用務員の進藤
二学期の終わりが近づく12月。冷え込む廊下を歩く慎の視線は、一点を捉えて離さなかった。
(また、あいつか……彼女に近づきすぎだ。距離の詰め方がおかしい)
一ヶ月前の11月、慎が十七歳の誕生日を迎えた日のこと…
――――――
放課後の無人の教室で、慎の誕生日を知っている麗奈は少し照れくさそうに「お誕生日おめでとう、久遠君」と、ささやかな祝いの言葉を贈ってくれた。その柔らかな空気の中、彼女に「ありがとうございます」と礼を口にした慎は、直後に微かな違和感を覚えた。
背後、半開きになったドアの隙間。廊下の闇に、用務員の進藤が息を潜めて立っているのを慎の感覚は捉えていた。
(もしかして……あいつ、見ていたのか?)
単なる通りすがりにしては、あまりに長い静止。あの時から、進藤の視線には「獲物」を定めるような粘着質な色が混じり始めた。
進藤は三十を少し過ぎた独身男で、手入れの行き届かない無精髭のせいで、どこか薄汚い印象を与える男だった。
健次郎の小説の知識によると…彼は、織田川芳子に支配された麗奈の窮状を偶然知る事になる立場であり、己の歪んだ欲望を満たすべく、便乗して彼女をさらなる泥沼へと引きずり込む卑劣な端役だったらしい。
慎は数ヶ月前、健次郎と交わした通信の内容を反芻する。
『用務員の進藤か。奴は小説じゃ偶然「現場」に居合わせただけの男だったけど、私生活の描写は皆無だったっけ』
「だが、それはあくまで読者の視点だ。この世界の彼には親類縁者は存在しているはずだ」
『そうだろうな。でも、そんなに絆がある方じゃないかもしれないぜ?』
「仲は良くない。つまり……事実上の孤独な人間ということか」
『慎、ああいう手合いは何かの「きっかけ」さえあれば、リミッターが外れる精神構造をしている設定なんだ。様子がおかしくなればそれは何かの「合図」だよ』
「『脅迫』を知って通報どころか便乗するような輩だ。短絡的な思考なのは確かだろうな」
『ああ。警戒しておくに越したことはないと思うよ?』
――――――
その懸念は、今まさに現実のものとなろうとしていた。 進藤は年内をもって退職し、地方の実家へ帰ることが決まっている。噂によると親族間の揉め事で「貧乏くじ」を引かされた形での帰郷らしく、周囲に漏らす愚痴には、隠しきれない焦燥と鬱屈が混じっていた。
(あんな、爬虫類かなにかみたいに、粘りつく視線を向けてきて……。凝視されたら身の毛がよだつだろうな)
校庭の隅で作業をしていた進藤が、校舎の窓際に立つ麗奈を凝視している。その瞳に宿る光は、以前の「普通の用務員」のそれではない。退職というデッドラインが、彼の中に眠っていた歪んだ欲望に火をつけたらしい。
そして放課後。人影のまばらになった廊下で、進藤が麗奈に接触した。
「佳山先生、少しよろしいですか」
「進藤さん、何でしょう?」
「例の学年行事の備品確認の件ですが……」
声は表面的には紳士的だった。だが、麗奈との距離が異様に近い。一歩、また一歩と無意識に後退る麗奈を、彼は言葉の壁で逃げ場を塞ぐように追い詰めていく。
「それは、事務局を通していただければ……」
「いや、直接…佳山先生に確認してもらわないと困るんですよ。お願いします、すぐ済みますから」
「え、でも…」
進藤の手が、麗奈の肩に触れようと伸びる。その指先には、理性を食いつぶし始めた焦りが滲んでいた。
「――佳山先生」
静かな声だったが、進藤の動きを止めるには十分だった。麗奈が弾かれたように声の主――慎の方を向く。
「久遠君……」
「失礼します。先生、以前頼まれていた資料の準備が整いました。今から確認をお願いできますか?……進藤さんも、仕事中に失礼しました」
慎は進藤に対し、警戒心を伏せて淡々と頭を下げた。進藤は舌打ちしたい衝動を辛うじて抑えているのだろう、不自然な笑みを浮かべて身を引いた。
「あ……ああ、それなら仕方ないな。佳山先生、また次の機会に」
「はい…」
進藤が去っていく背中を見送りながら、慎は確信していた。彼はまだ諦めていない。退職までに、麗奈に対して必ず「最後の一線」を越えようとするはずだ。
「助かったわ、久遠君。……ねえ、最近の進藤さん、どこか様子がおかしいと思わない?こういう言い方は失礼だとは思うけど、何だか少し怖くて…」
「ええ、確かに」
進藤の姿が見えなくなると、麗奈が困惑したように眉を寄せた。
「よっぽど…ご実家に帰りたくないのかしら」
「そうみたいですね。最近はそれについての愚痴が特に多いみたいですよ?」
「少し、気持ちが分かってしまうわね……私も両親とは折り合いが悪いから」
麗奈の瞳には、付け入る隙を与えかねない危うい同情が混じっていた。
「あまり、深入りしない方がいいですよ」
慎は感情を殺した声で、釘を刺すように言った。 最近は平和な日常が続いていたが、どうやらまた、看過できない事態が起きようとしていた。
(ったく、面倒だな…)
内心で溜息を吐きつつ、慎は進藤への警戒を強める事にした。




