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閑話・料理

慎にとって、料理とは数少ない「心を落ち着かせるための作業」だった。 殺伐とした前世において、不味いレーションや乾いたパンで命を繋ぐ日々の中で、自ら包丁あるいはサバイバルナイフを握り、獲物を捌いて熱を通す時間は、自身の人間性を繋ぎ止めるための手段でもあった。


その前世からの「趣味」が、周囲を驚かせる異能として開花し始めたのは、彼がまだ小学生の頃だった。


――――――


それは、五年生の家庭科の授業でのことだった。献立は、ごくありふれた野菜炒め。 周囲の子供たちが、慣れない手つきで包丁を握り、おっかなびっくりジャガイモの皮を剥いている中、慎は一人、異質な空気を纏っていた。


「……よし」


慎の手元で、包丁が規則正しいリズムを刻む。トントントントン、と軽快で淀みのない音。ニンジンは正確な厚さのいちょう切りにされ、ピーマンは寸分狂わぬ千切りへと姿を変えていく。


「ちょ、ちょっと、久遠くん!? その包丁の使い方は一体どこで……」


巡回していた家庭科の教師が、慎の手元を見て絶句した。 猫の手、という基本は守られているが、そのスピードと正確さは、主婦のそれをも凌駕し、プロの職人に近い。


「……これですか? 施設の台所を手伝っているうちに、見よう見まねで覚えたんですよ。便利ですよね、これ」


慎は、前世で「急所を正確に断つ」ために磨き上げた空間把握能力と指先の制御を、ただ野菜を刻むためだけに動員していた。


「見よう見まねって…………」


「趣味みたいなものですから。毎日やっていれば、誰でもこれくらいはできるようになりますよ」


そう言って、慎は穏やかに笑った。 その数分後、完成した野菜炒めを一口食べた教師は、再び絶句することになる。火の通り具合、調味料の配合、そして野菜の歯応えを活かす切り方。どれをとっても、小学生の調理実習の域を完全に逸脱していた。


「……久遠くん。あなた、将来はシェフになるつもり?」


「ただの趣味ですよ。美味しいものを食べるのは、誰だって好きですから」


この一件はすぐに施設の真田施設長や職員たちの耳にも届き、慎は「たまに」という条件付きで、施設の夕食作りを手伝うことになった。


――――――


それから数年後。慎が中学二年生の夏休みのことだ。 施設の親睦会を兼ねて、山奥でのキャンプが開催された。その際、地域の猟友会との交流企画で、仕留めたばかりの「鹿」を自分たちで捌き、ジビエ料理を体験するというプログラムが用意された。


「ひぇっ、これ、本当にやるの……?」


「血の匂いがすごいよ……」


年下の子供たちが顔を引き攣らせ、大人たちでさえ腰が引けている中。慎だけは、貸し出された解体用ナイフを静かに手に取り、獲物の前に膝をついた。


「慎くん? 大丈夫かい、無理は……」


職員が声をかける間もなかった。 慎は迷いなく、鹿の喉元からナイフを入れ、皮と肉の間に刃を滑らせた。その動きには一切の迷いがない。関節の位置、筋の走り方、内臓を傷つけずに取り出すための角度。すべてを熟知している者の動きだった。


「……まずは、血抜きを完璧に。それから皮を引いてと。内臓は……後でスープの出汁に使える部位と、そうでないものを分けて……それから……」


慎は淡々と手を動かした。返り血が頬についても、彼は眉一つ動かさない。その手際の良さは、「慣れている」という言葉では片付けられない、一種の凄みさえ孕んでいた。


「お、おい……。坊主、お前……どこかで教わったのか?」


猟友会のベテラン猟師が、開いた口が塞がらないといった様子で慎に問いかけた。


「……いえ。図鑑や動画で独学しただけですよ。仕組みが分かれば、後はその通りにするだけですから」


(嘘は吐いてないよ。仕組みを学んだのは、前世だけどな。……あの時は過酷だったっけ)


慎の脳裏に、前世での「狩り」の記憶がよぎる。 アラスカの極寒地帯での任務中、食料が尽き、遭遇した巨大なグリズリー。 暗視ゴーグル越しに捉えた、山のような巨体。慎は、手入れの行き届いたサイレンサー付きのライフルでその眉間を撃ち抜き、動きが止まった瞬間にナイフで頸動脈を断った。


あの時は、生きるために必死だった。 咆哮する巨獣の熱い返り血を浴び、凍える指先で皮を剥ぎ、その赤身をナイフで削ぎ取って、焚き火で炙って食らった。


(あの時のグリズリーはしぶとかったが、まぁ味は悪くなかったな。……それに比べれば、日本のジビエは下処理も楽だし、調味料も豊富だ。天国みたいなものだよ)


「慎くん……君、本当に中学生だよね?」


職員達が呆然と呟く中、慎は肉の解体を終えた。


「さあ、焼きましょう。新鮮なうちに食べるのが、命に対する一番の礼儀ですから」


――――――


そして、現在。 慎は時折、趣味で料理を親しい人達に振る舞っている。


「にーちゃん、今日のご飯、すごくいい匂い!」


「おっと、茜。危ないから火のそばには寄るなよ。……もうすぐできるから、座って待ってろ」


手際よくパエリアを仕上げ、ガーリックシュリンプに火を通す。 かつての自分は、返り血を浴びながら泥水を飲んでいた。だが今は、清潔なエプロンを締め、大切な人たちの笑顔のために包丁を握っている。


(事件や事故はあるけど、比較的治安が良くて平和な日本でなら、趣味の腕を上げられるからな。……毎日が楽しいや)


前世で人を殺めるために磨いた「解剖学」の知識は、今、魚の三枚おろしや肉のトリミングを極めるための平和な技術へと転換されている。 慎にとって、包丁はもう武器ではない。誰かを癒やし、満たすための道具だった。

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