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落胆と逆恨みと秘密

慎が放つ凄まじい「圧」の前に、織田川芳子たちがけたたましい足音を立てて去った後、麗奈はしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。


ふと視線を感じて顔を向けると、そこには先ほどの凍りつくような威圧感を霧散させ、いつもの穏やかな、そしてどこか達観した表情を浮かべる慎が立っていた。


「すみません、先生」


慎は麗奈に対し、申し訳なさそうに言葉をかけた。


「嫌なことに巻き込んでしまいました」


その言葉に麗奈はハッと我に返り、慌てた。


「だ、大丈夫よ! 私こそ、もっと早く注意するべきだったわ。それより、久遠くん……あなたは平気なの? その、織田川さんの言ったこと」


麗奈は、芳子が口にした「親がいない」「施設育ち」という無遠慮な侮辱を、あえて言葉には出さなかった。慎は、そんな麗奈の狼狽を宥めるように微かな笑みを浮かべた。


「俺は大丈夫ですよ。何も知らない人間を相手にするのは、慣れてますから……」


「えっ?」


「慣れてる」という一言が、麗奈の胸にちくりと刺さった。先ほどの底知れない迫力が、その言葉に重い実在感を与えていた。


「『慣れてる』って……」


「あ、いけね……。今言ったことは忘れてください」


麗奈の問いに、慎は「しまった」という顔をして、咄嗟に右手で口元を押さえた。その仕草は、先ほどまでの冷徹な姿とは打って変わって、年相応の少年らしさを感じさせるものだった。


麗奈は戸惑いながらも、その言葉の真意を探ろうと視線を向ける。


(「慣れてる」ですって……? まるで、こういう理不尽な偏見を、日常的に経験してきたような言い方)


職員会議で聞いた「施設育ち」という背景。過酷な環境を生き抜くために、彼はその若さでこれほどまでに「武装」せざるを得なかったのだろうか。麗奈は、彼が背負う重荷を無視してはいけないと強く感じた。


麗奈は慎の目を真っ直ぐに見つめ、優しく、しかし真剣な眼差しを向けた。


「久遠くん、もし何か悩みがあるなら……私に話してくれないかしら。私はあなたの担任なんだし、力になりたいの」


しかし、慎の反応は麗奈の予想とは異なっていた。彼は麗奈の気遣いを受け取る代わりに、静かに、そしてきっぱりと境界線を引いた。


「あー……すみません、先生」


慎はそこで言葉を区切り、深く一礼した。


「俺も、人には言いたくないことはあるんで」


それは明確な拒絶だった。慎はもう一度短く会釈をすると、夕闇の迫る廊下を足早に去っていった。一人残された廊下で、麗奈は自分の不甲斐なさに小さく肩を落とした。


「失敗したかも……」


生徒の心に寄り添おうとして、逆にその壁を厚くしてしまったのではないか。教師としての未熟さに、麗奈はひどく落ち込んだ。


――――――


一方、織田川芳子は取り巻きたちを引き連れて階段を駆け下りながら、いまだに心臓が喉から飛び出しそうなほどの動悸を感じていた。


麗奈に指導されたことへの苛立ちよりも、久遠慎が最後に見せたあの氷のような眼差しと、逃げ場を塞ぐような声の圧力が、彼女の頭から離れない。


(何よ……何なのよ、あれ! なんで私が、あんな一年のガキ相手に逃げ出さなきゃいけないのよ……!?)


芳子は、自らの血筋と財力を盾に、弱者を一方的に見下す万能感の中で生きてきた。しかし、慎が突きつけたのは感情的な反論ではなく、「社会的・現実的な不利益」という名の刃だった。


自分の特権が通用しないどころか、逆にその特権を人質に取られるような感覚。本来なら「施設のガキが何を言っているの」と一蹴できたはずだった。だが、慎が放つ刺すような冷徹な気配が、彼女の思考を強制的に停止させてしまったのだ。まるで、自分が世間知らずの子供であるかのようにあしらわれた屈辱が、彼女のプライドを引き裂いていた。


踊り場で足を止めた東雲宏美が、顔を青くしたまま、恐る恐る口を開いた。


「ねえ、織田川さん……。あの久遠っていう子、関わらない方がいいんじゃない? 何か、普通じゃないわよ。おかしいって」


「そうだよ、芳子。あいつ、雰囲気があまりに変だわ。まるでこっちの考えてること全部見透かしてるみたいな……。あれ、本当にただの一年生なの?」


取り巻きたちの間に広がる怯えは、慎が提示した具体的な脅威と、彼自身が醸し出す得体の知れない迫力に由来していた。彼女たちは、芳子の親の権力という目に見える盾よりも、慎の持つ予測不可能な「冷たさ」を本能的に恐れ始めていた。


しかし、芳子はその恐怖を認めることができなかった。認めれば、自分の価値観が根底から崩れ去ってしまうからだ。


「何言ってんのよ、あんたたち!!」


芳子は苛立ちを爆発させ、手近な手すりを激しく叩いた。


「あいつが何よ! ただの施設育ちの貧乏人が、多少知恵が回るからって生意気な口を叩いているだけじゃない。……それに、あの佳山があんなところでしゃしゃり出てこなければ、あんな不快な思いをしなくて済んだのよ!」


芳子の中で、慎に対する正体不明の恐怖は、より「攻撃しやすい対象」への憎悪へと変換されていった。


慎とは違い、麗奈は彼女にとって「無駄に美しい上に、自分の邪魔をする、鼻持ちならない教師」という、明確な標的でしかなかった。


(あの女……本当に目障りだわ。「担任だから」とか言って教師風を吹かせて。佳山があんなところで出てくるから、私が恥をかく羽目になったのよ……)


慎から逃げるしかなかった敗北感は、麗奈に対する理不尽な八つ当たりへと形を変え、醜く歪んでいった。


――――――


校舎を離れようと歩く久遠慎。その表情は、麗奈に見せた「穏やかさ」とも、芳子へ向けた「冷徹さ」とも違う、深い倦怠感の混じった色を帯びている。


慎は重い溜息と共に、ぽつりと独白を漏らした。


「あんな目で見られると……何ともやりにくいな。まぁ、俺の事情を馬鹿正直に話すわけにはいかないし、仕方ないか」


先ほどの麗奈とのやり取りを思い出しているのか、彼はポケットからスマートフォンを取り出し、手慣れた手付きである番号を呼び出した。


「もしもし、俺だ……。ああ、思った通り織田川芳子が接触してきた。それと……佳山れ……いや、佳山先生が、俺に色々と気を遣うようになってな……」


スマートフォンで誰かと会話をしながら、慎は足取りを早め、影が長く伸びる校門へと向かって歩き出した。その表情からは、もはや一介の高校生としての幼さは消え去っていた。

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