宝くじが当たった
2018年、7月。
連日の猛暑がアスファルトを焼き、陽炎の向こう側で蝉が狂ったように鳴き立てている。本来ならば、原作小説『女教師・奈落へ落ちる』において、麗奈の精神が磨り減り、破滅へのカウントダウンが加速する過酷な時期となる筈だった。
しかし、現在の〇〇〇高校にその気配はない。元凶たる芳子は物語が始まる前から舞台である学校を去り、クラスも麗奈の献身によって平穏を保っている。 学年主任の武村に釘を刺されたこともあり、慎はあえて麗奈と公の場での距離を置いていたが、二人の間には、言葉を介さずとも通じ合う、静かな信頼の川が流れていた。
そんな中、慎は別の高校に通う健次郎と、スマホで慎重な密談を続けていた。
『当たるかどうかは解らないけどよ、持ってて損は無いよな?』
健次郎の声は、興奮を押し殺した特有の熱を帯びていた。
「ああ、当たれば金銭に関しては今後は随分と楽になるだろう。ただ、周りが五月蠅くなりそうだが」
慎は周囲を警戒しながら、短く応じる。
二人が狙っていたのは、キャリーオーバーが発生している数字選択式宝くじだった。 きっかけは、健次郎が持っていたメタ的な知識にある。
小説では7月半ば、芳子との関係が拗れてストレスを溜めていた(本来の)健次郎が、何となく買った宝くじの当選確認をするシーンがある。
◇
『1、4、7、15……×、×、33!? くそ、外れたか……』
そして、僅かに当選したその金で何か美味い物でも食べに行こうと出掛ける。
◇
そんな何気ない日常の一コマだったが、「外した数字」の裏側。つまり、その物語上の「正解」を、転生者の健次郎は記憶していた。その時期は正に今現在だ。
『解っているなら、くじを買わない理由は無いよな?』
その誘いに、慎も否はなかった。金という物は、多ければ多いほど良い。
――――――
そして運命の日。慎は自室で、健次郎と通話を繋いだままスマホの画面を見つめていた。 公式サイトに表示された数字は、二人が毎週買い続けていた「小説の健次郎の失敗の裏返し」と、一分の狂いもなく一致していた。
一等、十億円。それも、口数は二口のみ。
「おお…!」
『よっしゃああああ、大成功だ!!』
スピーカーから健次郎の絶叫が響く。慎もまた、ふっと口角を上げ、思わず笑みがこぼれた。
「……全くだ。上手くいきすぎて怖いくらいだ」
それから1時間ほど色々と盛り上がった会話を終えると、慎はすぐに冷静さを取り戻した。 日本の法律において、未成年者が宝くじを受け取ることに制限はない。しかし、慎は児童養護施設で暮らす身であり、十億という巨額の当選金は個人の範疇を優に超える。銀行での手続きや、今後の資産管理を考慮すれば、信頼できる大人の協力は不可欠だった。
数十分後。慎は真田施設長のもとを訪れ、スマホの画面と当選券を淡々と提示した。
「――っ!?」
真田は、言葉を失って椅子から転げ落ちそうになった。その動揺は瞬く間に職員たちへと伝染し、□□□園はかつてないお祭り騒ぎへと発展した。
「し、慎……お前、これ!!」
「マ、マジなの!?」
「ゼ、0が…0がいくつあるのよ!?」
「ぎょえええええ!?」
「す、すごーい!!慎君、億万長者じゃないの!」
長田三和をはじめとする職員たちが、慎を取り囲んで叫ぶ。真田は青い顔で窓の外を確認し、 「うおおお、早く戸締まりをしないと!!」 と、防犯意識を爆発させていた。その喧騒の中、眠い目をこすった茜が慎の裾を引く。
「ねーねー、お祭りなの?」
「ああ、そうかもな。……茜、今度美味しいケーキを腹一杯食べさせてやるよ」
慎は茜の頭を撫でながら、静かに思考を巡らせていた。 十億円。税法上、宝くじの当選金は非課税だが、これをどう運用し、どう守るか。
(これで資金も潤沢になった……まぁ、現実の問題に金はいくらあっても足りないだろうが……これだけあれば……)
前世の経験から知っている。金は自由を買うための最強のツールであり、同時に人を狂わせる毒だ。扱いには慎重にならなければいけないのが当然である。
(まずは……そうだな。佳山先生に高価なお中元でも贈るか)
慎の脳裏には、驚いて目を丸くする麗奈の顔が浮かんでいた。 「ナイト」という噂を否定したばかりだが、図らずも彼は、一国の軍事予算にも匹敵するような「黄金の剣」を手にしてしまった。
(ま、健次郎とも話し合った通り、『溺れない』ように気を付けるとしよう)
慎は当たりのくじを見ながら、そんな事を思った。
――――――
そして、数日後…慎は真田施設長に付き添われ、当選金の手続きをすべて完了させた。応接室で対応した銀行員たちは、慎の落ち着き払った態度に驚愕していた。天涯孤独の身でありながら、自らの運命を切り拓くように巨万の富を手にした高校生。その背後に、彼らは勝手に壮絶な「人間ドラマ」を幻視していたが、慎の内心はもっと事務的なものだった。
「……終わりましたね」
「ああ……。手が震えて、まともに印鑑が押せなかったよ」
銀行を出た二人は、慎の提案で一杯千五百円もする、その界隈では有名な高級ラーメン店に入った。分厚いチャーシューが何枚も重なり、黄金色のスープが輝いている。
「……美味いな」
「そうですね」
二人が言葉少なく麺を啜っていると、慎のポケットのスマートフォンが震えた。健次郎からの着信だ。
『よお、慎。こっちも終わったぜ』
スピーカーから漏れる健次郎の声は、高揚感に満ちていた。あちらも手続きを終え、現在は有名ホテルの鉄板焼きランチに舌鼓を打っているらしい。
『報告した時の両親は本当に卒倒しそうになってさ、今じゃ母ちゃん「これは夢だわ」って言いながら、震える手でフォーク握ってるよ』
「だろうな。……小説には、お前…いや、『桜田健次郎』の家族の描写は無かったと聞いたが、その様子だと良好らしいな」
『ああ。前世じゃ孤独な独身警備員だったが、今世の両親は最高だよ。だからこそ、この金は大切に貯金して備えるさ。せいぜい古くなった日用品を買い替えて、たまに美味いもん食う程度にするわ。中身が庶民だから、無駄遣いの方法すら思いつかねえしな』
健次郎は自嘲気味に笑った。前世で警備員として地道に働いていた彼は、金に溺れるよりも「平穏の維持」を優先する方針のようだ。
「俺の方も、佳山先生の周辺は平和そのものだ。それに、これだけ金があると、正直、気を緩めそうになる」
『いいんじゃねえか、今日くらいはよ。十億だぞ、十億』
「ははは、それじゃまたな」
通話を終えた慎は、スープを飲み干して真田と共に席を立った。
――――――
何日かして、慎は居間に集まった職員や年長の子供たちに、記帳された通帳を提示した。
「……うおおおおおおおおっ!!」
地鳴りのような驚嘆が響く。並んだ「0」の羅列に、長田三和は「目が、目が潰れる……」と大袈裟に顔を覆い、他の職員たちもまるで御神体でも拝むような顔で慎を見つめている。
一段落したところで、慎は長田に声をかけた。
「長田さん。後で……佳山先生へのお中元について、アドバイスをもらいたいんです。百貨店のカタログとかありますか?」
「えっ?佳山先生にお中元?」
その言葉に、真田が隣からある疑問をぶつける。
「おい…慎。お中元なんて言ってるが、まさか箱の中に『結婚指輪』とか紛れ込ませるんじゃないだろうな?」
「……何でそうなるんですか。まだ俺は高校生ですよ」
「いや、お前はもう精神的にも経済的にも、そこらの一人前の大人以上だからな。その気になれば、佳山先生のような女性と婚約の約束くらい……お前ならやりかねん」
慎は一瞬、遠くを見るような目をして、小さく息を吐いた。
「それも……悪くない話ですけどね。でも、今はまだ、お中元です」
そのわずかな「間」と、肯定を含んだ返答。長田三和は、慎の横顔を見て確信した。
(あら……。やっぱり満更でもないのね、あの子)
その夜、□□□園の食卓には、慎が振る舞う最高級の和牛と、茜が喜ぶ色とりどりのケーキが並んだ。 物語の筋書きを力尽くで捻じ曲げ、手に入れた大金。 慎は騒がしい居間の喧騒を眺めながら、自分の中に宿る冷徹さが、少しずつこの温かな「贅沢」に解かされていくのを感じていた。
だが、彼は知っている。金は守るための武器であって、平和そのものではないことを。
(せいぜい、大切に使うさ)
そう独白し、慎は買ってきた高いジュースを飲み干した。
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