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お中元

2018年、8月。 お盆の時期を迎え、都心からは人影がまばらになり、代わりにじっとりとした湿気と、暴力的なまでの熱気が街を支配していた。


麗奈は、冷房の効いた自宅のワンルームで一人、力なくスマートフォンの画面を眺めていた。通知欄には、実家の父・茂からの短いメッセージが居座っている。


『親戚の集まりでも、お前の不在が話題になった。恥をかかせるな。来月こそは、改めて設定した見合いの席に……』


「……また、これ」


麗奈は深い溜息とともに端末を放り出した。去年の夏、あの支配的な家を逃げ出すようにして帰京したあの日から、両親との溝は深まるばかりだ。実家に帰れば、待っているのは「佳山家の娘」としての役割の強要と、望まぬ縁談のみ。教師としての自分を、一人の人間としての意思を、彼らは一度として尊重してくれたことはなかった。


孤独と、拭いきれない疲労。自分を祝ってくれるはずの場所が、今では自分を追い詰める場所でしかないという事実に、麗奈の心は砂漠のように乾ききっていた。


そんな折、不意に鳴ったインターホンが、静まり返った部屋に響いた。 届いたのは、大きな保冷箱。送り主の名を見て、麗奈は目を見開いた。 『児童養護施設 □□□園 久遠慎・職員一同』


「え……?久遠くんから?」


梱包を解くと、そこには驚くほど豪華な品々が並んでいた。最高級の果物ゼリーの詰め合わせに、老舗ブランドのアイスクリーム。そして、産地直送の瑞々しい桃が、丁寧なクッションに包まれて鎮座している。


「えぇっ、何これ!? こんなに豪華な……」


箱の隅には、幼い手つきで描かれたカードが添えられていた。 『ふかふかのねーちゃん、あついから、つめたいの食べてね。あかねより』


「ふふっ……ありがとう、茜ちゃん」


それまでの沈んだ気分が、一瞬で温かな何かに塗り替えられていくのを感じた。慎の少し無骨な気遣いと、茜の無邪気な優しさ。血の繋がった両親よりも、血の繋がらない彼らの方が、今の自分を案じてくれている。 麗奈は、少しだけ泣きそうなのを堪えながら、冷えたゼリーを一つ、大切に手に取った。


「ありがたく、いただきます」


――――――


一方、その頃の□□□園。 送り出したお中元の内容を改めて確認し、真田施設長や長田三和たちは、揃って微妙な表情を浮かべていた。


「……なぁ、慎。いくら金が余ってるからって、流石にやりすぎじゃなかったか? あのラインナップ、デパートの特選ギフトの中でも最高級だぞ」


真田が頬を引き攣らせて問いかけると、慎は台所で洗い物をしながら、困ったように眉を下げた。


「……かもしれませんね。選んでいるうちに、悪ノリしてしまった様な気がします。少しでも良いものをと思ったんですが…」


「あれが『少し』ね…」


真田は苦笑した。慎は控えめに言っていたが、そこにはただ一人の女性の身を案じる男の熱が宿っていた。


その慎の様子を遠巻きに見ていた職員たちの間で、ひそひそと囁きが広がる。


「……やっぱ、怪しいわよね。あの慎くんの気の遣いよう」


「以前ここにいらした時に会ったけど、あの先生…同じ女の私達から見ても、魅力的な人だったわよね。慎くんもやっぱり『男』…」


「うーん、安心した様な…不安になった様な…」


「中学の時に、たった一人の友達の小杉くんを助けるためにあんな大立ち回りを演じたでしょ? もし佳山先生にそれ以上の執着を持っているとしたら……」


「うわぁ……胃が痛くなってきた」


「私、慎くんが卒業した後の展開が怖いわ」


「……本当に、あの先生をここに連れてきそうよね?」


「そしたら『僕の妻です』とか言ったりして?」


「年齢差、どれくらいだったかな…?」


「ちょっと、あんた女性の年齢を……」


職員たちの勝手な盛り上がりを背中で「やれやれ」と聞き流しながら、慎は窓の外の入道雲を見上げていた。 彼は、小説のプロットには一切登場しなかった、「麗奈の両親」という存在について考えていた。


以前、健次郎が「官能小説のヒロインの肉親が物語に出ないのは、単に設定の省略か、あるいは裏設定などで不幸な関係とされているからだ」と分析していた。実際、麗奈は実家の事を語りたがらない。

芳子という害悪は消えたが、それで彼女の両親との問題も一緒に解決する訳では無いのだ。


慎は、いつか来る卒業後の未来を、なんとなく頭に描く。 彼女が抱える呪縛を、力ずくで断ち切るべきか。それとも、彼女自身の足で歩めるようにサポートするべきか


(うーん。しかし、宏美先輩の時とは違うし……でしゃばりすぎるのもな。我ながらヘタレかもしれん)


自分の立ち位置に自嘲しつつ、慎は思考を切り替えた。


(ま、今はあのお中元で元気を出してもらおう。まだ卒業まで一年以上あるし、慌てずに見守るか)


慎は、使い慣れた布巾で手を拭き、日常の作業に戻った。 今はまだ、彼女を「先生」と呼び、適度な距離から守護し続ける。その境界線がいつか崩れる時が来るとしても、それは今日や明日ではないはずだから。

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