。そう、だな……。でも、重くないのか? よければ、俺が車まで手を貸すぞ……?」


進藤が未練がましく麗奈の体に触れようと手を伸ばす。しかし――。


「『重くないのか?』……ですって?」


その瞬間、慎は流れるような動作で麗奈の膝裏と背中に腕を通し、一気にその体を引き上げた。


「――っ!?」


周囲から、短い感嘆の声が漏れた。165cmの長身で豊満なプロポーションを持つ大人の女性である麗奈を、慎はまるで重さなど存在しないかのように、軽々と「お姫様抱っこ」で抱え上げたのだ。


「結構です。それに進藤さん……女性の体重に関して、安易に触れるべきじゃありませんよ」


「あ、う……」


ぴしゃりと言い放った慎の言葉に、進藤は言葉を失い、幽霊でも見たかのように立ち尽くした。


「うーん……」


慎の腕の中で、麗奈は一瞬だけ身じろぎしたが、慎の体温を感じ取ると、さらに深くその胸に顔を埋め、安心しきった表情で眠り続けた。少年の細身の体躯からは想像もつかない筋力と、何よりその堂々とした佇まいに、教師たちは「これが本当に十七歳の高校生か」と絶句した。


「見世物じゃない。すぐに出ます」


慎は進藤の存在など、すでに視界の端にすら置いていなかった。彼は苦笑いを含んだ静かな声で周囲を促し、居酒屋の入り口へと歩き出す。


冬の冷たい夜気が、店を出た彼らの頬を打つ。


「慎くん……あなたね、流石に今日はかっこよすぎるわよ。後でじっくり事情聴取なんだからね」


長田が隣で小声で冷やかすが、慎は「やめてくださいよ」とだけ返し、駐車場に停めてある施設のワゴン車へと向かった。


車内へ麗奈を運び込み、後部座席にそっと横たえる。慎は彼女に毛布をかけると、その柔らかな寝顔をしばし眺め、小さく溜息をついた。


「……酒は飲んでも飲まれるな、本当に酔っ払いは危ないね」


そう言いつつも、麗奈を見る慎の目は優しかった。


背後では、進藤が街灯の影で、握りしめた拳を震わせながらこちらを睨みつけている。その殺気は、慎にとって「路上の野良犬」が吠えている程度の重みしかなかった。慎は教師たちに「それじゃ、後はこちらで……先生方もよいお年をお迎えください」と挨拶をした後、車に乗り込んだ。


「さて……行きますか」


慎は運転手に合図を送り、車は静かに走り出す。

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